『アメリカン・ビューティー』 19. アメリカン・イノセンスと、差別・暴力

不勉強なので仮説ということになるが、アメリカの文物のひとつの流れとして、ピューリタン的な、立身出世と成功、刻苦勉励、自己啓発教養小説的なるものがある。これは、フランクリン、ワシントンをはじめとした偉人伝、ホレイショ・アルジャーの一連の著作、成功者の神話たる数々の実業家の自伝・評伝・体験談(カーネギー、フォード、アイアコッカスティーブ・ジョブズ他)、現在では日本にも翻訳されてしばしば登場する自己啓発本の類に代表される(代表してるもんが少ないな。読まないから外面的にしかわからない。試論ということで)。その極北と言うべき存在が「聖書の次に(アメリカ人に影響を与えた)」という惹句つきの本『水源』を書いた、成功者の総どりと支配を称揚して臆面もないアイン・ランドAppleの「クリエイティブ」な製品を買ってつくづく思わされるのは、この企業の設定する世界観がやたらビジネスがかっているというか、自立したセルフメイドなビジネスマンを想定してるということだ(アドレス帳を見てみよう。iPhoneの株価アプリは外せないし)。「アメリカ人、Americanの最後はican(I can)、私たちはできるのよ」となにかのドラマで母親が子どもを励ますというくだりを見た覚えがあるが(この論理だとたとえばブラジル人も「できる」のだが)、あの感じ、TVでのアメリカの感動エピソードの再現VTRに示されるあのいわく言いがたい妙なポジティブ感もここに含められるだろう(追記。エレン・バーンレイク『ポジティブの国、アメリカの病』という本があるそうです)。

もうひとつの流れは、アメリカ文学系譜であり、現代文学の水源という意味で言えば、その水源地のひとつは明確にマーク・トウェインに存する。Wikipediaマーク・トウェインの項をそのまま引いておこう(どうせ文献にも同じことが書いてあるのだ。そこから引いてるのだから)。「ウィリアム・フォークナーは、トウェインが『最初の真のアメリカ人作家であり、我々の全ては彼の相続人である』と記した。アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、『あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する』と述べた。」自己啓発本が生真面目さと成功を旨とする一方、文学は笑いや冗談、失敗(間違っていること)に裏打ちされるものだ。この二極は小説世界が成立しているどの国にもあるように思われるが(たとえば、『不思議の国のアリス』はそれまでの教化的児童読み物の流れを変えた)、そのくっきりとした屹立のありようがアメリカらしいように思われる。後者について、その特徴とともにヴォネガットの『パームサンデー』の「ひとつの文学」で傍証される。ヴォネガットが多くてすみません。単に好きなんです。

先日、マディスン街のある本屋で、ひとりのフランス人が英語で、「ここ四十年かそれ以上、アメリカで本を生み出した人はひとりもいない」と言っているのを耳にした。なにを言おうとしているのか、わたしにはすぐわかった。彼の言う本とは、たとえば、『モビー・ディック』、『ハックルベリー・フィンの冒険』、『草の葉』、『ウォールデン』といったクラスの世界的傑作のことなのだ。わたしはその考えに同調せざるをえなかった。わたし(一九二二〜?)がこの世に誕生して以来、そのスケールにおいて『ユリシーズ』や、『失われた時を求めて』や、『ブリキの太鼓』や、『百年の孤独』や、『イワン・デニソヴィッチの一日』に匹敵する作品がこのアメリカから生まれたためしはない。
 でも、わたしの友人リストに並んだアメリカ作家を全部眺めわたしたいま、さっきのフランス人がここにいたならば、冷ややかにこう言ってやれたのに、と残念に思う——「おっしゃるとおりですよ、ムッシュー。わたしたちは一冊の本も生み出していません。われわれ哀れなアメリカ作家にできたのは、ひとつの文学を生み出すことだけでした」

水先案内人、マーク・トウェインという名が象徴するのはイノセンス(とユーモア)だ。そして、息子にマークと名付けさえした、ほとんど直系を自認し、トウェインに最大限の賛辞と敬愛を示す作家がカート・ヴォネガット。「彼に一貫するプロットは『無垢の人物の受難』であり『善意や自由意志の無力さ』がテーマになる。」(『現代の英米作家100人』)『スローターハウス5』が最も有名で先に引いたが、これを上澄みとすると残ったものが『チャンピオンたちの朝食』だと著者自身が語っている。ちょっと紹介したい。『チャンピオンたちの朝食』は、五十歳を目前にしたヴォネガットが「自分の頭の中を、できるだけからっぽに」する話である。これからはじめる話について説明する前書きを抜き出すとこんな感じ。

そこで思うのだが、アメリカ白人の大部分と、アメリカ白人をまねようとしている非白人の大部分も、おなじこと(自分の頭の中を、できるだけからっぽにすること)をすべきではないだろうか。とにかく、ほかの人たちがわたしの頭の中に持ちこんだいろいろのことは、どうもしっくりこないし、むだで見場もよくないことが多いし、おたがいに釣合いがとれていないし、わたしの頭の外にある実際の人生とも、うまく釣合いがとれていないのだ。

つまり、この本は、わたしが一九二二年十一月十一日へと時間の中をひきかえしていく歩道である。その歩道には、わたしがうしろへ投げ捨てていくガラクタやゴミ屑が、いちめんに散らかっている。

『チャンピオンたちの朝食』は一読よくわからない小説ではある。ハヤカワSF文庫を取り扱っているような中規模の書店ならヴォネガットの本がいく冊かはまず置いてあるが、『チャンピオン』は見かけなくなってきた。読みにくいというか、わけがわからなくて人気がないのかもしれない。ヴォネガット自身の評価も高くない。『スローターハウス5』がA+のところ、『チャンピオン』はC。

しかし軸がわかっていれば、分裂症とも言うべき小節がアフォリズムのように並ぶこの小説もあらかた理解できる(ケツの穴のイラストを考慮すればアホリズムかな)。ヴォネガットはドウェイン・フーヴァーという白人中年を主人公に据え、ヴォネガット自身が「歩道に投げ捨てるべきもの」、アメリカ文明の罪と不健全さ、その毒を注入し、背負わせてみる(巻頭言とは裏腹に、確信犯的に)。頭のおかしくなったドウェインはまさに自家中毒に陥って、他人を機械と見なして痙攣的な異常行動をとるようになり、最終的に他のアメリカ人たち相手にわけもわからず自覚のないまま激しい暴力をまき散らす。彼は作中反響言語、要はオウム返しの言動をとる。これと同じように、ドウェインは、というよりドウェインの無意識(身体)は、身に受けた白人の「文明」、暴力と混沌を世界に返しているだけなのだ(黒人はすくなくとも歴史的に政府・大企業レベルの暴力の主体ではなかったから、ドウェインの襲撃を華麗にかわすことができる。また「身体は覚えていて、わけもわからず反応する」というキャラと行動と悲劇はヴォネガットの作品にしばしば登場する。『ハリスン・バージロン』、『タイタンの幼女』、『スローターハウス5』)。他の作品もそうであるように、ドウェインはヴォネガットのもうひとつの可能性であり、ヴォネガットは暴れることのなかったドウェインだ。その代償に、この作家は現実として自殺未遂を起こす。「僕は叩く相手がいないから、自分を叩いてしまうんだ。(森博嗣すべてがFになる』の犀川)」評伝によると家庭不和の影響も大きいようだが。

もうひとりのヴォネガットオルタナティブは、彼の作品の常連的道化のキルゴア・トラウト。ドウェインを狂気とするなら、トラウトは正気の人物なのだが、他の作品でもそうであるように彼は異常者に見える(People are strange when you are a stranger.)。ヴォネガットは作中に自らを登場させて、エピローグでトラウトに言う。

われわれアメリカ人は、あざやかな色をして、立体的で、みずみずしいシンボルをほしがっている。なによりもわれわれは、この国が犯した大きな罪、たとえば奴隷制度や大量殺人や犯罪的無関心、それともまた安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されていないシンボルに飢えている。

「時間の中をひきかえし」、ガラクタを「うしろへ投げ捨ててい」き、「(…)犯罪的無関心、それともまた安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されていないシンボルに飢えている」アメリカ人。これはほとんどレスターそのものだ(劣情によってかなりぼやかされるが)。「みずみずしいシンボル」はイノセンスとも言い換えられるだろう。一方で「安っぽい商業的貪欲さや狡猾さで毒されて」いると思しき人物がキャロリンだ。『チャンピオンたちの朝食』も『アメリカン・ビューティー』とかなり似た要素がある。

アメリカン・ビューティー』がなぜアメリカ人に(たぶん)訴えるか。この映画で対立していたのは、実はキャロリンの代表する成功主義やスクウェア(四角四面、生真面目)なものと、レスターの代表するイノセンスとユーモアであり、このふたつがアメリカの歴史的な(あるいは無・歴史が生み出した)メンタリティーであるからだと考える。イノセントな感覚へのもうひとつの対立項が、フランク・フィッツが代表する差別である(上に引用したように『チャンピオン』では奴隷制度が、差別と「人間を機械とみなすこと」の文脈でクロース・アップされている)。

マーク・トウェインに戻ってみよう。彼の文学的ハイライトのひとつは、大江健三郎がしばしば引用している『ハックルベリー・フィンの冒険』の「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」のシーンだ。主人公のハック(ハックルベリー・フィン)は友だちではありながら、逃亡した奴隷である黒人のジムを主のワトソンに一旦、報告することに決め、手紙を書く。奴隷を逃すのは罪とされているからだ。「彼は罪が洗い流されてかつてないほど気分がよくなり、いまはお祈りもできる」と考える。が、しかし。

それは苦しい立場であった。私はそれを取り上げて、手に持つてゐた。私は震へてゐた。何故といふに私は、永久に、二つのうちのどちらかを取るやうに決めなければならなかったから。私は、息をこらすようにして、一分間じつと考へた。それからかう心の中で言ふ。
「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」——さう言つてその紙片を引き裂いた。
 それは恐ろしい考へであり、恐ろしい言葉であつた。だが私はさう言つたのだ。そしてさう言つたままにしてゐるのだ。そしてそれを変へようなどとは一度だつて思つたことがないのだ。

これは大江健三郎が愛読した中村為治版で、所持していないので大江健三郎の『私という小説家の作り方』から引用(孫引き)させてもらった。『ハックルベリイフィンの冒険』は開戦の年の1941年に出版されている(12/8前だとは思うが)。もし翻訳が遅れて出版できていなかったら、大江文学もいまのものとはだいぶ違ったものになっていただろう。『ハック』は自然児の言い間違いや方言、俗語をそのまま導入したリアリズムの新しさが評されるものであるので、いまでは格調を感じさせる旧仮名遣いはそぐわないと言えばそうなのだが、この本が早くに訳されていたことは誠に喜ばしいことなので、これを引かせて頂いた。

ハックは「文明」を差し置いて「地獄」に行く。そしてそれを変えようと思わない。これは文学そのものだとさえ思う。硬化した教条や規範(ある種の物語、制度、精神)に揺さぶりをかけ、笑うのは『ドン・キホーテ』からの文学的伝統であり、それが小説として発展したわけだ。ヘミングウェイが「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」とまで言うのも理解できる(この一部を指してでないのはもちろんのことではあるが)。

亡命作家(チェコスロバキア国籍剥奪→フランス市民権獲得)のミラン・クンデラはこんなことを書いている。ちなみに彼も文明・歴史、あるいはイメージ(キッチュ)と自然・身体の対立というか分離にきわめて意識的な作家だ。クンデラも多くてすみません。好きなんです。

わたしたちの時代、ひとは友情を信念と呼ばれるものにしたがわせることを学んだ。しかも道徳的な公平という誇らしささえもって。じっさい、わたしたちが擁護する意見とは、好みの、したがって必然的に不完全な、おそらく過渡的な仮説にすぎず、ただきわめて偏狭な者たちだけがこれを確信もしくは真理としてとして押し通すにすぎないことを理解するには、たいへんな成熟を必要とする。ひとつの信念への子供じみた忠実さとは反対に、ひとりの友人にたいする忠実さは美徳、おそらく唯一の、最後の美徳なのである。

『出会い』

社会主義体制下の思想統制と、そのための密告社会(イデオロギーを基準として、裏切りが推奨される社会)を実際に経験して苦渋を舐めさせられ、手垢のついた言葉だが尊厳を脅かされたであろう彼の経歴を思えば胸に迫るものがある。ナチスユダヤ人との関係にも同じようなことが言えるだろう。

ただ、これらヨーロッパの歴史が教えるところ、つまり「理解するには、たいへんな成熟を必要とする」「ひとりの友人にたいする忠実さは美徳、おそらく唯一の、最後の美徳」を、ハックは自然と、具体的で素朴なつきあいなかで、すなわち歴史(成熟)なしに選んでいる。ヨーロッパの歴史に対置されるような、アメリカン・イノセンスの奇跡(ゆえにそれは神的とされる)がここにはある。ヨーロッパで歴史・文明なしに生きると『異邦人』となり、殺されることになる(アルジェリアですが)。クンデラ『不滅』の、文明(騒音とキッチュと人間の不躾さ・醜さ、存在忘却)をまえに立ち尽くして、行く先を「修道院かしら」と思いなし、最後の、究極の美しさの象徴として勿忘草(自然)を目のまえにかざすことを願うアニエスも似た文脈にいる。

文明がもたらす教条と自然の教育のあいだで、ハックは後者に従う。アメリカ文学の水源のひとつ、アメリカ的小説の精神。ヴォネガットに言わせれば、新参移民でさえ一読「特異なアメリカ的魅力」が自らにも備わっていると想像しはじめてしまうような小説的徳をもった「神話」とはそのようなものだ(『パーム・サンデー』)。しかしそれは傷ついている。『パーム・サンデー』の「まえがき」の終わりはこうだ。

わたしのこれまでの著書は、人間の行動の大半が無邪気なものであること—を主張してきました。そんなわけで、マーシャ・メイスンがわたしに言ったことをここに引くのは、まことに所を得ていると思います。

「このニューヨーク市には困ったことがあるわ。なんだかおわかり」とマーシャはたずねました。
「さあ」とわたし。
「ここでは」と彼女は言いました。「人間のうちに無邪気な心があるってことを、だれひとり信じてないのよ。

国家的精神としての無邪気さ、能天気さ、楽天性(これは昨今話題の反知性主義とも関係している。知は「垢」なのだ)。現実には「文明的な」白人たちの黒人への差別と抑圧は法的には公民権法の成立する1964年まで、実際にはそれから50余年後のいまに至るまで続いている。他の差別と迫害も。そして、アメリカのイノセンスを損ない、「特異なアメリカ的魅力」を目減りさせてきた戦争というもの。

まわりくどくなったが、このアメリカン・イノセンスと、イノセンスに対置される罪である差別、という対立が明示的とは言えないにせよ『アメリカン・ビューティー』に横たわっているのではないか、ということだ。レスターは実は、キャロリンとフランクというふたりの人間に殺されている。

レスターが社会から降りて、社会的にも物理的にもときに裸になり、身体に向かい、それを鍛えることについては概ねイメージからの脱却、男性性(身体性)の回復の文脈で捉えてきたが、それは文明を離れ、自然に帰っていくというふうに読みとることもできる。これらは『イントゥ・ザ・ワイルド』(野生へ)の精神性に似ている。クレジットカードを焼いて旅立つ主人公のマッキャンドレスは現代の聖人であり、終焉の地であるマジック・バスは聖地となった。彼はイノセンスの生き証人だ。彼はヒッピーたちと親和する。ヒッピーの特徴は「自然」と「親世代に反抗する『子ども』たち」だ(レスターもやたらマリファナを吸う)。「野生へ」については、『ファイト・クラブ』や、遡って『エスケープ・フロム・LA』にも似たようなことが言える(それらはどちらかと言えばラッダイト性だが。古くはジョン・ミリアスに通じる)。熊を放とうとする欲望。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、現世から降りることになる「私」もラストでクレジットカードを焼いて、自然の恩恵、閉じたまぶたを温める遥か遠くからの陽光に感謝しながら限界ある自らの生を言祝ぐ(この小説も「激しい雨」で終わる)。『ファイト・クラブ』でテロの標的となるのもクレジットカード会社。クレジットカードは金(カネがキンとかギンとか、もので表されていることを思い出そう)のモノ性を失わせ、数字へと還元してしまうものだ。要は、現代文明そのものだということ(養老先生なら「脳化」と言うだろう)。

アメリカン・イノセンスは自然に育まれたものであり、文明化によってそれは失われていった。アメリカには、自然愛好と自然嫌いというきわめて相反する心性があるように思われる。たとえば、フランクはゲイであること=自らの自然(ネイチャー)を否定している。逆に「訓練と規律」、そして技術の結晶たる銃と親和する。『草の葉』(「自然」が拘束を受けず本来の活力のままに語る詩)のホイットマンは同性愛を謳っていたのに。まとめれば、アメリカのイノセンスが、それと対立するアメリカの(厳密に言えば、白人たちの)二つの罪、成功主義的強迫観念(安っぽい商業的貪欲さ)と差別という呪いが結びついて結実した、さらなるアメリカの罪である暴力(銃)に殺されてしまう構造をもった話、それが『アメリカン・ビューティー』ではないか、というのが当方の仮説だ。