『アメリカン・ビューティー』 7. 恐怖と消費とわたし

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『ボーリング・フォー・コロンバイン』のなかで、間違いだらけの「正しい大人」たちは、高校銃撃事件の原因としてショック・ロッカーのマリリン・マンソンを激しく集中的に糾弾する。しかし逆に、彼だけが実のあることを言っている。いわく「テレビを見る、ニュースを見る、あんたは恐怖でいっぱいになる、洪水だ、エイズだ、殺人だ、カット、コマーシャルへ、ホンダ車を買え、歯磨き粉を買え、息が臭いと誰からも話しかけられないぞ、ニキビがあると女の子がヤラしてくれねえぞ、ただただこの恐怖のキャンペーンなんだ、そして消費、みんなに脅しをかけろ、そうすりゃやつらは買う、これにすべて乗っかってるんだと俺は思うね(you're watching television, you're watching the news, you're being pumped full of fear, there's floods, there's AIDS, there's murder, cut to commercial, buy the Acura, buy the Colgate, if you have bad breath they're not going to talk to you, if you have pimples, the girl's not going to fuck you, and it's just this campaign of fear, and consumption, and that's what I think it's all based on, the whole idea of 'keep everyone afraid, and they'll consume.)」「コロンバインの学生や住民に会ったとしたら何を言う?」と訊かれた彼は「何も。ただ彼らの話を聞く」とも答えている。

背景を示したほうがわかりがいいように思われるのでちょっとまとめよう。20世紀の消費社会の流れはこうだ。大量生産・大量消費は20世紀序盤、フォーディズムで可能になった。職人が一台を取り巻いて組み立てるのではなく、流れ作業・適材適所の人員配置で量産する。そのようにしてできたT型フォードはバカ売れする。しかし、急に売れなくなる。GMは色彩とデザイン、つまりは見た目を重視してフォードを負かした。内実よりもデザインが重要なのだ。いまでもデザインは最重要課題だ。MacBookは初めにフォルムを決め、次いで中身を詰めていってつくっていたらしい。初期型の排熱で太ももを火傷しそうになったことがある。ここではデザインが機能性を圧している。他にたとえば、ウォークマンの時代まではツマミ、ボタン、スイッチ、予備の電池入れなど機能の足し算がそのまま外装の突起に表れ、電化製品はごちゃごちゃとしていた。それが工業製品というものだった。Appleはこれをほぼすべて排除した。ハイモダンな建築を見ればわかる。都内だと有楽町・銀座の伝統的と言われるもの以外の、やたら高い薄めの羊羹のようなつるっとしたビル。それは地上に鎮座するiMacのようだ。Appleは工業製品にモダン建築の無駄を削ぎ落したシンプルさを実現させ、普及させた。多くがそれに追随した。そして、彼らを背後に追いやった(Leave Them All Behind)。以下の画像がすべてを物語っている(こちらから引用)。

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そして、バージョンアップ、何年製という型の概念。古いものはダサく、恥ずかしいものだというモード(ロラン・バルト)とイメージの流れが形成される。百聞は一見にしかずの要領で見た目を知らせることに加えて、新しくなりましたとか新製品ですとかイケてます、と言ってまわる必要が強まり、広告業が伸びに伸びた。なにより大事なのはイメージだ。日産サニーの「となりの車が小さく見えます」(1970)という下品なキャッチコピーのCMには、まだ製品とイメージのあいだにつながりがあった。しかし、DoCoMoの白犬のCMは「楽しい家庭」こそ強調されるが、製品についての情報はまったくと言っていいほどわからない。AppleのCMでは、どこかわからない白地の背景に様々な人種の人たちが入り乱れ、イケてるグローバルなイメージが醸し出される。ユニクロも似たようなものだ。時代遅れの恐怖、イメージ、イケてるかそうでないかでひとは新しいものに手を出す。iPhoneはその究極形だ。バージョンアップしても形状はほとんど変わらない。中身の変化もたいしてよくわからない。しかし、人々はバージョンが新しいという理由で買うのだ(というのもメディア論で逆に批判される「大衆愚妹論」であって「いや、ちゃんと調べてるし」という向きも多いだろうが、大筋そうだということですみません)。画、見た目は変わらないのにしっかりと違うものとして想起される。これこそが(見た目という意味ではない、純粋な想念としての)真のイメージの技法だ。

残るは差異化の原理に基づく記号の消費(ボードリヤール)。売り手は微小な差異によって潜在的買い手の欲望を惹起し、消費者はそこにアイデンティティを見出す(ように幻想する)。

...そのレストランには実に八種類ものハンバーグ・ステーキがありました。テキサス風とか、カリフォルニア風とか、ハワイ風とか、日本風とか、そういった感じです。テキサス風というのはとても大きいんです。それだけのことです。ハワイ風にはパイナップルがあしらってあります。カリフォルニア風というのは……忘れました。日本風には大根おろしがついています。店は洒落たつくりで、ウェイトレスはみんな可愛く、とても短いスカートをはいています。
 しかし僕はなにもレストランの内装を研究したり、ウェイトレスの下着を眺めたりするためにそこに行ったわけではありません。僕はただハンバーグ・ステーキを、それもなに風でもないごく単純なハンバーグ・ステーキを食べに行ったのです。
 で、僕はウェイトレスにそう言いました。
 申し訳ないが当店はなになに風のハンバーグ・ステーキしかないのだ、とウェイトレスは答えました。
村上春樹バート・バカラックはお好き?』(1982)

出来合いの差異が、使用価値(ハンバーグがどれだけおいしいか)を殺してしまっている例だ。村上春樹のオシャレ感が苦手と言うひとがいるが、うーむ、逆じゃないでしょうか(初期の意匠については否定しない)。ひねくれているのは確かだけど。『カンガルー日和』収録の『バート・バカラックはお好き?』は、現在は全集にて加筆訂正されて『窓』となっている。差異(記号)の消費と欲望の模倣についてもっと意識的で直接的な言及もある。

いや、違うね。必要というものはそういうものじゃない。自然に生まれるものじゃないんだ。それは人為的に作り出されるものなんだ。...港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスです、ってね。何度も何度も反復して情報を与えるんだ。そうすりゃみんな頭から信じこんじまう。住むんなら港区、車はBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。想像力というものが不足しているんだ。そんなものただの人為的な情報だ。ただの幻想だ。
ダンス・ダンス・ダンス』(1988)

いかにもバブルでやや隔世の感もあるが、高度消費社会はここにひとつの完成を見たと言っていいだろう。ここまで、その要素の部分においては大筋、見田宗介の名著『現代社会の理論』のはじめのほうに概説されている(教え子の宮台真司さんがビデオニューストーク・マル激で名前を挙げることなくナチュラルにこれを引用していて、いささか感動してしまいました)。そして現在は「ギルティー・フリー」商品、あなたはこれで罪のない人間でいられますよ、逆に言えば他のものを選ぶならあなたは罪まみれですよ、というマーケティングが流行りつつある(これは『辺境ラジオ』で聞いた)。

消費と恐怖は相性がいい(「おじいちゃん、おくちくさ〜い」。きっとなんかマーケティング用語もあることだろう)。キャロリンの場合もそうだ。彼女は貧困家庭に育った。これは彼女の弱みであり、忘れたい過去でもあるはずなのでわずかに言及されている程度だが重要なところだ。貧乏だったから貧しさに対する恐怖への防衛機制としてモノを買い、家を満たす。仕事に励み、キャリアを積み、薔薇を育て、きれいな服を着てメルセデスを走らせ、ビールをこぼせない4000ドルのソファをしつらえ、セミ貴族のようなテーブルをセットし、丁寧かつ心ない物言いを心がけ、そのようにして金持ちのイメージを買う。金持ちは複数台の車を所有しているから、彼女も使わない車を用意する。懸命に働き、暮らしを立て、端々をケアして生活を切り回しているのに、その姿になんとなく共感できないのはそんなところにある。できあがるのはCMのような家庭だ(A commercial, for how normal we are.)。そして彼女はほとんど常に不機嫌だ。恐怖が消えないから。これすなわちトラウマというものだ。彼女が皮肉でなく、手放しに笑うシーンはラストの短い回想シーンにしかない。

アンジェラには「あなたのお母さんのほうが嘘くさいわ」と言われる。子どもはよく見ている。大人こそ内情を見ていない。イメージとかたちをつくるだけで、表面を越えて根っこまで掘り、内情を把握して、面倒を引き受けるようなことをしない。キャロリンは神経症的にひたすら外形を整える。映画冒頭でレスターが彼女についてまず言及するのは、ガーデニングの道具、剪定ばさみとつっかけの色さえ揃えていることだ。ここはつっかけが似合うようなおばさんになってきた、女性として薹が立ってきたと評しているのではない。レスターが「それは偶然ではない(偶然色が同じなのではない)」というのは、彼女の過剰な外形の整え、イメージングのことを差す。隙のない服装と立ち居振る舞い、家屋と家具のコーディネート(飾り雨戸、ソファ、ワンピースの色が同じなど)、仕事で取り扱う家の鏡のくもりを抹殺するように拭く目つきと手つき、世間的に望ましい家族活動(チア見物)、娘の演技への「失敗しなかった」という褒め方、不動産業者パーティーでの「不動産はイメージを売るものだから、そのイメージを生きないといけない」。それはレスターを疲弊させる。コーディネート、きちっとしていることは、それが過剰な域に達し、周囲に要求するほどにまでなればひとをいら立たせもするし、それ以上に問題なのは、この「イメージのための整え」にだけ彼女の関心のリソース(エロス)が注ぎ込まれてしまうあまり、他に注意力や想像力が向かっていかないことだ。彼女が願うのは、車内で歌っている曲「Don’t Rain on My Parade」、つまり「私の祭りに雨など降ってくれるな」ということだけ(もちろんと言うべきか、映画の文法どおり、彼女は後々自分の祭り=人生にどしゃぶりを食らうことになり、現実でもびしょ濡れになる)。

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そういう大人をこの映画では「もっとよく見ろ(Look closer.)」と告発する(冒頭のオフィスのシーン。ちゃんとカメラがズームしてlook closerする↑)。これは冒頭の庭の樹をキャロリンが取り除かせた云々のくだりを踏まえている。彼女はフィッツ家以前の隣家の住人が野良猫にエサをあげるので頭にきて、腹いせに根っこはウチにあるからと隣家の庭の樹を切った。樹の根には敏感なのに人間の根には気を配らない。

また、安直、ステレオタイプのそしりは免れないが(動物好きのろくでなしはこの世にゴマンといるから)、動物をどう扱うかはその当事者の人間性を表す。大江健三郎は、漱石が子どものかわいらしさ、無邪気さを表す比喩として「むく犬のような」という表現を使っていることを書いている。逆にドストエフスキーの小説で、虚無に陥った人間は窓から犬を投げ捨てる(どの作品か失念)。それは文学の技法ではあるが、現実もしばしばこれに倣う。イラクのアメリカ兵は崖から犬を投げ捨て、動画に撮っていた。アメリカバイソンは白人入植から19世紀末までに、6000万頭から750頭(0.00125%!)までその数を減らされた。19世紀の終わりからアメリカが何をはじめたか。開拓の仕上げにウーンデッド・ニー(1890)でネイティブ・アメリカンを虐殺し(よくぞという感じで、米産ゲーム『Bio Shock: Infinite』が題材にしている)、国内にケリをつけたあと、メディア王ランドルフ・ハースト(『市民ケーン』のモデル)が新聞を通してきっかけをでっちあげた米西戦争(1898)がはじまった。ここからアメリカの終わりの見えない対外戦争が続くことになる。動物の扱い方は(おおむね)人間の傾向を表す。つくり手がキャロリンをどう思ってほしいかは明らかだろう。「人間の真の善良さは、いかなる力をも提示することのない人にのみ純粋にそして自由にあらわれうるのである。人類の真の道徳的テスト、そのもっとも基本的なものは(とても深く埋もれているので、われわれの視覚では見えない)人類にゆだねられているもの、すなわち、動物に対する関係の中にある。そして、この点で人間は根本的な崩壊、他のすべてのことがそこから出てくるきわめて根本的な崩壊に達する。」(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

単なるキャリア・ウーマンではなく、貧乏の恐怖から抜け出すためになりふりかまわず立身出世・成功に突き進もうとする女性という人物造形はサム・ライミの『スペル』でも見られる。アメリカでの貧乏と他国でのそれは捉えられ方が異なる。引用ばかりになるが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(1969)を見てみよう。

アメリカは地球上でもっとも豊かな国である。しかし国民の大半は貧しく、貧しいアメリカ人たちは自分を卑下せざるをえない状況におかれている。アメリカのユーモア作家キン・ハバードの言葉にしたがえば、“貧乏だからってべつに恥じゃないんだが、やっぱり恥なんだな”。貧民の国でありながら、現実には貧乏することはアメリカ人にとって犯罪にも等しいのだ。賢く、徳が高く、したがって権力や富を持つもの以上に尊敬される貧民の物語は、世界各国の民間伝承に見うけられる。しかしアメリカの貧民のあいだに、そのような物語は存在しない。彼らはみずからを嘲り、成功者たちを称揚する。貧しい男が経営するうすぎたない飲食店の壁に、“おまえがそんなに利口なら、どうして金持じゃないんだ?”と残酷に問いかける紙が貼ってあるという話も、大いにありうることである。

人がだれしもそうであるように、アメリカ人もまた多くの見えすいた虚言を信じている。なかでももっとも有害なのは、アメリカではたやすく金が儲けられるという虚言である。金を儲けることが実際にはどれほどむずかしいか、アメリカ人は認めようとしない。金を持たぬものは、したがっておのれを果てしなく責めることになる。そして、この自責観念が、一方で金持や権力者の財産となってきた事実も見逃すことはできない。貧者への義務を公的にも私的にもほとんど果すことなくすましてきたという意味では、彼らはナポレオン時代以降もっとも恵まれた支配階級といえるであろう。アメリカからは多くの新製品が渡来した。しかしなかでも前例を見ない、脅威の新製品は品性下劣な貧民の大群である。自分を愛するすべを知らぬ彼らは、他人を愛することもない。(文庫 P. 155, 156)

 美しく気高いアメリカン・ドリーム、立身出世、セルフ・メイド・マンの裏側。仕事人間の旦那とそれに飽きれる奥さんというパターンの話は創作・現実問わず数かぎりなく日本にもあることだろう。国是レベルで戦後の日本人は富国を目標に歯を食いしばって働き続けてきたし、浮上する問題はアメリカと共通している。しかし、世界で最も成功した社会主義国家と言われてきた日本では、アメリカほど成功者のtake it allと、敗残者の「自由を上手く行使できなかった恥」のメンタリティーは根付いていない(それも変わりつつあるが)。ウォール・ストリートの占拠でこの潮流に疑義が呈されたのは、それが限界まで伸張してしまったからだ。アメリカでも、はじめから格差社会そのものが肯定されていたわけではない。フランス人、トクヴィルはアメリカ見聞後に著した『アメリカン・デモクラシー』(1835年)にてその平等性に驚いたりもしている(内田樹とハフィントンの本で読んだ覚え。フランスは貴族社会だから当たり前と言えば当たり前だが)。しかし、勝者総取り、貧乏=敗者・恥の概念はいまや基本原理、つまりは保守的イデオロギーになってしまったし(1925年の『グレート・ギャツビー』にも、それを書いた当のフィッツジェラルドにも、すでにそのメンタリティーが里程標のようにはっきりとある)、その傾向はいや増しつつある。その原点と現在をつなぐのがティーパーティだ。「自由の息子たち(sons of liberty)」の息子たち。貧乏人の醜態、敗者を自認した末の諦め、「貧すれば鈍す」の無惨な光景はアメリカ映画で頻繁に描かれる。最近のものでは、白人社会では『ミリオンダラー・ベイビー』、黒人社会では『プレシャス』なんか本当にひどい。貧乏は人の道に反すると言っても過言ではない。

「彼らはみずからを嘲り、成功者たちを称揚する。」ここなどはキャロリンそのままだ。「金を持たぬものは、したがっておのれを果てしなく責めることになる」ということにならないないよう、キャロリンは薄っぺらい自己啓発にのめり込み、自分を追い込んでいく。そして「自分を愛するすべを知らぬ彼らは、他人を愛することもない。」