『アメリカン・ビューティー』 20. 結局なに映画なのか

レスターが「ふたりから殺されること」について、ヘミングウェイの短編『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』を通してさらに詳しく見ていく。先に書いたとおり『アメリカン・ビューティー』とこの短編は似ている。意気に欠け、妻にほぼ見捨てられている中年の夫が転機を迎える点、抑圧をはねのけ、男性性を獲得(回復)して人生を取り戻す点(イニシエーション)、しかしそのことで却って妻との溝が深まり、夫婦仲が決裂していく点、妻が他の男と関係する点(これは両者で原因と様態が異なるが)、妻が夫の死を願い殺意を抱く点、夫が人生を取り戻した直後に命を失う点、(程度の差は大きいが)妻の殺意と実際の殺害がずれている点、それが成立しても妻が幸福にはならない点。

妻の殺意と実際の殺害がずれている点について。『マカンバー』はとある男の遅れたイニシエーションの話だ。 アフリカでハンティングを通して、ということだがそれ自体、古来からある通過儀礼の代表でもある。前半では、主人公の初期中年フランシス・マカンバーの金持ちではあるが、情けない、臆病な(coward)性向と体たらくが描かれる。彼のセックスに問題があることはあらかじめ暗示されている。「セックスについては書物で、多くの書物で、あまりに多くの書物で知っていた。」(僕もあまりに多くの動画でそれを知っている。)しかし終盤、彼はバッファローを撃ち倒すことで男性性を取り戻す。フランシスが快哉を叫ぶ一方で、男気のなさを不満に感じていたはずのマーゴットは意外にも、彼に豪胆さが備わったことで逆に不安にかられはじめる。以前から彼に心ない態度をとり続け、不貞さえはたらいて悪びれることもなかった自分は、一人前になったフランシスに確実に捨てられるに違いない。物足りなく思っていた彼の男性性の不全は、それが生まれてみれば余計なものになり下がり、その増長はやがて彼女を破滅させるだろう。

倒したバッファローのうちの一頭を確認したあと、彼らは仕留め損ねていた一頭に車で近づき、降りて茂みにわけ入る。序盤で手負いのライオンをまえにしたときと同じ状況。銃を構えるフランシスにバッファローが突っ込む。その瞬間、頭のなかで「閃光が弾け」て、フランシスは絶命する。マーゴットが「車から」ライフルを撃ったのだ。車から撃つのは禁じられているにもかかわらず(Not from the car, you fool!)。彼女は掟を破り、夫は妻の放った弾丸によって殺される。

ここは故意か事故か意見が別れるくだりで、『ヘミングウェイ全短編2』の解説にて訳者の高見浩も遡上に載せている。高見浩が書いているとおり「マカンバー夫人は...バッファローを狙い撃った。」と地の文にあることから、フランシスを狙い撃ったのでないこと、つまり事故であることは確定する。これは絶対に動かすことができない。しかし、同様に地の文に「彼女はあることを、とても恐れているのだ」とある。「あること」とは、サファリからアメリカに帰還したあとに、おそらくは能力の行使の点でも相手を見つけるという点においても、もう物理的にも意識的にもセックスに不自由することのないフランシスに彼女が捨てられることだろう。サファリ案内人のウィルスンもフランシスが死んだあとで「彼のほうでも、あなたを捨てたことでしょう」とマーゴットに声をかけて裏書きしている。強い不安の裏で殺意が醸成されるのは想像に難くない。

おまけにクライマックス手前で、マーゴットは「ライフルを隣に置い」ているとわざわざ描写されている。終止ハンティングにまつわるストーリーであるにもかかわらず、この「隣のライフル」と、これを持つに至ったわずかな経緯(ウィルスンの「マンリッヒャー銃のほうは、車に残るメンサヒブ(奥方)に預けておこう。」)でしか彼女と銃のセットは描写されていない。つまり、最後の発砲まで一度も実質的に銃を扱っていない(作者が扱わせていない)。彼女は狩猟という男の世界の埒外の存在なのだ(対して男どもは、男性のシンボルである銃を当然、始終楽しそうにいじっている)。護身ならば前半のライオン狩りでもそのように言及されていなければならないはずだが、そのような文章はないし、ライフルは最後のバッファロー狩りの途中でウィルスンに渡されたもので自ら狩猟用に携行したわけでもない。彼女は銃に関してまったく積極性を担わされていない。彼女は本来、銃からも狩猟からも遠い。彼女がハンティングではなく、意識的にか無意識的にかはわからないが、フランシスを撃つことを想定して「ライフルを隣に置い」ておいたのは間違いないのではないか。

とはいえ、フランシスの死後は彼の死を少しも喜んでおらず、最後まで動揺したままだ。心理について、地の文での確言がないので推測になるが、彼の成長を無意識に喜び、成長した彼を愛していたという考えも否定できない。そもそもバッファローを狙い撃ったのは、その突進を阻み、彼の命を救う行動だ。ということで「功利的な事情で夫に対する殺意は十分募っているが、心裏としては愛情も抱いている、つまり愛憎半ばする状態の下、幸か不幸か彼の殺害が可能なように準備ができてしまった絶好の状況で、事故的に殺してしまった」という穏当な結論になる。「解釈は自由」と各所で見かけるので個人の自由で解釈してみた。

あくまで妻は夫を故意に殺害したわけではない。故意だろうがそうでなかろうが、彼女の行動は罪に問われないことになる結末ではある。ただ、殺意をもって殺すのとは違って、殺意が意図(意識)を越えたかたちで叶ってしまったことで生じる罪悪感というものがある。キリスト教的世界観で言えば、殺意を抱いたことに対する神の裁き。

日本の古典には「強い呪いの念が当事者の意図を越えて身体から抜け出し、宙を飛び、人をとり殺す」説話がある。六条御息所(『源氏物語』)や上田秋成的な生霊。『マカンバー』で、マーゴットの銃から事実レベルでバッファローに向かって放たれた弾丸の軌道は、物語、あるいは象徴のレベルで強い殺意の念によってフランシスのほうにそらされた、と解釈することもできる。外形的には殺人ではなくとも、当人は自分が殺したと思わずに済ますことはできないだろう。それは「私は殺していないが、殺した」という半ば生き地獄のような、独特の罪の感覚を生み出すように思われる(『海辺のカフカ』にも似たようなくだりがあったはず。『雨月物語』は村上春樹の子どもの頃の愛読書だったそう。『雨月物語』自体が『海辺のカフカ』にて言及されている)。

『アメリカ・ビューティー』に戻ろう。何が言いたいか。『マカンバー』と同じく、キャロリンの強い殺意がフランクに飛び火のように乗り移り、暴力を果たさせたのではないか、ということだ。彼らが暴力を果たす道具として使う(使おうとする)のはともにオートマチックのハンドガン(スミス&ウェッソン5906とSIG SauerのP226。これがそこはかとなく同じだったらベターだったのだが、このセレクトにも理由はある。そもそも同型の銃だとあざとすぎて完全に寓話になってしまう)。罪という観点から、必然的にそれらは結びつきうるものであるように思われる。繰り返しになるが、この共犯関係が、成功主義的強迫観念(安っぽい商業的貪欲さ)と差別という呪いのふたつが暴力として結実し、アメリカのイノセンスを殺すという、アクロバティックではあるがアメリカらしい説話を可能にしているのではないか。撃たれたレスターから噴出した血しぶきは壁に真っ赤な薔薇の花を咲かせる。これが虚飾としての白人家庭と並ぶ、最も皮肉な意味、暴力の開花としてのアメリカン・ビューティー(美しきアメリカ)だ。

もちろんストーリーのレベルではフランクがレスターに殺意を抱くのは、長年に渡るはずの欲望、すなわち同性の伴侶を得るという宿願が断たれたことから来る絶望、秘匿すべきゲイである事実を知ってしまった相手の口封じ、若い息子が招じ入れられながら年老いた自分は受け入れられなかったという勘違いからの憎しみ、などからであると推測される。夫殺しというショッキングなイベントが実現されるかと思いきや実は、というストーリー上のサスペンス的ギミック効果に奉仕しているという面もある。さらに言えば、愛した男への発射だ。ただ、息子とのいさかいも手伝っている前後不覚の混乱状態にあるとはいえ、負の感情を集中的にレスターに爆発させるのはいかにも突然すぎるし、根本的に筋が通らない。なぜなら、フランクに対してレスターはまったくの無実(イノセント)だからだ。それゆえの悲劇ということではあり、フランクが勘違いする滑稽さも相まってアメリカン・ドラマツルギーの悲喜劇(トラジコメディ)性がいかんなく発揮されているとも言えるが、象徴レベルの構造を導入すれば別のロジックが可能になる。繰り返してきた、イノセンスが暴力性を帯びた差別に殺されるという構造だ。フランクが差別と暴力の象徴、権化であることについて、ナチスファシズム)の属性が与えられている点がこれを補強する(よって、フランクの得物はドイツ&オーストリア企業の産物であるSIG SauerのP226でなければならない)。

彼は差別されないように差別するという救いのない回路のなかで闇に呑まれている。その闇はすでに人間ひとりのキャパシティを越えている。キャロリンもそうだ。彼女は彼女が望む自制という言葉からほど遠い。だから、象徴として作用しうる。彼らが抱くものは彼らを越えてしまっている。小さな彼らは大きな力(ジャガーノート)に捕まえられ、罠にかけられた。彼らは理性を失い、いつのまにかわけのわからない地点に押し出されてしまうことになる。象徴が作用しうる映画だから『アメリカン・ビューティー』は社会派映画というよりは文学映画に感じられるのだろう。どちらが上ということはないが。

キャロリンはレスターの死を確認したあと、クローゼットの彼のワードローブにすがりついて泣き叫ぶ。ロラン・バルトが『恋愛のディスクール』に書いているとおり、衣服はときにそれを着ている人間の存在を当人以上に際立て、浮き上がらせる。不在の実在、会っていないとき、直接ふれていないときが恋愛であるというのがバルトの恋愛論における主張のミソだ。衣服はエロスの対象となる。まわりから完全に隔絶しているように感じられるような親密さをもちえたデートは忘れえないものだが、顔とともに、むしろ顔以上に相手の着ていた衣服を明瞭に覚えてしまっていて忘れられないということがある(ないですか?)。いちばんわかりやすいのは『アバウト・シュミット』の、妻をなくしたジャック・ニコルソンが彼女の洋服の匂いをかぎ、靴を眺めるシーンだ。『そして私たちは愛に帰る』では、娘の残した服に母親がそうする。こうしたシーンは数限りなくあるだろうがちょっと例証したい。

服への愛着の感覚について。サリンジャーフラニーとゾーイー』の『フラニー』では「なんだか、彼女の肉体の延長の、魅惑にあふれた生身の肌に接吻しているみたいだった。」ジェイムズ・ジョイスの短編『死者たち』では、片方が途中で折れ曲がって置かれた(隣で寝ている)奥さんのブーツを主人公が眺め、そこに彼女の年をとりはじめた有り様を見出すところからクライマックスのグッとくる内省に入っていく(この美しい短編、特にラストが僕は大好きです。「もう生きていたくはない」)。ブーツの様態は、すでに往時ほど美しくはない妻を表す。村上春樹の『ノルウェイの森』では、自殺した直子の洋服をレイコが継承し、ワタナベはそれを褒める。レイコは直子の残留思念を果たす役割を担い、最終的に直子が叶えてあげられなかったワタナベの望みであるセックスを代行する(書いてて思いついた。そうだったのか。直子はワタナベに生(性)の世界に留まっていてほしかった。しかし直子はワタナベを愛していたわけではなく、彼女はキズキのものだから迂回が必要だったわけだ。ちなみにこの小説も「イノセンス→死」)。

さらに同『トニー滝谷』。この短編では、妻の衣服についてのオブセッションが形を変えて夫に取り憑く。妻の事故死のあとで、夫のトニーは家政婦を雇い、亡妻の服を順繰りに着るよう一旦依頼する。衣服のなかの女をすげ替えても同じではないか、という危うい思考実験の趣がここにはある。トニーさんは結局、家政婦に金だけ払って依頼を取り消すのだが、結末として予想される心理は、1. やっぱりそれは亡き妻ではなく、彼女は戻ることがないと思い知るのが怖い、2. 洋服が同じなら別の人間が着ていても心が脅かされることがないとしたら…、それも怖いのいずれか、あるいは両方だ。結局、彼は家政婦を断り、亡妻の衣服を処分し、完全にひとりぼっちになる。いずれにせよ、衣服をただのモノとして扱えない心性、そこに着用者のアイデンティティのにじみ、宿りを、愛に囚われた人間が見てとるのは確かなことだ。

f:id:kilgoretrout:20151224213247p:plain
『トニー』ほどたくさんの衣装ではないが、キャロリンはクローゼットを開けて箱に銃を投げ込んだあと、レスターの多数の服を「端から端まで」抱きしめようとする(ちなみにここで「隠す」と「クローゼット」の結びつきが表れてもいる)。これは短く何気ないがすごい演出のように思う。これが他の作品の「洋服シーン」と異なるところでもある。ひとりの人間を抱きしめるならば、思いはその瞬間の相手へ集中することになる(懸念のない関係であれば、という留保つきではあるが)。しかし、それが服であることで複(服)数抱え込むことができる。ここでキャロリンはレスターの時間軸というか、引き延ばされた時間、手に取ることのできないはずのレスターの人生の時間を抱きしめていることになる。それは「きみたち(人間)がロッキー山脈をながめるのと同じように、すべての時間を」パノラマ写真のように一望することができる、また人間を「長大なヤスデ—『一端には赤んぼうの足があり、他端に老人の足がある』ヤスデのように」見るトラルファマドール星人的な時間感覚(『スローターハウス5』)に似ている。ある瞬間に、過去の様々な時間が含まれているということ。『アメリカン・ビューティー』では、これをたぶん無意識に実現している。説明なしでヴィジョンとアクションだけで。これが映画というものだ。

次の瞬間のキャロリンはレスターの回想、おそらく彼とつきあっていた頃のキャロリンだ。これはレスターが現実で見てきたなかで想起する最後の光景でもある。彼の人生最後の映像は娘、幼い日のジェーンではない。彼が「愚かでちっぽけな人生」のなかで最後の瞬間にこの世に留めおかましと願ったもの、それは遊園地のまわる遊具で屈託なく大いにはしゃぐ、若く無邪気なキャロリンなのだ(ビニール袋のシーンはイメージ映像。レスターはそれを実際に観ているわけではない)。回転は終わらない繰り返し、永遠を想起させる。子どもは同じ絵本を何度も何度も親に読むように要求する。永遠にも思える終わらない繰り返し、それは子どもの時間感覚であり、イノセンスの時間帯だ(とある教員は「歴史の反対は永遠」と教えてくれた。永遠から人生の時間に足を踏み出してしまうと「恨みの心をもたぬこと」が難しくなる)。『ライ麦』でも主人公・ホールデンの幼い妹・フィービーが最後に回転木馬に乗ってまわり続ける(この共通している「回転する遊具」も、テーマ性を踏まえたうえでの『ライ麦』からのオマージュではないかとにらんでいるのだが)。

フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。

ホールデンは子どもの時間、イノセンスをかいま見て(彼自身はもうそこに参加して、全面的にそれに浴することはできない)、仮初めながら救われ、回復する。そして、もちろんこのシーンで『アメリカン・ビューティー』同様、激しい雨が降りはじめる。雨(水、循環するもの)は死と再生を司る物質であり、欧米というかキリスト教文化圏では特に救済を暗示する。たとえば、『ショーシャンクの空に』(これは町山言)。そして、『グレート・ギャツビー』。「幸いなるかな、死して雨に打たれる者」。雨がいかなる意味をもつかについては、竹内康浩先生の素敵な解読書『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』の第10章「反転するライ麦畑のキャッチャー」に詳述されている(僕は竹内先生に影響されてこれを書いてるみたいなものだ。ところどころ言及せずに援用させていただいている)。雨と優しさのイメージはレスターの最後の独白からもわかる。...and then I remember to relax, and stop trying to hold on to it, and then it flows through me like rain...(くつろいで、それ(胸の内に膨らんでいく美)にしがみつかないようにすると、それは私の身の内を雨のように流れてゆく)この雨の祝福の感覚は『ブレード・ランナー』のクライマックスの雨とロイの台詞にも顕著。All those moments will be lost in time, like tears...in...rain.(そうしたあらゆる瞬間もいずれ消えていく…雨のなかの…涙のように…)

キャロリンは明確な殺意をもっていたわけだからレスターの死を悲しむ資格はないけれども、それが可能であったとしてキャロリンがレスターを殺しえたか。たぶん殺せない。とはいえ、一旦、殺意を抱いた業、その因果によって苦しむことになる。別の言い方をすれば、苦しむことができる。

f:id:kilgoretrout:20151224212709p:plain
彼女は映画の大半で好ましからざる人物だと印象づけられている。しかし、レスターの衣服にとりすがって慟哭するキャロリンから、遊園地でまわり続けるかつての若いキャロリンへとクロスディゾルブで続くシークエンスは、単なるレスターの回想というだけではなく、「あの頃はよかったな」という単純な懐古でもなく、彼女が「あの頃」へと戻り、イノセンスを取り戻す暗示のように見受けられる(彼女の髪型は童女のかむろっぽい)。少なくとも最後で何が大事だったのか、別様ながらお互いに気づいている。レスターはキャロリンとずっと不和でありながら(&娘に疎まれながら)、不自然にも家を出て離れていくことを最後までしない。アンジェラはそのくびきとしては弱い。レスターの真の欲望は人生を改めることであって、彼女がその契機にすぎないことについてはすでに述べた。彼が家の外で彼女と接触するために行動することもない。レスターがseekerならば、家を出るべきなのだ。長年の仕事だって辞めたのだし、旅に出るのがまさに自然だ。イントゥ・ザ・ワイルドするならば、マッキャンドレスよろしく彷徨(HOBO)すべきはずなのだ。それでも彼はとどまる。この映画はロード・ムービーにならず、主要な舞台はキャロリンがこだわる家のままだ。それは帰り着くべきところであり、要は男にとっての女のことだ。最終的にレスターは、彼女以外の人間に撃たれることによって犠牲になり(その至純の存在たるキリストを見ればわかるとおり、犠牲となることはイノセンスに欠かせない特性。アメリカの文物を眺めるときはこれを見出せないかという意識をもつよう訓練される)、命を賭して彼女を引き戻し救済した、という構図を見てとるのは叙情的に過ぎるだろうか。さんざんキャロリンの悪口を書いてきたが、この映画は女性嫌悪に乗ってくれと言っているわけではない。バーナム夫妻の滑稽な喧嘩ばかりが目につくこの映画は、それでも究極的には恋愛映画だという気がするのだ。