『ストーナー』(1965)- 1

f:id:kilgoretrout:20160206210236p:plain

あらためて言う必要もないのだろうけど、説明するのに難儀するタイプの小説がある。難儀の仕方にも、筋が入り組んでいて複雑とか、思弁性が高くて長ったらしいだとか、特定の分野に知悉しているのが前提もしくは推奨とかいろいろある(ちなみに最も説明が苦とならないのは思想小説。国威発揚映画と同じ理屈)。『ストーナー』は複雑でもないし、能書きの類もないし、歴史や宗教や哲学や科学や文学や美術や音楽やサブカルチャーに詳しくなくても読める。でも、説明するのが難しい。省略すると意味がなくなってしまうからだ。そういう(名言コレクション集的でなく、全体として捉えるしかないという)意味では非常に小説的だと言えるかもしれない。

すべての小説は三行にまとめられると誰かが言っていたし、この小説もそうすることができる。舞台は1910年〜、アメリカはミズーリ州。生真面目で朴訥な男、ウィリアム・ストーナー。彼は田舎での極貧育ちながら大学教育の機会に恵まれ、偶然の導きによって古典文学にふれ、それに魅入られて農家を継がず、往時半ば当然であった従軍にも背を向けて大学に残り、文学の考究に努める。不如意な夫婦生活と大学での教員生活にも意気を失わず、ままならぬ現実を厳粛に受けとめながら、よりよい教育と仕事の完成に向けて地道に苦闘しつづける。四行ちょっとかかった。本書のあとがきでは九行でまとめられている。その前段で評判について、ヨーロッパでの反響に比して「主人公があまりに忍耐強く受動的で、華やかな成功物語を好むアメリカ人に受けなかった」と説明されている。

これも、この小説を語ることが難しい理由のひとつだ。あらすじで説明する相手を魅了するのが難しい。受けとったものは得がたく重いものなのに、ストーリー自体は凡庸というか、まずもって目を引くでかい出来事がない。殺人犯が世界の中心で愛を叫んだりしないし(1969)、とある男が女と寝た場所に必ずV2ロケットが落ちてくることもないし(1973)、トラルファマドール星人が時空をかき乱したりすることもない(同年)。『ストーナー』は1965年の作品。主人公、ストーナーの青春期前半は1920年代、つまりフィッツジェラルド『グレート・ギャツビィ』と重なることになるが、作中には好況期の面影やジャズ・エイジの浮かれた喧噪の気配など微塵もない。アメリカ的な、活力に満ちて滑稽だがどこか偉大さを帯びていて、なおかつ失敗するようなヒーローが出てこない(この系譜には、新しめのものでは『ガープ』も含められるだろう)。彷徨を象徴とするビート・ジェネレーションはもうすこしまえの流れだが、ストーナーはほとんど家と大学を往復するだけだ。ヒップな逸脱行動もない。彼は戦地に赴くこともなく、ヘミングウェイ的にそこから材がとられるというようなこともない。そう、小説にあってしかるべき、風変わりな「材」がない。一方でミニマルでもない。ミニマルな人生などない。材ではなくひとがある。だから、タイトルにはそのひとの名が冠されることになる。

ここからは説明しづらさというより、受けなかった理由についてだが、アメリカの文学的潮流をすこしひもといて、突き詰めてみる。先の時空をかき乱すトラルファマドール星人というのは、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』のことで、僕はこの作家(というかおじさん)が大好きなのだけど、小説好きがあまり知られていない名前を挙げて得意ぶれるようなマイナーな小説家ではない。アメリカ学園もの映画の解題本、『ハイスクール U.S.A.』によると、大学生にはサリンジャーの『ライ麦』よりも『5』のほうが好まれるそうだ。たしかにヴォネガットの存在感はそもそも大学で育てられた。畑違いで時代も違うが、ミュージシャンのベックも同じだ。新しいものをくもりのない感性で感得し、なおかつ正当に評価できる世代はいつもだいたいそのへんにかたまっているのかもしれない。ヴォネガットはこの大出世作によって破格の成功を収め、一躍、人気作家どころではない大家になった。それは間違いないし、小説も読者がそのような印象をもたざるをえない別格の新しさと傑作感に満ちてはいる。たいした長さではないのに、マスターピースと呼ばれる文物がほとんどそうであるようにこの小説は作者を超えている。ヴォネガットはこの一冊しか読んだことがないという読者は少なくないというか、ほとんどがそうだろう。ただ、彼の人気と彼への支持はこの小説にのみ、その端緒があるわけではない。

2013年に刊行されたヴォネガットの評伝に『人生なんて、そんなものさ』がある(原著は2012年)。原題は『AND SO IT GOES』。So it goes.は『5』で誰かが命を失ったら直後に必ず付される言葉。ふざけと諦めの響きをもつこの「そういうものだ」は作中で何度も何度も繰り返されるうちに、次第にどのようなささいな死も見逃さない鎮魂の色彩を帯びてくる。この本は、ヴォネガットの従軍体験と、混乱した執筆の様相を含む実人生(男のだらしなさ)にくわえて、彼の作品が当時の文学的潮流とどう切り結びながら布置されていったかを明らかにしている。けっこう長いが、読んでよかったと思えるのは『スローターハウス5』の滑稽な主人公、ビリー・ピルグリムのモデル、エドワード・クローン兵卒(ジョー)について知れたことだ。さて、『5』が出版された頃(1973)の文芸シーンの状況はどのようなものだったか。

 だが、カートが若い作家に与えた助言の正当性を裏付けたのは、サム・ロレンスが作品を再販したことで入った大金だけではなかった。文芸作家として認められたかどうか、その試金石のひとつが、作品がアカデミックな研究の対象となることだ。アイオワ大学で、カートは英文学科の教員ロバート・E・スコールズと親しくなった。一九六七年、スコールズは文芸批評の著書『ファビュレーター』のなかで、ヴォネガットの小説に関してかなりのページを割いて論じている。
 ファビュレーターというのは、イソップや中世の寓話作家のように、「制御されたファンタジー」を使って「現実よりも思想や理想に重点を置いた」物語を創造する作家を意味する。このタイプのストーリーテラーは、構造や形式に凝る。たとえば、入れ子構造の物語、脱線、気晴らしなどだ。それは折り紙やキュビズムやシンメトリーに魅せられた視覚芸術家に似ている。この特徴こそ、ファビュレーターがほかの小説家や風刺作家と一線を画す点だ、とスコールズは論じている。例えばカート・ヴォネガットは、ヴォルテールやスウィフトの伝統を受け継ぎ、自分の思想を映し出す世界を創造した。「ヴォネガットの作品は、この世界への愛と、それをさらによいものにしたいという願いを表現している—が、あまり希望を抱いていないことも表現している」。
『ファビュレーター』刊行の数ヶ月前、C・D・B・ブライアンは「ニュー・リパブリック」誌に厳しい調子で書いている。ヴォネガットは「現代のユーモア作家のなかで、最も読みやすく面白い作品を書くにもかかわらず、読者から当然受けるべき評価を受けてこなかった」と。
 かつては、カート・ヴォネガット・ジュニアの新作が出たときいても、誰もが首をすくめていたというのに、いつのまにか読んでいなければ読者も批評家も非難される時代になったのだ。(p. 328, 329.)

スローターハウス5』の出版年は1973年だが、それに先駆けて1967年頃までに「入れ子構造の物語、脱線、気晴らしなど」を特徴とする作品が本格的な批評の遡上にあげられはじめていたということだ。この気運には『5』と同じ戦争不条理小説であるジョゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)が影響しているように推察される。ヴォネガットは『5』で大枚せしめたと思われがちだが、人気や支持の面でも経済的な面でもそれに先んじてすでにある程度は潤っていた。人間のコントロールを越えた外部の力(システムとテクノロジーとメディア)が横溢し、またモダン的自我を確立することの難しくなった時代、もはや正気や理性では現実を捕捉できない(と気づいた)時代ゆえの狂気じみた奇想が日の目を見はじめていた(狂気に精神を圧され、救いを求めてたどりつく軒先のひとつが肉体また性愛で、これは大江健三郎の特徴)。

そうした戦後、フランスの難解で思弁的なヌーヴォー・ロマンよりもむしろ小説世界をたくましく刷新した(というふうに、とあるフランス語の先生が評されていた)アメリカ文学ポストモダン性など『ストーナー』(1965)には皆無だ。派手さもなく、ポストモダン的な時流に与することもなく、この小説は埋もれていったらしい。しかし、その埋もれていったこと自体がメタ的にこの小説の、また主人公ストーナーの特性を表しているのではないか。この小説の徳は総じて、この小説を語ろうとする人間の口を重くさせるところにあるように思う。僕は口が軽いのでいくらか語ってみます。

ストーナー』は、過去に静かに埋もれていくような、ひとりの男の一生を描いた小説だ。それは冒頭で宣言されもする。

 たまさかこの名前に接した学生は、ウィリアム・ストーナーとは何者かと首をかしげるぐらいはするだろうが、その関心があえかな水泡以上の大きさにふくらむことはきわめて希だ。生前からことさら故人に敬意を払っていなかった同僚たちが、今ストーナーを話題にすることはめったにない。年長者にとってその名は、諸人を待ち受ける終わりの日の標であり、若年の者たちにとっては、過去のいかなる感覚も、また、自分自身もしくは自分の履歴と響き合ういかなる美質も呼び起こさぬ、単なる音の連なりに過ぎない。(p. 3, 4.)

我々は自ら望んだものでない、実は他のものと交換可能な「単なる音の連なり」に一生引きずり回され、その取り扱われ方に一喜一憂する(死後のそれもということであれば、それは『不滅』の話になる)。評判の如何は他人の口に与り、それは死んだあとにも続く。ストーナーという名前は、そこで特段の感興を引き起こすことがない。作者のジョン・ウィリアムズは謳われざる者について書くとはじめに明らかにする。本来謳われるべき偉大な人間が、ゆえあってそうなっていないからここで顕彰する、という筋の話にこうした文言があらかじめ用意される傾向があるように思う。「だが、そのような評価は妥当ではない」と落差をつけるために。しかし、この小説は小説であって偉人伝ではない。人生は、金、地位(業績)、名声といったポイントで競うテストではない(と思います)。 ジョン・ウィリアムズはただ無骨な人物の足跡を丁寧に描く。そして正しく、小さな確信を裡に隠しながら小説としての問いを響かせる。「さて、あなたはこの人物をどう思いますか?」

ストーナー」は不滅の名前ではない。この小説、またストーナーへの愛着は、ひとつには「我々のひとり」の感を読むひとに催させるところに発している。無数のままならぬ由なし事に苦悩し、右往左往して力を使い尽くし、運がよければ多少の責任を果たし、いつのまにか年老いて、名前を残すことなく死んでいく。理不尽に期限が切られ、途中下車のように死を迎えることも少なくない。つまらない、なんでもない人生かもしれない。しかし、「つまらない人生だよ」と戯れに口にのぼす当人はたいていそう思ってはいない。我々は里程標のようにわかりやすい成功、失敗よりも、余人からはけして察せられない人生の諸々の、かたちにならない、見えないプロセスの一つひとつをこそ、出さなかった手紙を引き出しにまさぐるように、人知れず思い出して抱きしめる。『ストーナー』はそうしたプロセスに満ち、ストーナーはそれについていくらかの認識と感傷を抱くものの、安易な自己肯定/正当化をしない。職場と家庭という多少なりと親密さを期待してしかるべき場所で、思いもよらぬかたちで問題に巻き込まれ、すでに抜き差しならない地点に追い込まれているのに気づく。それは必ずしも、というよりほとんどの場合、自分のせいではないように思われる。あるいは誰の(当事者たちの)せいでもない。説明しても折り合いなどつくことなく、事態が変わらないことはわかっている。理解は得られず、耐えることしかできず、ままならなさに歯噛みさせられ、立ち尽くす。そうした無力感は人生を通して多かれ少なかれ誰もが経験することだ。読んでいて身につまされ、共感する。しかし、思いどおりにいかない人生に対するストーナーの姿勢はやはり彼独自のものだ。受動的とも評されるとおり、彼はコンフリクトが浮上してもさして積極的に対処をしたり、抗弁したりしない。たとえば、仕事を進めるうえで大学が適している時期は大学を仕事場にする。家が適している時期にはその逆をする。ただ、たいして策を講じないだけで、 けして主体的でないということではない。いくつかの局面でそれははっきりする。

彼が教員として「地味な人気」を博して、ゼミでも選別を行わなければならないほど学内での仕事が軌道に乗ってきたところで、唐突に妙な学生、ウォーカーが教室にやってくる。彼はむやみに的外れな大言壮語を吐き、虚勢を張って教師に敬意を払うどころか挑発して愚弄し、ああいえばこういうの言い訳の繰り返しで己を顧みることがない(こういう学生はいる)。こうした学生の常として肝心のレポートはきちんと書いていない。ストーナーは「怠慢と不実と無知」と指摘する。しかし意外にも彼は、学位の予備口頭試問の場で自らの論文の要諦をよどみなく語る。その内容はまとまっていて「知性のきらめきを感じさせる部分」もある。ゼミでの醜態とはほど遠いその姿に感銘を受けて続きに耳を傾けるうちに、ストーナーはある可能性に思い至る。学生の語り口とそこで語られる言葉は、彼の担当教員であり、ストーナーの同僚であるローマックスのものだ。ウォーカーのアイデアは彼が発案し、練り上げたものではなく、ローマックスが体よく仕込んだコピーということだ。これに先立って、ゼミの場面でウォーカーのほうも無意識に「ローマックスの大ざっぱなものまね」をしていることにストーナーは気づいている。ローマックスは他の教員の質問の際に「(常に謝罪付きで)」口をはさみ、ウォーカーが答えやすいように質問を誘導したり、自ら要点を話しさえする。なぜそれほどまでにローマックスはウォーカーに肩入れするのか。その理由は、作中では示唆さえされておらず、読者が推し量るべきところであるが、障害者として身を同じくするからだ。ストーナーの邸宅を訪れた際に、酔った彼は皮肉屋の性分には珍しく、率直に「異形の身体ゆえに味わった孤独感や、出所が知れず、抗うすべもない羞恥心のことを語っ」ている。「自室で過ごした長い昼と長い夜、ねじれた肉体が課する行動の枠から逃れようと本を読みふけり、少しずつ自由の感覚に目覚め、その自由の本質を理解するに至って感覚はいっそう強大なものとな」った。ストーナーはここで文学をとおした「自己変革の過程」を共有していたことを知り、ローマックスに同族意識を感じる。

ローマックスがそのような「同族意識」をウォーカーに感じていることは、ウォーカーのふるまいに疑義を呈するストーナーに対しての「知識人としての能力が、心的欠陥という酌量すべき見地から判定されるようなことは、あってほしくないと思うね」と、これに続く「きみもたぶん気づいているとおり、彼は体に障害をかかえている」という、斟酌を求める発言からわかる。騒動が終わってから「(…)これはぜひ付言しておきたいが、その学生には不幸な身体上の瑕疵があって、心ある人間なら、同情心をそそられてしかるべきところだろう」とも言っている。

審査の最後に発言権を与えられたストーナーは、英文学の基礎教養についてウォーカーに直截に問いはじめる。ウォーカーはのらりくらりとかわそうとするが、終始しどろもどろでまともに答えられない。ローマックスの助け舟も意に介さず質問を続け、審査後は彼の合格判定も追加履修の折衷案もはねのけ、ストーナーは当然のように不首尾を理由に不合格の判定を下す。その後の懐柔も歯牙にもかけず、判断を変えることがない。ローマックスはウォーカーに自分を見ている。ストーナーを翻意させることが完全に不可能だと悟ってからは、(ストーナーはそんなことをしてはいないのだが)ウォーカーへの人格攻撃は自分への人格攻撃と同じだとばかりに、怒りに燃えてストーナーを非難しはじめる。さらに、ストーナーが実務を求めて断った学科主任の座は不運にもローマックスに渡ることが判明する。ここからローマックスのストーナーに対する容赦のない、執拗な、ほとんど創意に富むとさえいえるような締め付けといやがらせが延々と、最後まで事あるごとに続くことになる。

ローマックスは、自らを救い、自由になるすべと立場、つまりは自分の人生をパッケージしてウォーカーに与えようとする。しかし、そうした過剰な温情は目をくもらせ、判断力を大きく損ない、牽強付会を招く。微妙で難しい、あるいは厳しい問題ではあるが、被害者の特権性と被害者どうしの条理を越えた絆はともすると暴走し、公正さへの感覚を狂わせ、排他性を生じさせる。それは絶対的正当性を盾にできるがために「死神の権利」になりうる。

なにかを手に入れるためには身銭を切って、自分で払わなければならない。ウォーカーはそれを果たしていない。助力が陰ながらの範囲であれば公平さを保てるだろうが、ローマックスのウォーカーへの配慮は明らかにいきすぎているし、なにより正当性と厳正さが求められる学術の場に情状酌量がもちこまれてはならない。当人のためにもならない。傲慢な若者はしかるべき時期に肘鉄を食らわせられなければならない。そこに成長の契機があるからだ。ローマックスは冷笑的ではあるものの、その知的能力は確かで十分理性的なはずだ。悪い人間ではない。にもかかわらず、彼は自身のアキレス腱によって致命的に判断を誤り、それに気づくこともない。ここで彼は悪の域に達している。物語的因果応報は適用されず、現実はこの悪と悪意を帯びてそのまま進行する。我々の知る現実と等しく。このような「どうにもならなさ」の描き方こそこの小説の醍醐味だ。

将来に予想される不遇にも納得ずくで権力者/体制側の傲慢に一撃を食わせ、快哉を叫ぶといったロバート・オルドリッチ式のカタルシスなどもたらされようはずもない。ストーナーはこの一件によって報われることのない学者人生を決定づけられる。職場を移そうにも夫人がてんで相手にしない。立場がなくなり、頼れる者もなく、無気力が襲ってくる。上手くものが考えられず、意識が遠くなっていって、忘我の瞬間が訪れる。ここはやるせないが美しい場面だ。誰しもこのように窓の外を眺めたことがあるのではないだろうか。

冷たい空気で肺を満たしながら、開いた窓のほうへ体を傾ける。冬の夜の静けさが聞こえ、入り組んだ繊細な蜂窩構造の雪に音が吸い込まれるのを感じ取れたような気がした。白銀の上では何も動かない。その死の光景が空中の音を取り込み、冷たく白い柔らかさの中に葬ると同時に、ストーナーを引き寄せ、ストーナーの意識を呼び込もうとしているようだった。自分が外へ外へ、白銀のほうへと引っ張られるのを感じ、視界の果てまで広がるその白銀の野の向こうに、背景として無窮の闇を、高さも深さもない澄み渡った空を思い浮かべた。一瞬、窓目に身じろぎもせず坐る肉体から離脱し、天翔る自分になりきって、すべてのもの—白い平原、木立、高い柱、夜空、はるかな星々—があまりにちっぽけで、あまりに遠く、無の中へ消え入りつつあるその眺めに驚く。(P. 212.)

長谷川町蔵☓大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』書評しつつ - 成功と結婚しにくいロック、成功との結婚を求めるヒップホップ

f:id:kilgoretrout:20160109164041p:plain

0. イントロダクション(本の短評)

長谷川町蔵☓大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング, 2011)。「文化系のための」と銘打っているとおり、この本は、クラブに通いつめてヒップホップなるものに自然に親しんできたような、ヒップホップ的身体をすでに獲得済みのインサイダーよりも、むしろ適当に好みの曲を見つくろって聴いてはいるけどジャンルの全体像はよく知らない、あるいは「あれだろ、ラップとか、駄洒落でディスって家族に感謝するやつだYOね、チェケラ!」というような、ヒップホップに壁、また偏見を抱いている層(私である)に適している。

というのも、著者(語り手のひとり:大和田)自身がそのような、ヒップホップを他者として感じていた地点から次第にそれに耽溺していったという経緯をもつため、語り口が部外者に対して優しく、かつ全般的に相対化の視点が把持され、効いているからだ。加えて対談形式が採用されており、その成立、歴史的な流れ、音楽・文化現象としての特性を、門外漢には必要十分な深さと分量で、具体的な例を示しながら端的に、そしてしばしば大胆な切り口でわかりやすく解説している。入門でありながら、先入観を打ち破って「そういうことだったのか」と膝を打たせる点においては、それを越える読みごたえのある本とも言える。たとえば「ヒップホップは音楽ではない?」。

以下では本書の力を借り、ロックとの対比を軸としてヒップホップ性を追ってみたい。

1. 前提の文脈としてのロック

ロックの定義のひとつは、なんでも取り込んでいった結果ジャンルとして正統性に欠けているという非正統性、要は音楽的にごたまぜということだ。その性格から「私生児の音楽」と呼ぶ向きもある。ただし、そのルーツのひとつは明確にアメリカの黒人たちのブルース(哀歌・労働歌)であり、そこには虐げる者と虐げられる者という構図が内包されていた。この構図は「白人雇い主と黒人奴隷」から時代を下って1950年代、白人の参入したロックンロールで「資本家・権力者と労働者」という階級的対立軸に移り変わる。

1960年代終盤、反戦(対ベトナム戦争)意識の高揚や、資本主義/消費社会/物質文明への疑問からカウンターカルチャー・ムーブメントが生まれた際、その文化的表現としてロックが担ぎ出されたのも当然と言えば当然だ。逆にロックがそのような運動を導いたとも言える。以来、近年に至るまでポップ・ミュージックの一大ジャンルとしてロックは徐々に力を失いながらも命脈を保ってきたわけであるが、その来歴を考えれば、そこに精神性として反権力や反商業主義といったものが底流しているのが理解される。こうした精神性のもと、既存の社会的枠組みから外れ、学校→会社のレールからこぼれ落ちていくこと(ライフスタイル?)を「ドロップアウト」という(私である)。反体制として政治に異議申し立てる、金で心を買われない、俺は俺の道を行くという姿勢は、本書にあるとおり「魂」という言葉で表象されやすいものだ。

だから、反体制としての体制のただなかにいる類のロックファンは「音楽とはそういうもの(反権力・反商業主義・ドロップアウト・魂)」であると考えがちだ。そして、新たな音楽的潮流であるヒップホップをもついそのような目線で眺めてしまうことになる、らしい。

2. ヒップホップのはじまり

しかし、ヒップホップはその成立過程がまったく異なる。ヒップホップのルーツはジャマイカにある。あのレゲエ&マリファナのジャマイカである。ステレオタイプである。ジャマイカ独立の1962年以降、多くのジャマイカ人がアメリカ・ニューヨークのマンハッタンの北にあるブロンクス地区へ移住した(背景に政治情勢があるが、ここでは置く)。それまでの同地区はユダヤ人たちの居留区だったのだが、彼らが去って(ホワイトフライトの亜種)税収が下がった結果、行政サービスが低下したこと、脱工業化の流れのなかで間口の広い工場労働が減少し収入のルートが半ば絶たれたこと、74年当時のフォード政権が支援を打ち切ったこと、州間高速道路の建設によって経済的に空洞化してしまったこと、などがあいまって、まちは激しく荒廃した(州間高速道路の建設についてあまり日本で語られていないようだが、その影響は甚大なものだったらしい)。少年ギャング団が結成され、保険金詐欺のため、「73年から77年にこの地区だけで放火事件が3万件(p. 24)」起きたそうである。サウス・ブロンクスと言えばスラム。スラムと言えばサウス・ブロンクスのイメージはそのようにして定着していった。

そうしたなかでとあるジャマイカ出身の若者が、ジャマイカでの屋外パーティーの文化と、そのための低音のきくサウンドシステムをまちにもちこんだ。屋外パーティーはブロック(区画)ごとに行われる屋外でのブロック・パーティーに姿を変えた。DJクール・ハークのかける重低音に客が圧倒された73年8月、ヒップホップは誕生した。

DJプレイの基本は、ふたつのターンテーブルにレコードを置いて、針を上げ、また落とし、レコードを交換し、ボリュームをコントロールして曲を切れ目なく上手くつなぐことだ。しかし、仲間たちのダンスが、楽曲(ジェームズ・ブラウンのFunky Drummer)のなかの特定の部分、すなわち短いドラム主体の部分で特に盛り上がっていることに気づいたクール・ハークは、発想を転換し、同じレコードを二枚そろえて交互にかけ、ドラムブレイクだけを延々とループさせはじめた。ここに、ヒップホップの楽曲を構成するふたつの要素のうちのひとつ、ループするリズム主体のバックトラック=「ブレイクビーツ」が生まれたわけだ。もうひとつはもちろんラップである。

www.youtube.com

3. サンプリングとしてのヒップホップ

次にブレイクビーツの素材(サンプル)は、ジェームズ・ブラウン(「ゲロッパ!」のJB)のバックメンバーが出していたレア盤などに求められ、やがて「いかにクールな素材選びとその使い方をするか」が競われるようになるにつれて、ジャンルを越えたネタ元の捜索=掘る(ディグる)が行われるようになる。この代表例が後年の例になるがアフリカ・バンバータによるエアロスミスのWalk This Wayのイントロだ。これは定番になったとのことで、後年RUN D.M.C.エアロスミスとヒップホップとロックの垣根を越えて共演したことと関係しているのかもしれない。バンバータは音楽分野を越えた素材の利用、たとえば「ビートルズからモンキーズまで使った(p. 50)」。

海外の音楽について、しばしばつくり手の人種や階級をそこに加味して鑑賞したり、評したりするというのは定型の語り口ではあり、過剰な先入観を排しているかぎりは意義をもちうる視点ではある。ところが、ヒップホップはそのような従来の音楽観を越えている部分があるらしい。ヒップホップにおけるサンプリングについて大和田は、「昔の音源を再利用することで黒人文化の歴史に敬意を評しているという解釈がとくに黒人研究者の間で強い(P. 50)」が、「むしろあらゆるジャンルの音源を断片的かつ無節操に用いている点が重要ですよね。白人の曲でもかっこよければ使ってしまう」と指摘する。「DJたちにとってはニール・ヤングよりもスティーブン・スティルスの方が遥かに偉いんです(p. 50, 51)」。ニール・ヤングとスティーブン・スティルスはともに、CSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング)のメンバーではあるが、ソロ活動でも類希な存在感を示し、深い内省をたたえた楽曲でリスナーのみならずアーティストたちの多大な尊敬を集めるのはヤングのほうである。しかし、DJが尊敬するのはスティルスだ。「理由はレコードに良いドラムブレイクが入っているから(p. 51)」。古いロックファンはこうした傾向にきっと驚くはずだ。

バンバータはクラフトワークもサンプリングの素材として利用している。クラフトワークはテクノのハシリのような伝説的グループで、日本では最も有名なところでYMOがその影響下にあると言える。「クラフトワークはロック的なイメージ―身体的で、パッションに溢れていて、つまり人間的な―に対するアンチテーゼとして無機質で機械的な人間像を提出したわけですよね。それをバンバータはさらにもうひとひねりして、そうした機械的なイメージを黒人的/身体的なグルーヴとして再解釈した(p. 52)」。このくだりは、本書のコラム2「アフロ―フューチャリズム」、黒人文化と未来的イメージの親和性にも関係しているのだが、ここではこのテーマは置くので興味があるならば、実際に本を手にとっていただきたい。

こうしたサンプリングは、技術的には、同レコード二枚使いでのリアルタイムプレイから、ドラムマシーン、イミュレーター、コンピュータとそのソフトを利用した、ウワモノ(メロディフレーズ)まで含んだ、素材の切り貼りによる楽曲全体の制作へと進化していく。そこにあるメンタリティーは、ブロック・パーティーにはじまる、ビート主体の黒人的/身体的なグルーヴを基礎にしつつ、そのための素材はジャンルを問わず無節操に引用してしまうような奔放さと大胆さ、と言える。素材の元となった作品そのものを発展させるというよりも(そういう部分もあるが)、過去の楽曲を一旦、選別可能な対象としての素材と捉えてフラットにリスト(データベース)化し、好きなように切り貼りして自分の表現の流れのなかにうまく組み込む(コラージュする)。まさにいいとこ取り。コピー&ペースト、そしてすべてをフラットにデータベース化してしまうような作用、これはインターネットの特性であり、ヒップホップがポストモダンの音楽と呼ばれるゆえんでもある。映画で言えば「タランティーノっぽい」、すなわち過去の映画の好きな部分を好き放題に使って(引用/オマージュして)作品をつくりあげるような技法が同じ文脈上にある。

具体的な例を挙げよう。ロックバンドのくるりも、ヒップホップクルーのDragon Ashも、アメリカのオルタナティブ・ロックの代表的なバンド・スマッシング・パンプキンズの「Today」のリフ(リフレイン。短めのメロディの繰り返し)を明確に引用している。本場のヒップホップで例が引けなくてすみません。うといもので。

www.youtube.com

くるりの、曲タイトル自体はビートルズの引用らしき「ハローグッバイ」、Dragon Ashの、「俺は東京生まれ、HIPHOP育ち、悪そうなやつは大体友達」でつとに有名な「Grateful Days」がそれである。

www.youtube.com

ただし、前者が、曲終盤のクライマックスとアウトロ部分にのみリフを引用し、テーマ的に「恋人との関係における、おそらくは報われない/報われなかった焦燥感・やるせなさ」を共通化させているのに対して、後者は全体に渡って、つまりバックトラックとしてリフを繰り返させていて、テーマも異なっている(なにせGrateful Days=感謝する日々)。材料としての自由な引用、これがヒップホップ的サンプリングの基本的な性質ということだ。他に思い出すところでは、パフ・ダディがノトーリアスB.I.G.を追悼するためにつくった「I’ll be missing you」。これはポリスの「Every Breath You Take」のメロディラインを使っているが、「Every」はストーカーじみたあやしい男の独白の歌。テーマの共通性など度外視されている。

www.youtube.com

余談になるが、スマッシング・パンプキンズスマパン)は日本のバンドにも相当影響を与えたようで、ネタ元探しをしてみるのも一興である。たとえば、日本での、コンピュータも利用した宅録の第一人者(だからサンプリングもお手のものだが)・中村一義の「セブンスター」は、スマパンの「1979」のオマージュだ。中村は歌詞的にも楽曲的にも、スマパンの「やるせなさ」の響きの換骨奪胎を目指したように思える。

www.youtube.com

www.youtube.com

4. ゲームとしてのヒップホップ

「ヒップホップなんて聴いたことない」というロックファンが「それでもなにか知っているヒップホップの曲ある?」と尋ねられて、挙げる曲としてふたつのものが想定される。ひとつは、先のRUN D.M.C.エアロスミスとコラボしたWalk This Way。そして、もうひとつは、1982年リリースのグランドマスター・フラッシュ「The Message(ザ・メッセージ)」だ。なぜなら、政治的メッセージ性を強く感じさせる歌詞とたたずまいの作品だから。こうした曲をロックまたフォークファンは「本格的な曲」と概して感じてしまう(必ずそうというわけでもないだろうが)。そこにはロックが政治に異議を申し立ててきたカルチャーであるという歴史的感覚もある。たとえば、日本ではCMでお馴染みのCCRクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)「Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)」の歌詞上の「雨」は、ベトナム戦争におけるナパーム弾の比喩だ(ちなみに、そうした政治性と決別して生活という地平に降りていく音楽的身振りとして時代を画したのが、井上陽水の「傘がない」)。ヒップホップの政治的文脈として想定されるのは「『ヒップホップは楽器を買うお金がなかった人びとによって始められた』…“ストリートの政治性”(p. 51)」ということになる。サウス・ブロンクスに代表される貧困や格差や、そうしたものに対する憤りもその背景にあるだろう。

しかし、「ヒップホップについて語るときに、<ザ・メッセージ>を特権的に取り上げて、このジャンルそのものに社会批判や政治性を基礎づける人がいるじゃないですか。でも全体としてみたらそんなことはなくて。少なくともジャンルの歴史を見渡したときに、社会批判のみによって牽引されてきたという印象はないんですよ。91年の記事にラッセル・シモンズが当時を回想するコメントが掲載されているんですが、それによるとみんな<ザ・メッセージ>が大嫌いだったと。フィーバークラブでDJがその曲をかけようとしたら、客がそのDJに銃を突きつけてやめさせたっていうんですよ(p. 86)」。政治性、社会性を標榜する楽曲は、ヒップホップにおいてはむしろ例外である。「ヒップホップはあくまで、みんなが漠然と考えていることを気の利いた言い回しでラップできれば勝ち、っていうゲームなんですよ(p. 87)」。

「ラップはゲーム」であり、重要なのは「場の支持」ということだ。それらはともに、ラップの由来に関係している。ヒップホップシーンにおけるラップの発祥は、パーティーにおける呼び込みや司会担当ということになるが、大元をたどれば19世紀以前の大規模農場(プランテーション)や奴隷制下での黒人たちの「シグニファイイング」に行きつくらしい(p. 33)。signifyとは「〜を意味する」という動詞で、これが黒人文化のsignifyingの場合は、遠回しの婉曲表現であったり、侮辱の言葉を親しみの呼びかけとして使ったりすること(修辞法)を指す。映画などでよく見られる、黒人の若者どうしの“What’s up? Nigger!”、あれである。これはひとつには、奴隷たちが主人たちに悟られないように会話をするために生まれたもので、貴族どうしが内緒話をするとき、召使いに知られないようフランス語をはじめとした外国語で会話をしていたという言語使用と裏表である(これは完全に余談だが、複数言語を横断できる能力がいかに強力に場を支配しうるかについては、アガサ・クリスティー名探偵ポワロシリーズや、タランティーノの映画『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐に端的に見ることができる)。「相手に悟られないように主人を茶化したり、直接的な言い方を避けてほのめかしたり、あらゆる誇張表現やレトリックが用いられました(p. 33, 34)」。また、「たとえば、『ダズンズ』は一種のゲームで、とくに若い男の子が二人で悪口を言い合うのをギャラリーが見守るものです。その悪口はだいたい相手の母親のことで、要するに日本でいえば『お前の母ちゃんでべそ』と同じなんですが、それを韻を踏んだり言い変えながら交互に言いあうわけです。相手の悪口に対してどれだけ巧妙に返せるか、どれだけギャラリーを沸かすことができるかで勝負を決める(p. 34)」。

つまり、ロックのように「世界に向けて正しいことを、また異議申し立てを、特定の個人やグループが主体的に、詩的表現を通じてメッセージとして発する」のではなく、ヒップホップは「あくまで場やコミュニティが支持するかどうかという基準で、韻を踏んだベシャリで気の利いたことを上手く言いあう」ということだ。ポストモダン用語としてはもはや死語になりつつあるが、戯れと言い表してもよいだろう。現代ではこれが、なにかネタ(ビーフ)になるものを用意して、上手く言い争う(ディスりあいをする)ということになる。「ヒップホップは音楽ではない?」、「ヒップホップに『内面』はない」といった本書の惹句小見出しはそういった文化特性を指している。それはプロレスに擬せられる(ガチ派のみなさん、怒らないでください)。だから、プロレスラーにリングネームがあるように、ラッパー(MC)やDJには通り名(エイリアス)がある。プロレスにいさかいを、果ては戦いを促す揉め事の設定があるように、ヒップホップにはビーフ(ケンカのネタ)がある。門外漢は「ヒップホップってあれだろ、ギャングが怖いナリして銃撃って殺しあうやつだろ。けしからんね」と見てしまいがちだが、ギャングスタ・ラップ、特に現実的な殺し合いなどにつながるような極端なものはラップの支流ではあっても本流(上手い言い合いをする遊び)ではないということだ。政治性(主体的に物申す)を強く感じさせるThe Messageも同様で、本流とは言いがたい。

また、その発祥がブロック・パーティーであるからして、「オリジナリティよりは場の支持、つまりその場にいる人をどれだけエンターテインできるかが重視される(p. 96)」。「あえて図式的にいうと西洋文化にオリジナリティ信仰があるとすると、黒人文化はむしろ本歌取りと同じで、同じ言葉に違う意味を与えて歌ったり、逆に同じ意味を違う言葉で歌ったり、変奏やバリエーションが特徴だといえます(p. 38)」。「ヒップホップっていうのは要するに『新古今和歌集』であって、『万葉集』時代に蓄積されたものをどう発展させていくかっていうゲームなんですよ(p. 37, 38)」。ラップに限らず、過去の蓄積(データベース)をほとんど無節操に再利用するサンプリングも同じ流れのなかにあると言えるだろう。あらゆる表現は他の誰かの表現の言い換えにすぎないとする「主体性・オリジナリティの喪失(いわゆる作者の死)」もまた、ポストモダン的な色合いの濃い文化性を感じさせるところである。

5. 成功と結婚しにくいロック、成功との結婚を求めるヒップホップ

ここからは、1〜4までと、本書の第6章「ヒップホップとロック」を下敷きにして、さらに明確にロックとヒップホップとの違いに焦点を当てて比較し、整理してみたい。

音楽を楽しむためにリスナーはレコードやCDや音楽ファイルを買い、アーティストは金を稼ぐ(このモデルは崩れつつある趨勢で、ネットでの定額音楽視聴サービスの出現や著作権の問題など語るべきテーマは多いがここでは置く)。両者は、確実にビジネスモデルのなかにある。そして、ロックにおいて両者は基本的に少なからず可処分所得をもつ「中産階級」出身であり、労働者階級出身ではない。そうでありながら、反体制や反商業主義を掲げるのは、矛盾ではないか? ジョン・レノンビートルズ解散後、ソロでWorking Class Heroという曲をつくったが、彼は不幸な生い立ちであるにしろ、正確には労働者階級出身ではないし、作曲した当時の本人ももちろんそうだ。

商業でありながら、反商業主義を謳う。これは自家中毒というものだ。成功できない鬱屈を表現することによって、成功してしまう矛盾。そうした陥穽に落ちて、罪悪感を覚えるロックスターはやがて身を滅ぼしていく。金を手に入れたことで破滅する割合は映画スターの比ではない(代わりに、特にハリウッドの俳優/女優は、幼年期に両親の離婚に見舞われている割合が異常なまでに高い)。「27クラブ」という言葉がある。27歳で亡くなったロックスターたちのことだ。大抵は麻薬のオーバードーズが原因だ。キャッチーな曲「Smells Like Teen Spirit」をつくって大成功してしまったがために、これをライブで毎回演奏しなければならなくなって激しく落ち込んだNirvanaカート・コバーン(コベイン)は、ファンの求めるものやメディアでのイメージと、自分自身の立ち位置との乖離に耐えきれなくなり、「Better to burn out than to fade away.(燃え尽きたほうがいい。消え去っていくよりも)」という遺書を残し(この文言は3節で登場したニール・ヤングの「Hey Hey, My My」の歌詞)、ショットガンで自殺して、27クラブへの殿堂入りを果たした。オルタナティブ・ロック(メインストリームに背を向けた、影のある、また実験的な潮流のロック)は、もはやオルタナではなくなってしまった。「Smells」の入っているアルバムは『Never Mind』、要は「気にすんな」だ。皮肉にも、彼は「気にしない」ことができなかった。

www.youtube.com

27歳に限らず、ロック・ミュージシャンは破滅したり、若死にしたりしやすい(しやすかった)。「成功と結婚しにくい音楽」、それがロックと言える。『ロッキン・オン』を創刊したロック評論家の渋谷「ロックとは初期衝動だ」陽一は、ロックの抱える矛盾とオサラバして「明るくお気楽に楽しもう」精神で活動しているバンド群に「産業ロック」と名づけた。ここにもやはり、「それでもロックは商業主義に完全に迎合するものではない」という強い思いがあるのだろうし、そのような希望を抱くロックファンは少なくないはずだ。

ただ、たとえばセックス・ピストルズシド・ヴィシャスの人生を描いた伝記映画『シド・アンド・ナンシー』では(カート・コバーンとパートナーのコートニー・ラブは破滅的カップルとして、シド・ヴィシャス&ナンシー・スパンゲンとよく比較される)、成功したミュージシャンが病気であるどころか、室内運動器具で健康に磨きをかけているという光景が描かれている。「破滅型」は実際に存在してはいたものの、現実はそう単純でもないし、「伝説の破滅的人物像」もロックファンがアーティストに見たいと望むファンタジー、一種の共同幻想だということだ。そもそも論で言えば「労働者階級の『反抗』や『抵抗』というイメージを郊外の中産階級の若者にファンタジーとして抱かせるのがロック(p. 276)」ではある。1で述べたような、旧来の「虐げる者と虐げられる者」という構図の軒先を借りて、思想的フレームとして利用しているとも言える。その思想に添い遂げる行為の代表が「ドロップアウト」だ。「まずロックという音楽が何を目指しているのかを考えると、要するに『資本主義社会の中核を担う中産階級からのドロップアウト』ですよね(p. 226)」。

しかし、「ヒップホップは正反対なんです。資本主義から締め出されちゃっている人が、資本主義に参入していくための手段として始める音楽だから。『ドロップアウト』ではなく『イン』なんです(p.227)」。これを読んで目からウロコが落ちた。「ケミカルなジャージやスニーカーはわかる。ジーンズの腰履きも、金がないからオーバーサイズの安売りかお下がりしか手に入らなかったということに由来しているというのもわかる。でも、虚飾をあげつらい、差別、また貧困に見舞われている鬱屈を世間に対して叩きつけているはずの奴らが、なんで高そうな革のジャケットを着たり、避雷針のようにゴールドのアクセサリーをつけまくったり、高級車やスポーツカーに乗ったりして、憎んでるはずの成金みたいな下品なマネやファッションを進んでするんだ?」という通俗的な疑問が一気に氷解した。生半可な貧困からは反資本主義が生まれうるが、明日をも知れない深刻な貧困=資本主義からの疎外からは、アンチではなくラディカルな資本主義の奪還が目指されるというわけだ。

短絡的のそしりはまぬがれないものの、これで白人層がヒップホップを聴くようになった理由もひとまず説明できる。1980年代の自由主義経済政策・レーガノミクスアベノミクスの元ネタで、要は格差が生まれやすい)下で、白人だからといって裕福に生まれつけない低所得者層、つまりひどいケースではトレーラーハウスに住んでいるようなプア・ホワイトはまさに「資本主義から締め出され」ていた。だから、彼らはロックよりもヒップホップに共感し、聴きはじめた。本来、身体や生活と呼応するのが音楽というものだ。ロックはもはやそうした地平での説得力を欠いていたのだろう。極端な貧困からほとんど徒手空拳で成功できるかもしれない処世術=ワザがラップであり、これをまさに実行したのが、そう、エミネムだ。「ヒップホップは、人気者になると彼らが夢見ていた資本主義社会の成功者になるわけです。成功したラッパーは皆これみよがしに高級車や宝石を買う。たしかに成金趣味かもしれないけど、そこに自己矛盾はまったく無いんです(P. 229)」。「成功することへの内面的な葛藤がない(p. 229)」。確かにこれはロックの定型的なイメージとは正反対だ。

6. オリジナリティを克服するヒップホップ

4節の「世界に向けて正しいことを、また異議申し立てを、特定の個人やグループが主体的に、詩的表現を通じてメッセージとして発する」とは、ロックの一般的と思しき定義だ。異論もあるし、すべてがそうであるとするのは乱暴あるにしろ、ロックが「魂の叫び」というイメージで表現されうること自体は否定できないだろう。そしてそれは、個人やごく小さなグループのあずかるものであり、その独自性が問われる。ここでは、そうしたオリジナリティに象徴される心性について、ロックとヒップホップがいかに異なるかを引用を中心にして紹介する。説明を要しないほど上手くまとまっている。前提として、ヒップホップの特性、サンプリングという手法の性格(データベース性)を紹介した3節を参照されるとよりわかりやすいと思われる。

「ロックと比較するとやはりヒップホップはポストモダンな音楽だという気がします。つまり、ロックはどこまでもモダンな音楽ジャンルじゃないですか。ロック・ミュージシャンを『偉大なアーティスト』や『天才』と称することにも表れていますが…ロックは常に『魂』の比喩で語られます。『魂の叫び』とか『魂の苦しみ』とか。表現のリソースがミュージシャンの『内面』にあると考えられている。それは西洋の歴史をたどると宗教儀礼上の『告白』にまで遡ることができますが、『表現』の出発点が常に『心の内面』にまで遡行される。こうした習慣はいまだに根強くて、僕らも絵画や小説などを鑑賞するときに『作者の心の打ちから湧き出る表現』などと普通にいいますよね。(p. 233)」。

ロックの「内面」志向は、アイデアの枯渇という問題につながる。なぜなら、個人が自分だけをリソースとして、新しい表現を紡ぎ出し続けることなどほとんど不可能だからだ(これに近いアーティストとしてはプリンスがいるが)。また、個人の内面や技術の高さに価値を置く、すなわち「天才」志向は、「天才がいなくなるとシーンが停滞する(p. 236)」という問題を招く。「次に現れた天才は、前の人とは違ったスタイルでロックを前に進めなくてはいけない。でも所詮バリエーションには限界があるから、初期の天才であるビートルズジミ・ヘンドリックスを誰も超えられないという事態が発生しちゃう(p. 236)」。

こうした傾向を、あくまで自然にそうなった(収斂した)ということではあるにせよ、ヒップホップは克服している。ひとつはすでに述べたデータベース性である。「それに対して、ヒップホップは音楽を制作するときに文字通り『外』のデータベースにアクセスするわけです。DJの人たちがこれ見よがしに自分のレコード・コレクションを自慢することがありますが、作品を作り出すきっかけが『内』にあるのではなく『外』にある。『心の内から湧き出る』というよりは『過去の音源のデータベースにアクセスして検索をかける』というイメージです(p. 233)」。データベースはほとんど無限だ。 データの選び方、そのストック傾向(棚のつくり方)によって色はあるはずだし、それがセンス、アーティスト性となるのだろうが。

もうひとつは「場(シーン)」志向だ。「たしかに相対的に見るとヒップホップって『天才』と呼ばれるミュージシャンが少ないというか、ファンはヒップホップという『場=シーン』に注目している。ロックの場合は『俺はボブ・ディランしか聴かない』というようなファンも多いですよね(p. 236)」。「ヒップホップは、シーンを天才が牽引するというよりは、みんながトップを争ってボトムからあがっていく感じなんですよ。才人の成果はシーンに還元されて共有財産になっていく。トップランナーがコケても、成果はボトムに還元されているから、シーンのレベルは常に上がり続けるんです(p. 236)。「文章に喩えるなら、ロックは単行本で刊行される純文学で、ヒップホップはTwitterのつぶやきなんですよ。前者は個人の著作物だけど、後者はまず場があってその上で表現がある。受け手は個々の表現よりもシーンという名のタイムライン上のやりとりを楽しんでいる(p. 239)」。発言の内容のいかんを問うよりも、誰かの発言が誰かの反発を招き、揉め事が勃発して、野次馬たちがそのどちらかにたわむれ含みで肩入れしつつ、騒ぎを楽しむ。騒ぎが終わればまた次の騒ぎへと、終わることがない。場合によってはフットワーク軽くそこに参入していく、また、参入していける。 これは秀逸な喩えだ。

コピー&ペースト的な引用としてのサンプリング性、それ自体の意味を問うことはさておき、徹底的な収集とカタログ化を目指すデータベース性(Googleはすべてのサイトのデータをまるごと自社サーバにコピーしている)、そして、表現されたものに入り込むよりもむしろ、その場、その時間で、なにがしかのネタを元におしゃべり的コミュニケーションを楽しむ、場(シーン)の重視、SNS性とでも言うべきもの。ヒップホップとインターネットはやはり相似形にあると言える。

7. 備考と補足

「ヒップホップが従来の音楽、特にロックとどのように違い、どこが新しいのか」については5節、6節が、不十分な抽出とまとめは言え、少なからず理解を促すように思われる。「ヒップホップは聴かないんですけど…」という層にこそむしろ読んでみてもらいたい。ヒップホップの地域性や詳しい歴史、具体的なアーティストたち、曲、レコードについては本書に直接あたってもらえるとありがたい。0. イントロで書いたように読みやすいし、元がとれる内容です。おそらくはヒップホップファンも、思い込みや臆断が覆されることでしょう。「ははあ、なるほど、そういうことだったのね」と。

6節はヒップホップの新たな可能性に話が移っていくが、本論ではなく延長部分と考えられるのでオミットした。これも詳しくは実際の本を読んでみてください。簡単に言えば「魂の領域に進むヒップホップ」。また、ロックの「個人的営為性」といったようなものの強調については本書ではいささか過剰ではないかという疑問もないではなかった。これはロックが純文学に擬せられていることにも表れている。ともに先人との共同作業であるという性質は無視しがたい。パクリかどうかという単純な議論ではないし、文学においても本歌取りは伝統である。別作者の作品どうしの継続性、並行関係(響きあい)を間テクスト性というキータームで紹介することも考えたが、いささか逸脱してしまうので、これも除外した。図式性を優先することでわかりやすい論の展開をしている部分もあるということは確かで、考慮しなければならない。またいかにサンプリングが基本にあろうと、その創作の営みは他の音楽と同様に個人によるものであるから(チームであろうと個人性は捨象されない)、安易にまとめ、類型化したり、流れのなかに位置づけるのは慎重にならなければならない。そもそも論として音楽を聴くしかないというところはある。

それから、ヒップホップというカルチャーの本来的性格、サンプリングが招いてしまう著作権の問題についてもふれなかった。このまとめを読むならば少なくとも、ヒップホップと著作権問題がいかに運命的なまでに避けがたくくっついているか、くっつきあい続けるかは容易に了解されるだろう。このテーマについては、増田聡『その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権』に詳しい。音楽と著作権の関係にひとかたならぬ興味がある向きに特におすすめする。

『風立ちぬ』の喫煙シーン - あってもいいではなく、なくてはならない

いまさら感は拭えないけれども、宮崎駿風立ちぬ』(2013)の喫煙シーンについて思うところがあって、禁煙学会の苦言(要望)に対する一般的カウンター(フィクションに難癖つけるな、当時としては当たり前だ、銃のほうが人殺してるだろ等など)以外で、なにか有用な意見なり考察なりがないかと探してみたら、以下のようなものがあった。禁煙学会の苦言のくだりとあわせて。

gigazine.net

www.excite.co.jp

零戦(美しいもの)開発に邁進することを運命として迷いのない二郎と、死の病である結核を運命として受け入れている菜穂子の両者の運命(美しさ/甘さと死)を合わせた表象としてこのシーンが描かれているという主張と解して問題ないだろう。これに関しては異論はないし、的確だとも思うが、もうちょっと別の言葉で考察してみたい。

この映画のコピーは「生きねば」。戦争の災禍とパートナーの喪失という過酷な現実(結末)には適していて世間に対する惹句的にはウケがいいかもしれないが、実際にはこれはちょっと違う。本当のコピーは、劇中、カプローニが二郎に発する問いである「君は、ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」だ。

一応まとめておくと『風立ちぬ』は、科学愛好少年、堀越二郎がイタリアの飛行機製造技術者、カプローニの幻影から天啓を得て、美しい飛行機をつくるという夢を抱き、そのために生活というものをほとんど度外視して必死に学び、長じて兵器開発という舞台で苦闘を重ねながらそれを実現させていく、その途上で愛すべきひとに出会い…という筋の話。

才能と意気に恵まれた堀越二郎はピラミッドのある世界を選ぶ。彼にとってのピラミッドは美しい飛行機であり、時代が彼に設定する具体的な対象は零戦だ。戦時下で飛行機をつくるチャンスはそこにしかない。彼はただただ美しい飛行機をつくることを願う。ただし、彼の設計する零戦は戦闘機、敵を打ち倒すための、また搭乗員を死地に運ぶ、人殺しの機械でもある。二郎は軍事的な野心だとか功名心などには目もくれていない。美しい飛行機が美しい軌道を空に描くこと、それだけを望む。その夢に向かってひたすらまっすぐに突き進む。その果てに描かれるのは戦争のもたらす巨大な破壊だ。その表現はもう現実的なものではない。アニメという手法で描かれた悪夢というほかない。「大量虐殺を語る理性的な言葉など何ひとつない」(カート・ヴォネガット)からだ。アニメで戦争とそれにまつわるものを描いた『戦場でワルツを』は逆に最後で「過度の現実」を示していたりするけれども。

「君は、ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」。ピラミッドとは美しい、偉容を誇るモニュメントだが、誰かを養ったりするものではまったくない(吉村作治は実は公共事業だった説を唱えてましたが)。端的に言って無駄なものだ。その建造は多大な人的、エネルギー的、時間的、財政的コスト、つまり多大な犠牲を強いる。さらに言えば傲慢さを感じさせる。神の威光に背いて天を衝く行為。シェリー(メアリ『フランケンシュタイン』シェリーの旦那)作の、ジッグラトをつくったネブカドネザル2世(オジマンディアス)についての詩の有名な一節は「我が名はオジマンディアス。王の中の王。我が業績を仰ぎ見て、汝ら権力者たちよ、絶望しろ」(私訳)。バベルの塔は言うに及ばず。

しかし、ピラミッドのような美しいものは、ただその美しさによって果てしなくひとを魅了する。「美しいが役に立たない」は芸術のひとつの要件であり、「美しいモニュメント」は人間が生きた証でもある。ピラミッドは日本語では金字塔とも呼ばれる。金字塔の意味するところは「後世に永く残るすぐれた業績」。

ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらを望むか。これは宮崎駿が自身に問うたことでもあるだろう。映画館で初めて鑑賞したときには、宮崎が自身を解放するためにつくったのかと考えたが、いまはむしろ自分(=堀越二郎)を責める/みんなに責めてもらうためにつくったのではないかと推察している(こうした傾向はマーティン・スコセッシに似ている)。二郎は劇中まったくエクスキューズを発しないし、それが許されていないように描かれていることもこの印象を強くする。

「戦争と技術者」の話と聞くとオッペンハイマー的な科学技術(者)批判、あるいはカウンターとしての科学技術擁護といった思想的なものを想起するが、この映画は(アートの正しい姿として)そうではなく、コントロール可能かどうか未確定で、多大な犠牲が想定されながらも、その美しさやおもしろさ(センス・オブ・ワンダー)、純粋性に魅入られ、追究を止めることができない人間の業をそのまま見せている。その点では芸術至上主義に似ている。ピラミッドがメタファーとして適していることにもつながってくるし、宮崎駿の自然と機械愛好の矛盾した心性と、羅刹のような偏執狂的作品づくりにも通じる。二郎も宮崎駿も非難を前提にその姿をさらしているようなものだ。ストレンジラブ的奇矯な振る舞いは見受けられないが、二郎にはマッドサイエンティスト性がある。個人的には煙草の存在感も含めて「美しいが役に立たないのが芸術」を強く主張する森博嗣の作品の世界観と「美しいもの、純粋なもの最高。それ以外は度外視」の登場人物たちが思い出される。

犠牲を払いながら追究をやめない/やめられない。だから、結核を患った奥さんの肺を煙草の煙で汚しながら、図面を引き続ける。このシーンは、あってもいい、ではなく、なくてはならないもの、だ。禁煙学会の件で擁護の色がついているが、このシーンが疑問を抱かせるのは間違いない。「命を賭けてまで」の美しさや、妻の夫に対するほのぼのとした愛情だけが描かれているわけではない。この疑問のわく感じは映画全体の、堀越二郎の生き様に対するいわくいいがたさと相似している。要はテーマ(ある種の人間の業)的に一貫しているシーンのひとつということだ。ということで、件の喫煙シーンは必要だと思うのです。

宮崎駿作品全般の解題。参考にしてます。【町山智浩×切通理作宮崎駿の世界 その1

www.youtube.com

関係ないけど、かっこいい喫煙シーン。Back to the human race.
Escape From LA Ending Scene - End of All Electricity

www.youtube.com

くるりはなんで懐かしい?

f:id:kilgoretrout:20151228203629j:plain

くるりというバンドを一言で言い表すのは難しい。曲のモチーフは青春の蹉跌と、ノスタルジーを感じさせるものが多い。電車(特に赤い電車京急)、カレー、祭り、ゲーム、水中モーター、りんごあめ、六地蔵、尼崎の魚。ブリティッシュ風味でビートルズが色濃く漂う楽曲が多いが、アプローチはオルタナティブ・ロック風で、曲の仕上がりはウェルメイド。音については、はっぴいえんどに端を発する和ロックの伝統に連なるたたずまいの、都市のなかにあっても漂白されきっていない、アコースティックイズムとアナクロニズムもあれば、それを払拭していくことによって成立したようにも思える90年代以降のいわゆるJポップにはない地方的「いなたさ」も内包しているし、ときにケレン味のあるオリエンタリズムも発揮するし、サブカルチャーへの目配せも見せるし、ギンギンのループ系打ち込みエレクトロも炸裂させるし、音響系の実験的なサウンドも試すし、クラシックの意匠を施すこともある。アルバムごとに作風が違うし、バンドメンバーも最近ではすっかり変わってしまった。ただ、その原点にあるのは、やはりファースト・シングル「東京」(1998)だと思う。思いたい。個人的には、この曲をよく聴いていた、語学研修先のフランス・ルーアンの風景、曇り空の下で夏でも長袖シャツが必要だったことを思い出したりして、全然「東京」でなかったりするのだが。

くるりが好きで、しかも東京出身というファンをしばしばおちょくってみる。「でも、『東京』の気持ちはわからんよねえ」と。もちろんアートは誰に対しても開かれている。特定の層にしかアクセスが許されていないものはアートとは認識できないだろう。ここでの「開かれている」というのは解釈が無限ということよりむしろ、作品との出会いとコミュニケーションが限りなく様々に豊かになりうるということだ。東京出身者が聴く「東京」と、熊本出身者が聴く「東京」は違う。東京出身者が「東京」を感じるためには、ある種の迂回が必要であるように感じる。要は、歌詞の「東京に出てきました」を、東京出身者はそのまま享受することができないだろう、そのようなものであるからこそ「東京」のような表現が出てくる。「東京に出る」こと自体は、近代日本人にとっては遍在する共通認識、ほとんどミームとも言えるだろうが、逆説的に東京出身者が一旦ということであってもそこから締め出されるのはおもしろい。通常疎外されるのは東京外の人々だからだ。

アメリカの上京(上ニューヨーク)ソングに、サイモン&ガーファンクルの「America」がある。テーマは似ているが、歌われるのはあくまでミシガン州発の、だんだん倦怠感の増していくとあるカップルの旅の行程であって、ニューヨークの手前、ニュージャージーの高速道路の自動車を歌い手が数えているところで曲は終わる。ニューヨークという単語はこの曲に出てきさえしない。彼らは「To look for America」、アメリカを探しにニューヨークを目指して東進しているわけだが、この曲におけるアメリカはニューヨークではなく、歌詞にあるような、彼らの気だるい、広さのゆえにほとんど果てしないと思われるような移動、それ自体なのだ。あるいは西進(ゴー・ウェスト)精神の下、フロンティア開発でつくられた国を巻き戻しとして東進することで、その起源をたどっている(からこそAmerica)と見ることもできる。“Kathy, I’m lost”, I said, Though I know she was sleeping. “I’m empty and aching and I don’t know why. ”「キャシー、迷子になったみたいだ」僕は言った。彼女が眠っているというのはわかってたんだけど。「僕は空っぽな気がして苦しいんだ。それがなぜなのかわからないんだよ」

youtu.be

対して、日本で「日本」という曲がつくられるとは考えにくい(あるかもしれないけど)。では、どういう曲がつくられるかと言えば、「東京」だ。明治維新以降の富国強兵のための、また終戦以降の復興のための強烈な中央集権化、すなわち政治、経済、不動産、メディア、あらゆる産業の中枢、文化資本の東京への集約と、そこからの制度、流行、言語、そして普通(=コード)の産出の流れは、わけのわからない東京という都市自体と、ほとんど東京=日本という価値観をつくりあげた。だから、焦点化されるのは東京であり、それを語る視点とナラティブは否応もなく東京を含む、あるいは前提としたもの(いわゆるエピステーメー)になり、一方で、ある種の相対化として「東京」という曲がつくられる(あるいは『東京物語』)。「東京の街に出てきました」。狂騒的な街にたたずみ、耳をすます。「あい変わらずわけの解らないこと言ってます」。今度は自分を顧みる。「恥ずかしい事ないように見えますか」。「標準」語であれば「恥ずかしくないように見えますか?」になるはずだ。

youtu.be

歌詞の語り手は上京したばかりの「ストレンジャー」だ。岸田繁くるりのバンドリーダー・作詞/作曲)はストレンジャー(場違いなヤツ)という言葉や立ち位置に思うところがあるのだろう、ファースト・アルバムは『さよならストレンジャー』で、同名の曲が収録されている。The Doorsの「People Are Strange」の歌詞、“People are strange when you are a stranger”(「あなたが場違いであるときには、人々は奇妙に見えるさ」、もっとつっこんで意訳すれば「あなたが正気であるとき、他人は狂っているように見える」)に代表されるように、strange(おかしい/場違いである)、またstranger(場違いの者/迷う人)はロックに欠かせないキーワードであるとも言える。

ストレンジャーの東京への慣れなさと寂しさ、やるせなさは、(岸田のこの曲であれば、彼の出身地である京都ということになるだろうが)地元と当地での思い出、そのなかに住むひとを避けがたく呼び込んでしまう。「駅でたまに昔の君が懐かしくなります」。東京と「もうひとつのもの」に引き裂かれてあること、それがこの曲の根底にある。そして、そのもうひとつのものを描くことこそが、実際の東京をシーナリーとして描写するよりも逆説的に、はるかに東京を描くことになりうる。なぜなら、現在の東京はすでにストレンジャーのまちだからだ。

続く段は「雨に降られて彼等は風邪をひきました」ではじまる。突然「彼等」と言われても困る。「彼ら」というのは指示代名詞(あれ、これ、かれ)の複数形で、複数の誰かを指しているのわけだが、登場人物は「語り手」と「君」しかおらず、これが「語り手/一人称=僕」と「二人称=君」であれば、本来は、一人称の複数形である「僕ら/私たち=我々」になるはずである。ここで「彼ら」と三人称の複数形でエピソード的に描写されているのは、「僕」と「君」のふたりがもう「僕ら」で語られる関係性から離れていることをより強く感じさせるための措置だ。つまり、「僕」と「君」は、昔は「僕ら」だったが、いまでは「彼ら」、要は、ふたりはすでに別れてしまっている。いまもつきあっているなら「雨に降られて僕らは風邪をひきました」のほうが自然だし、別れてしまっても「僕ら」で意味は通る。しかし、自分たちを第三者の視点で語ることで、ふたりの関係性が終わって、それがもう遠い出来事になってしまったのだということを印象づける。この「遠さ」は、時間だけでなく、地元と東京との距離も含められる。

ところが、次の歌詞は「あい変わらず僕はなんとか大丈夫です」と続き、「ん?」となる。「よく休んだらきっと良くなるでしょう」。ほんとにいま現在、風邪ひいてるじゃん! 「今夜ちょっと君に電話しようと思った」。結局、東京にいる語り手は雨のせいで風邪をひき、かつて地元で恋人といっしょに同じ理由で風邪をひいたことを思い出し、彼女が懐かしくなってしまい、電話してしまおうかと迷っている、と解釈される。過去の雨と現在の雨が接続されている。なぜわざわざ時間感覚を乱すような語り方をするのか? これはのちのち説明する。しかし「相変わらず僕はなんとか大丈夫です」の大丈夫でなさといったら。この「相変わらず」も何気ないが利いている。これは連絡がだいぶ滞っていたときにしか使わない語り口だから。

続くサビはすべて「事」で終わる体言止め。「事」がどうなのか、言えない、言えないからこその歌、ということを強く感じさせる部分だ。「君がいない事。君と上手く話せない事。君が素敵だった事。忘れてしまった事」。ふとした瞬間に心に到来してしまい、離れてくれない思い。話したいのに君がいない。いないなら電話してみようか。電話しようにも上手く話せはしないだろう。思い出にすがるほかない。そのなかで忘れてしまったことはあるだろうかと記憶を探ってみる。どうしようもなく、とめどもなく思いが巡りながら、もう彼女に対してなにもできない。事実上の関係が終わってしまおうと、心を処理することなどできない。

「話は変わって今年の夏は暑くなさそう」。暑くはなさそうだが、「季節に敏感にいたい」。季節に合った「飲み物を買いにゆく」。そして「ついでにちょっと君にまた電話したくなった」。1998年リリース当時、携帯電話はまだ普及していない。ここでの電話とは公衆電話のことだ。僕も世紀末、受験のために上京した際、やはり馬車道の公衆電話を利用した(そして財布を電話の上に置きっぱなしにした)。この節は、まるで電話をしたくなるために逆算的に論理を積んでいっている。夏→今年は暑くない→けど季節には敏感にいたい→季節の飲み物を買いにいく→ついでに君に電話したくなる、ではなく、君に電話がしたい→飲み物を買いにいけばついでを口実に電話ができる→飲み物を買いにいくのは、ええと夏ですからね、季節には敏感でいたいですからね。つまり、彼女に電話がしたい、したいがそれを認めたくない、という心理がある。「話は変わって」いないのだ。

クライマックスは電話をする寸前まで逡巡している。「東京」のプロトタイプが「もしもし」というタイトルであることを考えれば、岸田にとって電話というものがいかに切実なまでに重要なモチーフであるかがわかる(余談だが、これを英訳すれば、Hello, It’s me.というところで、これはトッド・ラングレンの1972年の名曲のタイトルになる)。「もしもし」から「東京」に変更されたのは、デビュー/代表曲としてのカタマリ感に欠けていたからということもあるだろうが、電話がかけられないのに「もしもし」できていたらおかしいのだから実に筋が通っている。そして、もしもしできないこと自体が岸田にとっての「東京」だったのではないか。

youtu.be

「君がいるかな。君と上手く話せるかな」。話せるわけがない。おそらくは東京に出るために置いてきたであろう女の子と上手く話せるわけがないのだ。上手く話せてはいけないのだ。ストレンジャーが東京での疎外感から逃れ、救われるためのよすがは、皮肉にもすでに地元に置いてきたあの子にしかない。しかし、彼女に頼るのはあまりに都合がよすぎる。踏み込んで言ってしまえば、それは人間としての公正さを欠くということだ(こうしたモチーフは村上春樹の初期の小説にときどき現れる)。自分で橋を焼き(村上表現)、電話のラインを切ったはずだ。「まぁいいか」とためらい、あきらめようとする。「でもすごくつらくなるんだろうな」。それでも、思い出すのをやめることはできない。話をすることのほとんど代償行為として「君が素敵だった事。ちょっと思い出してみようかな」。つらさが増すだけなのに。歌詞として掲載されていない最後の部分は悲痛な叫び、その三回の繰り返しはもう叩けないドアに強くノックしているかのようだ。「思い出してみようかな。君がいるかな。君がいるかな。君がいるかな。君と上手く話せるかな」。ささくれだった気持ちに呼応するような、ロックそのもののようなディストーションのきいたやるせないギターに、「パーパーパ、パラッパー」の流麗とはほど遠い、ロックそのもののようなコーラスが重なって曲は終わりを迎えていく。

くるりを語るときに欠かせない言葉として「懐かしさ」がある。これは単に先に並べたようなモチーフ(電車、e.t.c.)が喚起させるイメージだけではなく、その時間感覚によるところが大きいように思われる。「東京」はそれをよく表している。さらに、くるり・岸田の時間感覚について、他の曲を引きながら読み解いてみたい。

サード・アルバム『TEAM ROCK』(2001)収録の「カレーの歌」は「カレーの香りは君と同じで/やさしくて小さくて忘れてしまいそう」ではじまる。ここでのカレーの香りというのは、一般的なカレーのものではない。なにせカレーの匂いというのは強力で忘れがたい。この曲のそれは、かつて誰かのつくってくれた、特定の、個人の、大事なひとの、かけがえのない大切なカレーの香りなのだ。それはとある男について言えば、「Y子風夏野菜のカレー」だ(カボチャがルーに溶けすぎていた)。しかし、それは遠く過ぎ去ってしまっている(「さようなら、愛してる」)。だから、もう小さくなりつつあり、忘れてしまいそうなのだ。しかし、「忘れない? 忘れるよ、これからもずっと」。これからもずっと(何度も)忘れるということは、けして忘れられない、ということだ。「タバコをやめるのは簡単だ。私は何度もやめた」というジョークのレトリックと同じだ(初出はマーク・トウェイン)。

「忘れる/忘れない」は「東京」でも同じだが、それは単に、「忘れないことが大事」というようなありきたりなメッセージを意味するのではない。過去は過去にだけあるのではない。記憶の忘却と再生、過去が現実と、現在の人間に同時的に(リアルタイムに)内包されているような瞬間。それは繰り返される。そうした瞬間にふと入ってしまっている人間というものを感じさせるからこそ、その無意識の運動性があるからこそ、くるりは古いのではなく、懐かしいのではないか。我知らず振り返ってしまう見苦しさこそ、くるりの魅力ではないか。「君」と「さようなら」したのに、「東京の冬は今日も寒すぎて/マフラーを君と同じに巻いてみる」。恋愛というのはどこで終わるのだろうか。気疲れするとため息をもらさずにはいられなかったとある男に「やめて」と懇請した女の子。別れてずいぶん経っても、まだため息をためらっている。

現在の時間を過去が侵食し、両者が混ざりあい、判別できなくなる。それはつきつめれば、夢と現実を混同してしまう子どもの時間感覚だ。4枚目のアルバム(最高傑作)『THE WORLD iS MiNE』(2002)の6曲目に「水中モーター」という曲がある。「マブチの赤い水中モーター」はある年齢層より上には子ども時代を思い出させる玩具で、それだけで懐かしさを催させるものだが、子ども感を感じさせるのはそれだけではない。おかしみのある曲調がひとつ。水中が羊水のメタファーとなることもそうだ。声に、水中でしゃべっているようなエフェクトがかかったりもする。子ども自身のしゃべりも入っている。そしてなにより、7分もある曲の大部分を占める、冗長なまでに延々と繰り返される単純なギターリフ。子どもは母親に何度も何度も同じ絵本を読むことをお願いする。永遠の繰り返しは子どもの時間感覚であり、それは手放しの幸福感に満ちた世界だ。とある作家の父親も最も幸せな思い出を尋ねられて、買ったばかりの車で奥さんと家のまえをぐるぐる、ぐるぐるまわっていたときだと答えたそうだ(たしか)。だから、ベスト盤の3分に圧縮されたヴァージョンは駄目なのだ。ということで、『THE WORLD iS MiNE』をお買い求めください。ここで書いたようなくるり的ノスタルジーと、アルバムの統一感を損なうギリギリまで攻めた野心的な多様性、優しさと荒々しさに満ちた素晴らしいアルバムです。ファーストもいいよ。

『アメリカン・ビューティー』 20. 結局なに映画なのか

レスターが「ふたりから殺されること」について、ヘミングウェイの短編『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』を通してさらに詳しく見ていく。先に書いたとおり『アメリカン・ビューティー』とこの短編は似ている。意気に欠け、妻にほぼ見捨てられている中年の夫が転機を迎える点、抑圧をはねのけ、男性性を獲得(回復)して人生を取り戻す点(イニシエーション)、しかしそのことで却って妻との溝が深まり、夫婦仲が決裂していく点、妻が他の男と関係する点(これは両者で原因と様態が異なるが)、妻が夫の死を願い殺意を抱く点、夫が人生を取り戻した直後に命を失う点、(程度の差は大きいが)妻の殺意と実際の殺害がずれている点、それが成立しても妻が幸福にはならない点。

妻の殺意と実際の殺害がずれている点について。『マカンバー』はとある男の遅れたイニシエーションの話だ。 アフリカでハンティングを通して、ということだがそれ自体、古来からある通過儀礼の代表でもある。前半では、主人公の初期中年フランシス・マカンバーの金持ちではあるが、情けない、臆病な(coward)性向と体たらくが描かれる。彼のセックスに問題があることはあらかじめ暗示されている。「セックスについては書物で、多くの書物で、あまりに多くの書物で知っていた。」(僕もあまりに多くの動画でそれを知っている。)しかし終盤、彼はバッファローを撃ち倒すことで男性性を取り戻す。フランシスが快哉を叫ぶ一方で、男気のなさを不満に感じていたはずのマーゴットは意外にも、彼に豪胆さが備わったことで逆に不安にかられはじめる。以前から彼に心ない態度をとり続け、不貞さえはたらいて悪びれることもなかった自分は、一人前になったフランシスに確実に捨てられるに違いない。物足りなく思っていた彼の男性性の不全は、それが生まれてみれば余計なものになり下がり、その増長はやがて彼女を破滅させるだろう。

倒したバッファローのうちの一頭を確認したあと、彼らは仕留め損ねていた一頭に車で近づき、降りて茂みにわけ入る。序盤で手負いのライオンをまえにしたときと同じ状況。銃を構えるフランシスにバッファローが突っ込む。その瞬間、頭のなかで「閃光が弾け」て、フランシスは絶命する。マーゴットが「車から」ライフルを撃ったのだ。車から撃つのは禁じられているにもかかわらず(Not from the car, you fool!)。彼女は掟を破り、夫は妻の放った弾丸によって殺される。

ここは故意か事故か意見が別れるくだりで、『ヘミングウェイ全短編2』の解説にて訳者の高見浩も遡上に載せている。高見浩が書いているとおり「マカンバー夫人は...バッファローを狙い撃った。」と地の文にあることから、フランシスを狙い撃ったのでないこと、つまり事故であることは確定する。これは絶対に動かすことができない。しかし、同様に地の文に「彼女はあることを、とても恐れているのだ」とある。「あること」とは、サファリからアメリカに帰還したあとに、おそらくは能力の行使の点でも相手を見つけるという点においても、もう物理的にも意識的にもセックスに不自由することのないフランシスに彼女が捨てられることだろう。サファリ案内人のウィルスンもフランシスが死んだあとで「彼のほうでも、あなたを捨てたことでしょう」とマーゴットに声をかけて裏書きしている。強い不安の裏で殺意が醸成されるのは想像に難くない。

おまけにクライマックス手前で、マーゴットは「ライフルを隣に置い」ているとわざわざ描写されている。終止ハンティングにまつわるストーリーであるにもかかわらず、この「隣のライフル」と、これを持つに至ったわずかな経緯(ウィルスンの「マンリッヒャー銃のほうは、車に残るメンサヒブ(奥方)に預けておこう。」)でしか彼女と銃のセットは描写されていない。つまり、最後の発砲まで一度も実質的に銃を扱っていない(作者が扱わせていない)。彼女は狩猟という男の世界の埒外の存在なのだ(対して男どもは、男性のシンボルである銃を当然、始終楽しそうにいじっている)。護身ならば前半のライオン狩りでもそのように言及されていなければならないはずだが、そのような文章はないし、ライフルは最後のバッファロー狩りの途中でウィルスンに渡されたもので自ら狩猟用に携行したわけでもない。彼女は銃に関してまったく積極性を担わされていない。彼女は本来、銃からも狩猟からも遠い。彼女がハンティングではなく、意識的にか無意識的にかはわからないが、フランシスを撃つことを想定して「ライフルを隣に置い」ておいたのは間違いないのではないか。

とはいえ、フランシスの死後は彼の死を少しも喜んでおらず、最後まで動揺したままだ。心理について、地の文での確言がないので推測になるが、彼の成長を無意識に喜び、成長した彼を愛していたという考えも否定できない。そもそもバッファローを狙い撃ったのは、その突進を阻み、彼の命を救う行動だ。ということで「功利的な事情で夫に対する殺意は十分募っているが、心裏としては愛情も抱いている、つまり愛憎半ばする状態の下、幸か不幸か彼の殺害が可能なように準備ができてしまった絶好の状況で、事故的に殺してしまった」という穏当な結論になる。「解釈は自由」と各所で見かけるので個人の自由で解釈してみた。

あくまで妻は夫を故意に殺害したわけではない。故意だろうがそうでなかろうが、彼女の行動は罪に問われないことになる結末ではある。ただ、殺意をもって殺すのとは違って、殺意が意図(意識)を越えたかたちで叶ってしまったことで生じる罪悪感というものがある。キリスト教的世界観で言えば、殺意を抱いたことに対する神の裁き。

日本の古典には「強い呪いの念が当事者の意図を越えて身体から抜け出し、宙を飛び、人をとり殺す」説話がある。六条御息所(『源氏物語』)や上田秋成的な生霊。『マカンバー』で、マーゴットの銃から事実レベルでバッファローに向かって放たれた弾丸の軌道は、物語、あるいは象徴のレベルで強い殺意の念によってフランシスのほうにそらされた、と解釈することもできる。外形的には殺人ではなくとも、当人は自分が殺したと思わずに済ますことはできないだろう。それは「私は殺していないが、殺した」という半ば生き地獄のような、独特の罪の感覚を生み出すように思われる(『海辺のカフカ』にも似たようなくだりがあったはず。『雨月物語』は村上春樹の子どもの頃の愛読書だったそう。『雨月物語』自体が『海辺のカフカ』にて言及されている)。

『アメリカ・ビューティー』に戻ろう。何が言いたいか。『マカンバー』と同じく、キャロリンの強い殺意がフランクに飛び火のように乗り移り、暴力を果たさせたのではないか、ということだ。彼らが暴力を果たす道具として使う(使おうとする)のはともにオートマチックのハンドガン(スミス&ウェッソン5906とSIG SauerのP226。これがそこはかとなく同じだったらベターだったのだが、このセレクトにも理由はある。そもそも同型の銃だとあざとすぎて完全に寓話になってしまう)。罪という観点から、必然的にそれらは結びつきうるものであるように思われる。繰り返しになるが、この共犯関係が、成功主義的強迫観念(安っぽい商業的貪欲さ)と差別という呪いのふたつが暴力として結実し、アメリカのイノセンスを殺すという、アクロバティックではあるがアメリカらしい説話を可能にしているのではないか。撃たれたレスターから噴出した血しぶきは壁に真っ赤な薔薇の花を咲かせる。これが虚飾としての白人家庭と並ぶ、最も皮肉な意味、暴力の開花としてのアメリカン・ビューティー(美しきアメリカ)だ。

もちろんストーリーのレベルではフランクがレスターに殺意を抱くのは、長年に渡るはずの欲望、すなわち同性の伴侶を得るという宿願が断たれたことから来る絶望、秘匿すべきゲイである事実を知ってしまった相手の口封じ、若い息子が招じ入れられながら年老いた自分は受け入れられなかったという勘違いからの憎しみ、などからであると推測される。夫殺しというショッキングなイベントが実現されるかと思いきや実は、というストーリー上のサスペンス的ギミック効果に奉仕しているという面もある。さらに言えば、愛した男への発射だ。ただ、息子とのいさかいも手伝っている前後不覚の混乱状態にあるとはいえ、負の感情を集中的にレスターに爆発させるのはいかにも突然すぎるし、根本的に筋が通らない。なぜなら、フランクに対してレスターはまったくの無実(イノセント)だからだ。それゆえの悲劇ということではあり、フランクが勘違いする滑稽さも相まってアメリカン・ドラマツルギーの悲喜劇(トラジコメディ)性がいかんなく発揮されているとも言えるが、象徴レベルの構造を導入すれば別のロジックが可能になる。繰り返してきた、イノセンスが暴力性を帯びた差別に殺されるという構造だ。フランクが差別と暴力の象徴、権化であることについて、ナチスファシズム)の属性が与えられている点がこれを補強する(よって、フランクの得物はドイツ&オーストリア企業の産物であるSIG SauerのP226でなければならない)。

彼は差別されないように差別するという救いのない回路のなかで闇に呑まれている。その闇はすでに人間ひとりのキャパシティを越えている。キャロリンもそうだ。彼女は彼女が望む自制という言葉からほど遠い。だから、象徴として作用しうる。彼らが抱くものは彼らを越えてしまっている。小さな彼らは大きな力(ジャガーノート)に捕まえられ、罠にかけられた。彼らは理性を失い、いつのまにかわけのわからない地点に押し出されてしまうことになる。象徴が作用しうる映画だから『アメリカン・ビューティー』は社会派映画というよりは文学映画に感じられるのだろう。どちらが上ということはないが。

キャロリンはレスターの死を確認したあと、クローゼットの彼のワードローブにすがりついて泣き叫ぶ。ロラン・バルトが『恋愛のディスクール』に書いているとおり、衣服はときにそれを着ている人間の存在を当人以上に際立て、浮き上がらせる。不在の実在、会っていないとき、直接ふれていないときが恋愛であるというのがバルトの恋愛論における主張のミソだ。衣服はエロスの対象となる。まわりから完全に隔絶しているように感じられるような親密さをもちえたデートは忘れえないものだが、顔とともに、むしろ顔以上に相手の着ていた衣服を明瞭に覚えてしまっていて忘れられないということがある(ないですか?)。いちばんわかりやすいのは『アバウト・シュミット』の、妻をなくしたジャック・ニコルソンが彼女の洋服の匂いをかぎ、靴を眺めるシーンだ。『そして私たちは愛に帰る』では、娘の残した服に母親がそうする。こうしたシーンは数限りなくあるだろうがちょっと例証したい。

服への愛着の感覚について。サリンジャーフラニーとゾーイー』の『フラニー』では「なんだか、彼女の肉体の延長の、魅惑にあふれた生身の肌に接吻しているみたいだった。」ジェイムズ・ジョイスの短編『死者たち』では、片方が途中で折れ曲がって置かれた(隣で寝ている)奥さんのブーツを主人公が眺め、そこに彼女の年をとりはじめた有り様を見出すところからクライマックスのグッとくる内省に入っていく(この美しい短編、特にラストが僕は大好きです。「もう生きていたくはない」)。ブーツの様態は、すでに往時ほど美しくはない妻を表す。村上春樹の『ノルウェイの森』では、自殺した直子の洋服をレイコが継承し、ワタナベはそれを褒める。レイコは直子の残留思念を果たす役割を担い、最終的に直子が叶えてあげられなかったワタナベの望みであるセックスを代行する(書いてて思いついた。そうだったのか。直子はワタナベに生(性)の世界に留まっていてほしかった。しかし直子はワタナベを愛していたわけではなく、彼女はキズキのものだから迂回が必要だったわけだ。ちなみにこの小説も「イノセンス→死」)。

さらに同『トニー滝谷』。この短編では、妻の衣服についてのオブセッションが形を変えて夫に取り憑く。妻の事故死のあとで、夫のトニーは家政婦を雇い、亡妻の服を順繰りに着るよう一旦依頼する。衣服のなかの女をすげ替えても同じではないか、という危うい思考実験の趣がここにはある。トニーさんは結局、家政婦に金だけ払って依頼を取り消すのだが、結末として予想される心理は、1. やっぱりそれは亡き妻ではなく、彼女は戻ることがないと思い知るのが怖い、2. 洋服が同じなら別の人間が着ていても心が脅かされることがないとしたら…、それも怖いのいずれか、あるいは両方だ。結局、彼は家政婦を断り、亡妻の衣服を処分し、完全にひとりぼっちになる。いずれにせよ、衣服をただのモノとして扱えない心性、そこに着用者のアイデンティティのにじみ、宿りを、愛に囚われた人間が見てとるのは確かなことだ。

f:id:kilgoretrout:20151224213247p:plain
『トニー』ほどたくさんの衣装ではないが、キャロリンはクローゼットを開けて箱に銃を投げ込んだあと、レスターの多数の服を「端から端まで」抱きしめようとする(ちなみにここで「隠す」と「クローゼット」の結びつきが表れてもいる)。これは短く何気ないがすごい演出のように思う。これが他の作品の「洋服シーン」と異なるところでもある。ひとりの人間を抱きしめるならば、思いはその瞬間の相手へ集中することになる(懸念のない関係であれば、という留保つきではあるが)。しかし、それが服であることで複(服)数抱え込むことができる。ここでキャロリンはレスターの時間軸というか、引き延ばされた時間、手に取ることのできないはずのレスターの人生の時間を抱きしめていることになる。それは「きみたち(人間)がロッキー山脈をながめるのと同じように、すべての時間を」パノラマ写真のように一望することができる、また人間を「長大なヤスデ—『一端には赤んぼうの足があり、他端に老人の足がある』ヤスデのように」見るトラルファマドール星人的な時間感覚(『スローターハウス5』)に似ている。ある瞬間に、過去の様々な時間が含まれているということ。『アメリカン・ビューティー』では、これをたぶん無意識に実現している。説明なしでヴィジョンとアクションだけで。これが映画というものだ。

次の瞬間のキャロリンはレスターの回想、おそらく彼とつきあっていた頃のキャロリンだ。これはレスターが現実で見てきたなかで想起する最後の光景でもある。彼の人生最後の映像は娘、幼い日のジェーンではない。彼が「愚かでちっぽけな人生」のなかで最後の瞬間にこの世に留めおかましと願ったもの、それは遊園地のまわる遊具で屈託なく大いにはしゃぐ、若く無邪気なキャロリンなのだ(ビニール袋のシーンはイメージ映像。レスターはそれを実際に観ているわけではない)。回転は終わらない繰り返し、永遠を想起させる。子どもは同じ絵本を何度も何度も親に読むように要求する。永遠にも思える終わらない繰り返し、それは子どもの時間感覚であり、イノセンスの時間帯だ(とある教員は「歴史の反対は永遠」と教えてくれた。永遠から人生の時間に足を踏み出してしまうと「恨みの心をもたぬこと」が難しくなる)。『ライ麦』でも主人公・ホールデンの幼い妹・フィービーが最後に回転木馬に乗ってまわり続ける(この共通している「回転する遊具」も、テーマ性を踏まえたうえでの『ライ麦』からのオマージュではないかとにらんでいるのだが)。

フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。

ホールデンは子どもの時間、イノセンスをかいま見て(彼自身はもうそこに参加して、全面的にそれに浴することはできない)、仮初めながら救われ、回復する。そして、もちろんこのシーンで『アメリカン・ビューティー』同様、激しい雨が降りはじめる。雨(水、循環するもの)は死と再生を司る物質であり、欧米というかキリスト教文化圏では特に救済を暗示する。たとえば、『ショーシャンクの空に』(これは町山言)。そして、『グレート・ギャツビー』。「幸いなるかな、死して雨に打たれる者」。雨がいかなる意味をもつかについては、竹内康浩先生の素敵な解読書『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』の第10章「反転するライ麦畑のキャッチャー」に詳述されている(僕は竹内先生に影響されてこれを書いてるみたいなものだ。ところどころ言及せずに援用させていただいている)。雨と優しさのイメージはレスターの最後の独白からもわかる。...and then I remember to relax, and stop trying to hold on to it, and then it flows through me like rain...(くつろいで、それ(胸の内に膨らんでいく美)にしがみつかないようにすると、それは私の身の内を雨のように流れてゆく)この雨の祝福の感覚は『ブレード・ランナー』のクライマックスの雨とロイの台詞にも顕著。All those moments will be lost in time, like tears...in...rain.(そうしたあらゆる瞬間もいずれ消えていく…雨のなかの…涙のように…)

キャロリンは明確な殺意をもっていたわけだからレスターの死を悲しむ資格はないけれども、それが可能であったとしてキャロリンがレスターを殺しえたか。たぶん殺せない。とはいえ、一旦、殺意を抱いた業、その因果によって苦しむことになる。別の言い方をすれば、苦しむことができる。

f:id:kilgoretrout:20151224212709p:plain
彼女は映画の大半で好ましからざる人物だと印象づけられている。しかし、レスターの衣服にとりすがって慟哭するキャロリンから、遊園地でまわり続けるかつての若いキャロリンへとクロスディゾルブで続くシークエンスは、単なるレスターの回想というだけではなく、「あの頃はよかったな」という単純な懐古でもなく、彼女が「あの頃」へと戻り、イノセンスを取り戻す暗示のように見受けられる(彼女の髪型は童女のかむろっぽい)。少なくとも最後で何が大事だったのか、別様ながらお互いに気づいている。レスターはキャロリンとずっと不和でありながら(&娘に疎まれながら)、不自然にも家を出て離れていくことを最後までしない。アンジェラはそのくびきとしては弱い。レスターの真の欲望は人生を改めることであって、彼女がその契機にすぎないことについてはすでに述べた。彼が家の外で彼女と接触するために行動することもない。レスターがseekerならば、家を出るべきなのだ。長年の仕事だって辞めたのだし、旅に出るのがまさに自然だ。イントゥ・ザ・ワイルドするならば、マッキャンドレスよろしく彷徨(HOBO)すべきはずなのだ。それでも彼はとどまる。この映画はロード・ムービーにならず、主要な舞台はキャロリンがこだわる家のままだ。それは帰り着くべきところであり、要は男にとっての女のことだ。最終的にレスターは、彼女以外の人間に撃たれることによって犠牲になり(その至純の存在たるキリストを見ればわかるとおり、犠牲となることはイノセンスに欠かせない特性。アメリカの文物を眺めるときはこれを見出せないかという意識をもつよう訓練される)、命を賭して彼女を引き戻し救済した、という構図を見てとるのは叙情的に過ぎるだろうか。さんざんキャロリンの悪口を書いてきたが、この映画は女性嫌悪に乗ってくれと言っているわけではない。バーナム夫妻の滑稽な喧嘩ばかりが目につくこの映画は、それでも究極的には恋愛映画だという気がするのだ。

『アメリカン・ビューティー』 19. アメリカン・イノセンスと、差別・暴力

不勉強なので仮説ということになるが、アメリカの文物のひとつの流れとして、ピューリタン的な、立身出世と成功、刻苦勉励、自己啓発教養小説的なるものがある。これは、フランクリン、ワシントンをはじめとした偉人伝、ホレイショ・アルジャーの一連の著作、成功者の神話たる数々の実業家の自伝・評伝・体験談(カーネギー、フォード、アイアコッカスティーブ・ジョブズ他)、現在では日本にも翻訳されてしばしば登場する自己啓発本の類に代表される(代表してるもんが少ないな。読まないから外面的にしかわからない。試論ということで)。その極北と言うべき存在が「聖書の次に(アメリカ人に影響を与えた)」という惹句つきの本『水源』を書いた、成功者の総どりと支配を称揚して臆面もないアイン・ランドAppleの「クリエイティブ」な製品を買ってつくづく思わされるのは、この企業の設定する世界観がやたらビジネスがかっているというか、自立したセルフメイドなビジネスマンを想定してるということだ(アドレス帳を見てみよう。iPhoneの株価アプリは外せないし)。「アメリカ人、Americanの最後はican(I can)、私たちはできるのよ」となにかのドラマで母親が子どもを励ますというくだりを見た覚えがあるが(この論理だとたとえばブラジル人も「できる」のだが)、あの感じ、TVでのアメリカの感動エピソードの再現VTRに示されるあのいわく言いがたい妙なポジティブ感もここに含められるだろう(追記。エレン・バーンレイク『ポジティブの国、アメリカの病』という本があるそうです)。

もうひとつの流れは、アメリカ文学系譜であり、現代文学の水源という意味で言えば、その水源地のひとつは明確にマーク・トウェインに存する。Wikipediaマーク・トウェインの項をそのまま引いておこう(どうせ文献にも同じことが書いてあるのだ。そこから引いてるのだから)。「ウィリアム・フォークナーは、トウェインが『最初の真のアメリカ人作家であり、我々の全ては彼の相続人である』と記した。アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、『あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する』と述べた。」自己啓発本が生真面目さと成功を旨とする一方、文学は笑いや冗談、失敗(間違っていること)に裏打ちされるものだ。この二極は小説世界が成立しているどの国にもあるように思われるが(たとえば、『不思議の国のアリス』はそれまでの教化的児童読み物の流れを変えた)、そのくっきりとした屹立のありようがアメリカらしいように思われる。後者について、その特徴とともにヴォネガットの『パームサンデー』の「ひとつの文学」で傍証される。ヴォネガットが多くてすみません。単に好きなんです。

先日、マディスン街のある本屋で、ひとりのフランス人が英語で、「ここ四十年かそれ以上、アメリカで本を生み出した人はひとりもいない」と言っているのを耳にした。なにを言おうとしているのか、わたしにはすぐわかった。彼の言う本とは、たとえば、『モビー・ディック』、『ハックルベリー・フィンの冒険』、『草の葉』、『ウォールデン』といったクラスの世界的傑作のことなのだ。わたしはその考えに同調せざるをえなかった。わたし(一九二二〜?)がこの世に誕生して以来、そのスケールにおいて『ユリシーズ』や、『失われた時を求めて』や、『ブリキの太鼓』や、『百年の孤独』や、『イワン・デニソヴィッチの一日』に匹敵する作品がこのアメリカから生まれたためしはない。
 でも、わたしの友人リストに並んだアメリカ作家を全部眺めわたしたいま、さっきのフランス人がここにいたならば、冷ややかにこう言ってやれたのに、と残念に思う——「おっしゃるとおりですよ、ムッシュー。わたしたちは一冊の本も生み出していません。われわれ哀れなアメリカ作家にできたのは、ひとつの文学を生み出すことだけでした」

水先案内人、マーク・トウェインという名が象徴するのはイノセンス(とユーモア)だ。そして、息子にマークと名付けさえした、ほとんど直系を自認し、トウェインに最大限の賛辞と敬愛を示す作家がカート・ヴォネガット。「彼に一貫するプロットは『無垢の人物の受難』であり『善意や自由意志の無力さ』がテーマになる。」(『現代の英米作家100人』)『スローターハウス5』が最も有名で先に引いたが、これを上澄みとすると残ったものが『チャンピオンたちの朝食』だと著者自身が語っている。ちょっと紹介したい。『チャンピオンたちの朝食』は、五十歳を目前にしたヴォネガットが「自分の頭の中を、できるだけからっぽに」する話である。これからはじめる話について説明する前書きを抜き出すとこんな感じ。

そこで思うのだが、アメリカ白人の大部分と、アメリカ白人をまねようとしている非白人の大部分も、おなじこと(自分の頭の中を、できるだけからっぽにすること)をすべきではないだろうか。とにかく、ほかの人たちがわたしの頭の中に持ちこんだいろいろのことは、どうもしっくりこないし、むだで見場もよくないことが多いし、おたがいに釣合いがとれていないし、わたしの頭の外にある実際の人生とも、うまく釣合いがとれていないのだ。

つまり、この本は、わたしが一九二二年十一月十一日へと時間の中をひきかえしていく歩道である。その歩道には、わたしがうしろへ投げ捨てていくガラクタやゴミ屑が、いちめんに散らかっている。

『チャンピオンたちの朝食』は一読よくわからない小説ではある。ハヤカワSF文庫を取り扱っているような中規模の書店ならヴォネガットの本がいく冊かはまず置いてあるが、『チャンピオン』は見かけなくなってきた。読みにくいというか、わけがわからなくて人気がないのかもしれない。ヴォネガット自身の評価も高くない。『スローターハウス5』がA+のところ、『チャンピオン』はC。

しかし軸がわかっていれば、分裂症とも言うべき小節がアフォリズムのように並ぶこの小説もあらかた理解できる(ケツの穴のイラストを考慮すればアホリズムかな)。ヴォネガットはドウェイン・フーヴァーという白人中年を主人公に据え、ヴォネガット自身が「歩道に投げ捨てるべきもの」、アメリカ文明の罪と不健全さ、その毒を注入し、背負わせてみる(巻頭言とは裏腹に、確信犯的に)。頭のおかしくなったドウェインはまさに自家中毒に陥って、他人を機械と見なして痙攣的な異常行動をとるようになり、最終的に他のアメリカ人たち相手にわけもわからず自覚のないまま激しい暴力をまき散らす。彼は作中反響言語、要はオウム返しの言動をとる。これと同じように、ドウェインは、というよりドウェインの無意識(身体)は、身に受けた白人の「文明」、暴力と混沌を世界に返しているだけなのだ(黒人はすくなくとも歴史的に政府・大企業レベルの暴力の主体ではなかったから、ドウェインの襲撃を華麗にかわすことができる。また「身体は覚えていて、わけもわからず反応する」というキャラと行動と悲劇はヴォネガットの作品にしばしば登場する。『ハリスン・バージロン』、『タイタンの幼女』、『スローターハウス5』)。他の作品もそうであるように、ドウェインはヴォネガットのもうひとつの可能性であり、ヴォネガットは暴れることのなかったドウェインだ。その代償に、この作家は現実として自殺未遂を起こす。「僕は叩く相手がいないから、自分を叩いてしまうんだ。(森博嗣すべてがFになる』の犀川)」評伝によると家庭不和の影響も大きいようだが。

もうひとりのヴォネガットオルタナティブは、彼の作品の常連的道化のキルゴア・トラウト。ドウェインを狂気とするなら、トラウトは正気の人物なのだが、他の作品でもそうであるように彼は異常者に見える(People are strange when you are a stranger.)。ヴォネガットは作中に自らを登場させて、エピローグでトラウトに言う。

われわれアメリカ人は、あざやかな色をして、立体的で、みずみずしいシンボルをほしがっている。なによりもわれわれは、この国が犯した大きな罪、たとえば奴隷制度や大量殺人や犯罪的無関心、それともまた安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されていないシンボルに飢えている。

「時間の中をひきかえし」、ガラクタを「うしろへ投げ捨ててい」き、「(…)犯罪的無関心、それともまた安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されていないシンボルに飢えている」アメリカ人。これはほとんどレスターそのものだ(劣情によってかなりぼやかされるが)。「みずみずしいシンボル」はイノセンスとも言い換えられるだろう。一方で「安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されて」いると思しき人物がキャロリンだ。『チャンピオンたちの朝食』も『アメリカン・ビューティー』とかなり似た要素がある。

アメリカン・ビューティー』がなぜアメリカ人に(たぶん)訴えるか。この映画で対立していたのは、実はキャロリンの代表する成功主義やスクウェア(四角四面、生真面目)なものと、レスターの代表するイノセンスとユーモアであり、このふたつがアメリカの歴史的な(あるいは無・歴史が生み出した)メンタリティーであるからだと考える。イノセントな感覚へのもうひとつの対立項が、フランク・フィッツが代表する差別である(上に引用したように『チャンピオン』では奴隷制度が、差別と「人間を機械とみなすこと」の文脈でクロース・アップされている)。

マーク・トウェインに戻ってみよう。彼の文学的ハイライトのひとつは、大江健三郎がしばしば引用している『ハックルベリー・フィンの冒険』の「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」のシーンだ。主人公のハック(ハックルベリー・フィン)は友だちではありながら、逃亡した奴隷である黒人のジムを主のワトソンに一旦、報告することに決め、手紙を書く。奴隷を逃すのは罪とされているからだ。「彼は罪が洗い流されてかつてないほど気分がよくなり、いまはお祈りもできる」と考える。が、しかし。

それは苦しい立場であった。私はそれを取り上げて、手に持つてゐた。私は震へてゐた。何故といふに私は、永久に、二つのうちのどちらかを取るやうに決めなければならなかったから。私は、息をこらすようにして、一分間じつと考へた。それからかう心の中で言ふ。
「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」——さう言つてその紙片を引き裂いた。
 それは恐ろしい考へであり、恐ろしい言葉であつた。だが私はさう言つたのだ。そしてさう言つたままにしてゐるのだ。そしてそれを変へようなどとは一度だつて思つたことがないのだ。

これは大江健三郎が愛読した中村為治版で、所持していないので大江健三郎の『私という小説家の作り方』から引用(孫引き)させてもらった。『ハックルベリイフィンの冒険』は開戦の年の1941年に出版されている(12/8前だとは思うが)。もし翻訳が遅れて出版できていなかったら、大江文学もいまのものとはだいぶ違ったものになっていただろう。『ハック』は自然児の言い間違いや方言、俗語をそのまま導入したリアリズムの新しさが評されるものであるので、いまでは格調を感じさせる旧仮名遣いはそぐわないと言えばそうなのだが、この本が早くに訳されていたことは誠に喜ばしいことなので、これを引かせて頂いた。

ハックは「文明」を差し置いて「地獄」に行く。そしてそれを変えようと思わない。これは文学そのものだとさえ思う。硬化した教条や規範(ある種の物語、制度、精神)に揺さぶりをかけ、笑うのは『ドン・キホーテ』からの文学的伝統であり、それが小説として発展したわけだ。ヘミングウェイが「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」とまで言うのも理解できる(この一部を指してでないのはもちろんのことではあるが)。

亡命作家(チェコスロバキア国籍剥奪→フランス市民権獲得)のミラン・クンデラはこんなことを書いている。ちなみに彼も文明・歴史、あるいはイメージ(キッチュ)と自然・身体の対立というか分離にきわめて意識的な作家だ。クンデラも多くてすみません。好きなんです。

わたしたちの時代、ひとは友情を信念と呼ばれるものにしたがわせることを学んだ。しかも道徳的な公平という誇らしささえもって。じっさい、わたしたちが擁護する意見とは、好みの、したがって必然的に不完全な、おそらく過渡的な仮説にすぎず、ただきわめて偏狭な者たちだけがこれを確信もしくは真理としてとして押し通すにすぎないことを理解するには、たいへんな成熟を必要とする。ひとつの信念への子供じみた忠実さとは反対に、ひとりの友人にたいする忠実さは美徳、おそらく唯一の、最後の美徳なのである。

『出会い』

社会主義体制下の思想統制と、そのための密告社会(イデオロギーを基準として、裏切りが推奨される社会)を実際に経験して苦渋を舐めさせられ、手垢のついた言葉だが尊厳を脅かされたであろう彼の経歴を思えば胸に迫るものがある。ナチスユダヤ人との関係にも同じようなことが言えるだろう。

ただ、これらヨーロッパの歴史が教えるところ、つまり「理解するには、たいへんな成熟を必要とする」「ひとりの友人にたいする忠実さは美徳、おそらく唯一の、最後の美徳」を、ハックは自然と、具体的で素朴なつきあいなかで、すなわち歴史(成熟)なしに選んでいる。ヨーロッパの歴史に対置されるような、アメリカン・イノセンスの奇跡(ゆえにそれは神的とされる)がここにはある。ヨーロッパで歴史・文明なしに生きると『異邦人』となり、殺されることになる(アルジェリアですが)。クンデラ『不滅』の、文明(騒音とキッチュと人間の不躾さ・醜さ、存在忘却)をまえに立ち尽くして、行く先を「修道院かしら」と思いなし、最後の、究極の美しさの象徴として勿忘草(自然)を目のまえにかざすことを願うアニエスも似た文脈にいる。

文明がもたらす教条と自然の教育のあいだで、ハックは後者に従う。アメリカ文学の水源のひとつ、アメリカ的小説の精神。ヴォネガットに言わせれば、新参移民でさえ一読「特異なアメリカ的魅力」が自らにも備わっていると想像しはじめてしまうような小説的徳をもった「神話」とはそのようなものだ(『パーム・サンデー』)。しかしそれは傷ついている。『パーム・サンデー』の「まえがき」の終わりはこうだ。

わたしのこれまでの著書は、人間の行動の大半が無邪気なものであること—を主張してきました。そんなわけで、マーシャ・メイスンがわたしに言ったことをここに引くのは、まことに所を得ていると思います。

「このニューヨーク市には困ったことがあるわ。なんだかおわかり」とマーシャはたずねました。
「さあ」とわたし。
「ここでは」と彼女は言いました。「人間のうちに無邪気な心があるってことを、だれひとり信じてないのよ。

国家的精神としての無邪気さ、能天気さ、楽天性(これは昨今話題の反知性主義とも関係している。知は「垢」なのだ)。現実には「文明的な」白人たちの黒人への差別と抑圧は法的には公民権法の成立する1964年まで、実際にはそれから50余年後のいまに至るまで続いている。他の差別と迫害も。そして、アメリカのイノセンスを損ない、「特異なアメリカ的魅力」を目減りさせてきた戦争というもの。

まわりくどくなったが、このアメリカン・イノセンスと、イノセンスに対置される罪である差別、という対立が明示的とは言えないにせよ『アメリカン・ビューティー』に横たわっているのではないか、ということだ。レスターは実は、キャロリンとフランクというふたりの人間に殺されている。

レスターが社会から降りて、社会的にも物理的にもときに裸になり、身体に向かい、それを鍛えることについては概ねイメージからの脱却、男性性(身体性)の回復の文脈で捉えてきたが、それは文明を離れ、自然に帰っていくというふうに読みとることもできる。これらは『イントゥ・ザ・ワイルド』(野生へ)の精神性に似ている。クレジットカードを焼いて旅立つ主人公のマッキャンドレスは現代の聖人であり、終焉の地であるマジック・バスは聖地となった。彼はイノセンスの生き証人だ。彼はヒッピーたちと親和する。ヒッピーの特徴は「自然」と「親世代に反抗する『子ども』たち」だ(レスターもやたらマリファナを吸う)。「野生へ」については、『ファイト・クラブ』や、遡って『エスケープ・フロム・LA』にも似たようなことが言える(それらはどちらかと言えばラッダイト性だが。古くはジョン・ミリアスに通じる)。熊を放とうとする欲望。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、現世から降りることになる「私」もラストでクレジットカードを焼いて、自然の恩恵、閉じたまぶたを温める遥か遠くからの陽光に感謝しながら限界ある自らの生を言祝ぐ(この小説も「激しい雨」で終わる)。『ファイト・クラブ』でテロの標的となるのもクレジットカード会社。クレジットカードは金(カネがキンとかギンとか、もので表されていることを思い出そう)のモノ性を失わせ、数字へと還元してしまうものだ。要は、現代文明そのものだということ(養老先生なら「脳化」と言うだろう)。

アメリカン・イノセンスは自然に育まれたものであり、文明化によってそれは失われていった。アメリカには、自然愛好と自然嫌いというきわめて相反する心性があるように思われる。たとえば、フランクはゲイであること=自らの自然(ネイチャー)を否定している。逆に「訓練と規律」、そして技術の結晶たる銃と親和する。『草の葉』(「自然」が拘束を受けず本来の活力のままに語る詩)のホイットマンは同性愛を謳っていたのに。まとめれば、アメリカのイノセンスが、それと対立するアメリカの(厳密に言えば、白人たちの)二つの罪、成功主義的強迫観念(安っぽい商業的貪欲さ)と差別という呪いが結びついて結実した、さらなるアメリカの罪である暴力(銃)に殺されてしまう構造をもった話、それが『アメリカン・ビューティー』ではないか、というのが当方の仮説だ。

『アメリカン・ビューティー』 18. 構成再び - 霊レスター

f:id:kilgoretrout:20151224210101p:plain

最後のまとめに入るまえに、この映画の構成の妙について書いておきたい。先にも書いたが、『アメリカン・ビューティー』の場合は以下のように明確に区切られる。

アバンタイトル(00:25〜01:01)】
【タイトル(01:01〜01:05)】
【一幕め(01:06〜44:14。43分8秒)】
【二幕め(44:15〜79:54。35分39秒)】
【三幕め(79:55 〜108:17。28分22秒)】
【アウトロダクション(108:18〜)】

映画の本編について、一〜三幕めの最初はすべてバーナム家のまえの街路(ロビンフッド通り)の空撮にBGMつきでレスターのナレーション(ボイスオーバー)が入る。ために、構成が明確でわかりやすい。というか、同じ演出によって区切りが明瞭に判別できる。一幕めの空撮の視点は地上に降りていくもので、映画の最後ではその視点が上がっていって締めとなる。ここからわかるのは、この映画が霊・レスターの再体験であるということだ。

一幕めの最初では空撮の視点は地上のほうに近づいていく。そして眠っているレスターが映される。要は幽体離脱状態だ。ボディ・レスターに霊・レスターが入り込んで自分がなぜ死ぬはめになったかを見きわめはじめる、とも解釈できる。靴を履くクロース・アップのカットは、わざわざベッドの下から撮っていてちょっと凝っている。気怠い一日にまた足を踏み出さないといけないというニュアンスであることは確かだが、霊が地上に降りてきて身体を取り戻して行動しはじめるというふうに見るとおもしろい。こういった表現は別に珍しくないように思う。天使が堕ちてくる話型。「天から地」のカットは必要だ。

二幕、三幕は一幕からの間欠的連続だから空撮の視点が昇降することはない。アウトロダクションの空撮の視点が上がっていくのは、亡くなったレスターの昇天を意味しているとしか考えられない。殺されて霊となったレスターが、人生の終わりのほうで印象的だった転機の時季にスポットを当てながら再体験(回想)している映画、それが『アメリカン・ビューティー』だ。『サンセット大通り』も同じ体の映画だが、『アメリカン・ビューティー』は演出と構成によってそれが際立っている。霊となったレスターが区切りをつけながら、無駄を省き、編集して構成した自分の人生=『アメリカン・ビューティー』とも言える。これは映画がそもそもどういうものなのかということも表す。もちろんレスターのいないところでひとは動き、事が運んでいるわけだから、あくまで象徴的な意味合いということではある。