『アメリカン・ビューティー』 13. フランク・フィッツ

フランク・フィッツ大佐役の俳優、クリス・クーパーは台本を一読して「ああ、私はこの人物の頭のなかに入り込んでしばらく過ごしたいだなんて思うだろうか?」と自問し、このキャラを演じる理由(言い訳)を練りはじめたらしい。「なんてネガティブな台本なんだ。あれやこれや気にいらない(I don’t like this and that.)」彼はフランクを演じることを恐れた。「ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」というやつだ。

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フランクほど「現実とイメージのギャップ」を名実ともに強く体現しているキャラはいない。彼は自分がゲイであるという現実(身体)と、父権的な、強く立派な男/父親というイメージに引き裂かれている。前者を否定し、後者を体現するために彼はことさらゲイ差別的な発言をする。銃を集めていることは言うに及ばずだろう。男性性についてコンプレックスをもつ男の防衛機制としてこれほどわかりやすい象徴はない。ゲイを否定するということはすなわち自分を否定するということだ。マッチョなアメリカでゲイや軟弱らしき男を罵倒する典型的スラング「カマ野郎(faggot)」を口にするたびに彼は自らを痛めつけていることになる(この言葉が最もよく使われるのは軍隊だろう)。そのようにして自分で自分を攻撃し、毒を溜め込んでいく。それが彼にとっての「自己構築と規律/訓練」だからだ。これは正しく地獄と呼ぶべきものだ。出口がない。出口はないが、毒は堰を切ってあふれ出す。リッキーの項で書いたように、弱い者はさらに弱い者を叩く。また、自分がゲイであることを認め、衒いなく人生を謳歌するゲイのカップルを逐一口撃する(うらやましさもあるはず)。そして常に不機嫌だ。キャロリン同様。

「クローゼットのなかにいる(closeted, in the closet)」という表現がある。ゲイであることを公言し、LGBTをはじめ被差別者層の権利拡充と地位向上のために戦った政治家を描いた『ミルク』を町山智浩さんがラジオで解説してくれた際に知った。これは、LGBTがその性的指向を隠していることを表す。クローゼット(closet)は、close(しまい込んで閉じる)するところで、その連想からだと思われる。反対はcoming outでこちらのほうが先だが、どこから出てくる(out)かとなれば、クローゼット以上に適切な場所はない。

ここからアイデアが浮上し、作劇上の仕掛けとなったかはわからないが、『アメリカン・ビューティー』でもそのような心象を象徴するものとして、クローゼットではないものの似たような道具が使われている。部屋とサイドボード、そしてその鍵かけの有無だ。部屋は心の鏡と言われるとおり拡張された自我だから、親に話せないことが浮上してくる思春期に子どもは部屋を自分の趣味で彩りはじめ、ときに鍵をかけたりするようになる。リッキーが部屋に鍵をかけているということは、父親に対して心を隠しているということだ。バレるとまずいものを即物的に隠す意図もあるが、それも心を隠していることに含められる。父親は開けるように促し、息子は「勝手に鍵がかかった」とありえない答えを返す。彼が鍵をかけた理由を言うことは不可能だ。『フルメタル・ジャケット』で描かれているとおり、それは軍隊でのロッカーチェックと同じだから。「なぜ鍵をかける必要があるのだ?」と父親は問い、開放を要求する。つまり、心を開けということだ。これは赤狩り時代のアメリカ、その敵である共産主義国家双方が国民に強いたことでもある。フランクは息子がいないあいだに勝手に侵入し、物色する。そんなふうに開けっぴろげにしとけと息子に要求する彼自身は、自分の戸棚が開けられたことがわかった途端逆上する。明らかに矛盾している。親と子の関係とはいえ、非対称にもほどがある。

リッキーは合鍵をもっているのだし、ジェーンにナチのプレートを見せたあとは慎重にそれを戻しているはずなのに(施錠シーンはないが、普段から物品の取り扱いに注意を払うリッキーがそれをしないというのはありえない)、何故かフランクは、まるで神通力が備わっているかのように戸棚が開けられたことに目ざとく気づく。理由は説明されないが、これは、余人に自らの内部を探られたり、見られたりしないように神経症的なまでに敏感に注意を払っていることを示す。そこに侵入されることはなによりも避けるべき忌まわしいことだ。一般論としての「ひとのものを勝手にいじるな」に託つけ、自己構築と規範/訓練=しつけを名目に、息子を執拗に殴りつけることになる。内部を隠しておくことが彼にとってはなによりも重要なのだ。彼はクライマックスで、レスターに濡れた服を脱げと言われても脱がない(『日の名残り』の主人公で執事のスティーブンスは、いちばん大事なことは「服を着ていることだ」と言う。彼も本音を明かすことがない。二重人格的でいわゆる「信用できない語り手」だ)。また映画冒頭、ゲイカップルの「ふたりのジム」が来訪する間際の、予期しない客人の来訪へのフィッツ家の面々の慌てぶりは普段からいかにこの家(家庭)自体が外部の者を受けつけていないか、閉鎖的であるかを物語っている。

フランク・フィッツ。Frank Fitts。frankは「率直な、腹蔵のない」、fitts ≒ fits(fitに三単現のsつき)は、合う、適している、「適応している」。フランク・フィッツ=「腹蔵なく、現実・周囲に適応している」。名は体を表す。しかし、この名は実を表していない。彼は自己をひた隠しにし、自分がゲイであるという現実に向き合うことができず、世界との調和を欠き、周囲を抑圧し、癇癪を起こす。この名前は彼を表していないが、同時に彼をよく表している。外形、すくなくとも彼が目指すべきイメージは名前のとおりの人物だが、現実、性的指向および周囲との調和を図れない実際の状況はそうでない。その距離を隠蔽し、自らを偽っているということ自体を、要は彼の矛盾、裏切りをこの名前は示す。言い換えるなら「名は体(てい)を表す」。皮肉のこもった、なんとも絶妙なネーミングになっている。彼の本当の名前(諱)はCrack Misfittsといったところだろう。

性的指向が理由でなくとも、現実と理想の乖離から欲求不満を深め、他者を攻撃することによってそれを解消しようとしてしまうような言動はむしろありきたりとさえ言える。そうした呪われた回路は当然人の道にもとる。そのように気づき、自らを顧みてそれをやめるといったような「個人の意識と努力」でどうにかなる場合はまだ救いがある(仕事の能力など)。しかし、ありたい人間像を否定する権力作用が外部、たとえば社会に常識として登録されている規範に由来していたりすると事は難しくなるし、その強度に応じて容易には解消しがたい葛藤や欲求不満が生じる(この風通しのわるい閉鎖状況を変えるのも広く芸術の役割だ)。フランクもこの例にもれない。息子を抑圧するフランクを抑圧してきたのは、アメリカのマッチョイズム、ホモフォビア(『アメリカは今日もステロイドを打つ』)と差別だ。

もちろん差別の問題はアメリカにかぎらず世界中至るところにあるわけだが、アメリカでそれがことさら前景化され、独特に語られるのは、ごく簡単にまとめれば(ごく簡単にまとめちゃいかんのですが)、ヨーロッパで迫害されていたプロテスタントたちによって「歴史のない未開の地、無垢なる新世界」(それは本当ではないから常に括弧つき)に自由と民主主義の国を実現せしめるという麗しい理念に基づいて建国と開拓がなされながら、ネイティブ・アメリカンを虐殺し、長く過酷な奴隷制を敷いて黒人を痛めつけ、遅れてきた移民を迫害してきたe.t.c.という矛盾と血塗られた罪の歴史があるからだ。

LGBT差別は近年ようやくクロースアップされてきた「最新の」問題であるとはいえ、やはりそれはかの国では「アメリカの差別問題」の系譜のなかにあるように思われる。映画『ミルク』を観ればわかるとおり、差別の様態(公権力にほとんどその属性だけで暴力を受け、逮捕されたりする)も、その克服に向けた筋道と風景(誰かが声を上げて立ち上がり、リーダーとして敬意を集めていく。そして暗殺される)もキング牧師が指導した公民権運動にそっくりだ。こんなスピーチもある(ヨルバ・リチェン: ゲイ・ライツ・ムーブメントが公民権運動から学んだもの | Talk Video | TED.com)。マイノリティーとして被差別層が連帯する/しようとするところにもそれは表れている。この方面の専門家というわけでもないので、確かなことは言えないのですが。これを書いている最中に、アメリカで同性愛者の結婚が合法とされた。God bless America.

アメリカン・ビューティー』を観て「共感できるキャラ」のアンケートをとったら「いない」が多いだろう。逆に「嫌いなキャラ」であればフランクがかなりの割合の票を集めるに違いない。それでもフランクは「アメリカの差別」という観点と文脈からすればやはり被害者のように思える(架空の話になんだが、これは社会学的な見方で、もちろん属人的な責任を否定するものではない)。アメリカの差別とその暴力性を内面化させられ、擬されているのがフランクだ。アメリカ的不器用さもそこにあるように思われる。キャロリンがアメリカの強迫神経症的成功イデオロギーを担わされているのに対して、フランクはアメリカの差別という罪を一身に、主客両面で凝縮して体現させられている。このふたつの罪は「アメリカン」とタイトルに冠する風刺映画をつくるにあたって意識的にせよ無意識的にせよ外すことのできない、身体的と言っていいパーツだったのではないか。このふたつの罪が結託したかのように暴力を結実させる構造になっていることも含めて。彼らは押し出されるようにして、アメリカの建国・開拓と同時に罪を実現させてきたメディア、銃を手にとることになる。

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