長谷川町蔵☓大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』書評しつつ - 成功と結婚しにくいロック、成功との結婚を求めるヒップホップ

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0. イントロダクション(本の短評)

長谷川町蔵☓大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング, 2011)。「文化系のための」と銘打っているとおり、この本は、クラブに通いつめてヒップホップなるものに自然に親しんできたような、ヒップホップ的身体をすでに獲得済みのインサイダーよりも、むしろ適当に好みの曲を見つくろって聴いてはいるけどジャンルの全体像はよく知らない、あるいは「あれだろ、ラップとか、駄洒落でディスって家族に感謝するやつだYOね、チェケラ!」というような、ヒップホップに壁、また偏見を抱いている層(私である)に適している。

というのも、著者(語り手のひとり:大和田)自身がそのような、ヒップホップを他者として感じていた地点から次第にそれに耽溺していったという経緯をもつため、語り口が部外者に対して優しく、かつ全般的に相対化の視点が把持され、効いているからだ。加えて対談形式が採用されており、その成立、歴史的な流れ、音楽・文化現象としての特性を、門外漢には必要十分な深さと分量で、具体的な例を示しながら端的に、そしてしばしば大胆な切り口でわかりやすく解説している。入門でありながら、先入観を打ち破って「そういうことだったのか」と膝を打たせる点においては、それを越える読みごたえのある本とも言える。たとえば「ヒップホップは音楽ではない?」。

以下では本書の力を借り、ロックとの対比を軸としてヒップホップ性を追ってみたい。

1. 前提の文脈としてのロック

ロックの定義のひとつは、なんでも取り込んでいった結果ジャンルとして正統性に欠けているという非正統性、要は音楽的にごたまぜということだ。その性格から「私生児の音楽」と呼ぶ向きもある。ただし、そのルーツのひとつは明確にアメリカの黒人たちのブルース(哀歌・労働歌)であり、そこには虐げる者と虐げられる者という構図が内包されていた。この構図は「白人雇い主と黒人奴隷」から時代を下って1950年代、白人の参入したロックンロールで「資本家・権力者と労働者」という階級的対立軸に移り変わる。

1960年代終盤、反戦(対ベトナム戦争)意識の高揚や、資本主義/消費社会/物質文明への疑問からカウンターカルチャー・ムーブメントが生まれた際、その文化的表現としてロックが担ぎ出されたのも当然と言えば当然だ。逆にロックがそのような運動を導いたとも言える。以来、近年に至るまでポップ・ミュージックの一大ジャンルとしてロックは徐々に力を失いながらも命脈を保ってきたわけであるが、その来歴を考えれば、そこに精神性として反権力や反商業主義といったものが底流しているのが理解される。こうした精神性のもと、既存の社会的枠組みから外れ、学校→会社のレールからこぼれ落ちていくこと(ライフスタイル?)を「ドロップアウト」という(私である)。反体制として政治に異議申し立てる、金で心を買われない、俺は俺の道を行くという姿勢は、本書にあるとおり「魂」という言葉で表象されやすいものだ。

だから、反体制としての体制のただなかにいる類のロックファンは「音楽とはそういうもの(反権力・反商業主義・ドロップアウト・魂)」であると考えがちだ。そして、新たな音楽的潮流であるヒップホップをもついそのような目線で眺めてしまうことになる、らしい。

2. ヒップホップのはじまり

しかし、ヒップホップはその成立過程がまったく異なる。ヒップホップのルーツはジャマイカにある。あのレゲエ&マリファナのジャマイカである。ステレオタイプである。ジャマイカ独立の1962年以降、多くのジャマイカ人がアメリカ・ニューヨークのマンハッタンの北にあるブロンクス地区へ移住した(背景に政治情勢があるが、ここでは置く)。それまでの同地区はユダヤ人たちの居留区だったのだが、彼らが去って(ホワイトフライトの亜種)税収が下がった結果、行政サービスが低下したこと、脱工業化の流れのなかで間口の広い工場労働が減少し収入のルートが半ば絶たれたこと、74年当時のフォード政権が支援を打ち切ったこと、州間高速道路の建設によって経済的に空洞化してしまったこと、などがあいまって、まちは激しく荒廃した(州間高速道路の建設についてあまり日本で語られていないようだが、その影響は甚大なものだったらしい)。少年ギャング団が結成され、保険金詐欺のため、「73年から77年にこの地区だけで放火事件が3万件(p. 24)」起きたそうである。サウス・ブロンクスと言えばスラム。スラムと言えばサウス・ブロンクスのイメージはそのようにして定着していった。

そうしたなかでとあるジャマイカ出身の若者が、ジャマイカでの屋外パーティーの文化と、そのための低音のきくサウンドシステムをまちにもちこんだ。屋外パーティーはブロック(区画)ごとに行われる屋外でのブロック・パーティーに姿を変えた。DJクール・ハークのかける重低音に客が圧倒された73年8月、ヒップホップは誕生した。

DJプレイの基本は、ふたつのターンテーブルにレコードを置いて、針を上げ、また落とし、レコードを交換し、ボリュームをコントロールして曲を切れ目なく上手くつなぐことだ。しかし、仲間たちのダンスが、楽曲(ジェームズ・ブラウンのFunky Drummer)のなかの特定の部分、すなわち短いドラム主体の部分で特に盛り上がっていることに気づいたクール・ハークは、発想を転換し、同じレコードを二枚そろえて交互にかけ、ドラムブレイクだけを延々とループさせはじめた。ここに、ヒップホップの楽曲を構成するふたつの要素のうちのひとつ、ループするリズム主体のバックトラック=「ブレイクビーツ」が生まれたわけだ。もうひとつはもちろんラップである。

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3. サンプリングとしてのヒップホップ

次にブレイクビーツの素材(サンプル)は、ジェームズ・ブラウン(「ゲロッパ!」のJB)のバックメンバーが出していたレア盤などに求められ、やがて「いかにクールな素材選びとその使い方をするか」が競われるようになるにつれて、ジャンルを越えたネタ元の捜索=掘る(ディグる)が行われるようになる。この代表例が後年の例になるがアフリカ・バンバータによるエアロスミスのWalk This Wayのイントロだ。これは定番になったとのことで、後年RUN D.M.C.エアロスミスとヒップホップとロックの垣根を越えて共演したことと関係しているのかもしれない。バンバータは音楽分野を越えた素材の利用、たとえば「ビートルズからモンキーズまで使った(p. 50)」。

海外の音楽について、しばしばつくり手の人種や階級をそこに加味して鑑賞したり、評したりするというのは定型の語り口ではあり、過剰な先入観を排しているかぎりは意義をもちうる視点ではある。ところが、ヒップホップはそのような従来の音楽観を越えている部分があるらしい。ヒップホップにおけるサンプリングについて大和田は、「昔の音源を再利用することで黒人文化の歴史に敬意を評しているという解釈がとくに黒人研究者の間で強い(P. 50)」が、「むしろあらゆるジャンルの音源を断片的かつ無節操に用いている点が重要ですよね。白人の曲でもかっこよければ使ってしまう」と指摘する。「DJたちにとってはニール・ヤングよりもスティーブン・スティルスの方が遥かに偉いんです(p. 50, 51)」。ニール・ヤングとスティーブン・スティルスはともに、CSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング)のメンバーではあるが、ソロ活動でも類希な存在感を示し、深い内省をたたえた楽曲でリスナーのみならずアーティストたちの多大な尊敬を集めるのはヤングのほうである。しかし、DJが尊敬するのはスティルスだ。「理由はレコードに良いドラムブレイクが入っているから(p. 51)」。古いロックファンはこうした傾向にきっと驚くはずだ。

バンバータはクラフトワークもサンプリングの素材として利用している。クラフトワークはテクノのハシリのような伝説的グループで、日本では最も有名なところでYMOがその影響下にあると言える。「クラフトワークはロック的なイメージ―身体的で、パッションに溢れていて、つまり人間的な―に対するアンチテーゼとして無機質で機械的な人間像を提出したわけですよね。それをバンバータはさらにもうひとひねりして、そうした機械的なイメージを黒人的/身体的なグルーヴとして再解釈した(p. 52)」。このくだりは、本書のコラム2「アフロ―フューチャリズム」、黒人文化と未来的イメージの親和性にも関係しているのだが、ここではこのテーマは置くので興味があるならば、実際に本を手にとっていただきたい。

こうしたサンプリングは、技術的には、同レコード二枚使いでのリアルタイムプレイから、ドラムマシーン、イミュレーター、コンピュータとそのソフトを利用した、ウワモノ(メロディフレーズ)まで含んだ、素材の切り貼りによる楽曲全体の制作へと進化していく。そこにあるメンタリティーは、ブロック・パーティーにはじまる、ビート主体の黒人的/身体的なグルーヴを基礎にしつつ、そのための素材はジャンルを問わず無節操に引用してしまうような奔放さと大胆さ、と言える。素材の元となった作品そのものを発展させるというよりも(そういう部分もあるが)、過去の楽曲を一旦、選別可能な対象としての素材と捉えてフラットにリスト(データベース)化し、好きなように切り貼りして自分の表現の流れのなかにうまく組み込む(コラージュする)。まさにいいとこ取り。コピー&ペースト、そしてすべてをフラットにデータベース化してしまうような作用、これはインターネットの特性であり、ヒップホップがポストモダンの音楽と呼ばれるゆえんでもある。映画で言えば「タランティーノっぽい」、すなわち過去の映画の好きな部分を好き放題に使って(引用/オマージュして)作品をつくりあげるような技法が同じ文脈上にある。

具体的な例を挙げよう。ロックバンドのくるりも、ヒップホップクルーのDragon Ashも、アメリカのオルタナティブ・ロックの代表的なバンド・スマッシング・パンプキンズの「Today」のリフ(リフレイン。短めのメロディの繰り返し)を明確に引用している。本場のヒップホップで例が引けなくてすみません。うといもので。

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くるりの、曲タイトル自体はビートルズの引用らしき「ハローグッバイ」、Dragon Ashの、「俺は東京生まれ、HIPHOP育ち、悪そうなやつは大体友達」でつとに有名な「Grateful Days」がそれである。

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ただし、前者が、曲終盤のクライマックスとアウトロ部分にのみリフを引用し、テーマ的に「恋人との関係における、おそらくは報われない/報われなかった焦燥感・やるせなさ」を共通化させているのに対して、後者は全体に渡って、つまりバックトラックとしてリフを繰り返させていて、テーマも異なっている(なにせGrateful Days=感謝する日々)。材料としての自由な引用、これがヒップホップ的サンプリングの基本的な性質ということだ。他に思い出すところでは、パフ・ダディがノトーリアスB.I.G.を追悼するためにつくった「I’ll be missing you」。これはポリスの「Every Breath You Take」のメロディラインを使っているが、「Every」はストーカーじみたあやしい男の独白の歌。テーマの共通性など度外視されている。

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余談になるが、スマッシング・パンプキンズスマパン)は日本のバンドにも相当影響を与えたようで、ネタ元探しをしてみるのも一興である。たとえば、日本での、コンピュータも利用した宅録の第一人者(だからサンプリングもお手のものだが)・中村一義の「セブンスター」は、スマパンの「1979」のオマージュだ。中村は歌詞的にも楽曲的にも、スマパンの「やるせなさ」の響きの換骨奪胎を目指したように思える。

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4. ゲームとしてのヒップホップ

「ヒップホップなんて聴いたことない」というロックファンが「それでもなにか知っているヒップホップの曲ある?」と尋ねられて、挙げる曲としてふたつのものが想定される。ひとつは、先のRUN D.M.C.エアロスミスとコラボしたWalk This Way。そして、もうひとつは、1982年リリースのグランドマスター・フラッシュ「The Message(ザ・メッセージ)」だ。なぜなら、政治的メッセージ性を強く感じさせる歌詞とたたずまいの作品だから。こうした曲をロックまたフォークファンは「本格的な曲」と概して感じてしまう(必ずそうというわけでもないだろうが)。そこにはロックが政治に異議を申し立ててきたカルチャーであるという歴史的感覚もある。たとえば、日本ではCMでお馴染みのCCRクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)「Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)」の歌詞上の「雨」は、ベトナム戦争におけるナパーム弾の比喩だ(ちなみに、そうした政治性と決別して生活という地平に降りていく音楽的身振りとして時代を画したのが、井上陽水の「傘がない」)。ヒップホップの政治的文脈として想定されるのは「『ヒップホップは楽器を買うお金がなかった人びとによって始められた』…“ストリートの政治性”(p. 51)」ということになる。サウス・ブロンクスに代表される貧困や格差や、そうしたものに対する憤りもその背景にあるだろう。

しかし、「ヒップホップについて語るときに、<ザ・メッセージ>を特権的に取り上げて、このジャンルそのものに社会批判や政治性を基礎づける人がいるじゃないですか。でも全体としてみたらそんなことはなくて。少なくともジャンルの歴史を見渡したときに、社会批判のみによって牽引されてきたという印象はないんですよ。91年の記事にラッセル・シモンズが当時を回想するコメントが掲載されているんですが、それによるとみんな<ザ・メッセージ>が大嫌いだったと。フィーバークラブでDJがその曲をかけようとしたら、客がそのDJに銃を突きつけてやめさせたっていうんですよ(p. 86)」。政治性、社会性を標榜する楽曲は、ヒップホップにおいてはむしろ例外である。「ヒップホップはあくまで、みんなが漠然と考えていることを気の利いた言い回しでラップできれば勝ち、っていうゲームなんですよ(p. 87)」。

「ラップはゲーム」であり、重要なのは「場の支持」ということだ。それらはともに、ラップの由来に関係している。ヒップホップシーンにおけるラップの発祥は、パーティーにおける呼び込みや司会担当ということになるが、大元をたどれば19世紀以前の大規模農場(プランテーション)や奴隷制下での黒人たちの「シグニファイイング」に行きつくらしい(p. 33)。signifyとは「〜を意味する」という動詞で、これが黒人文化のsignifyingの場合は、遠回しの婉曲表現であったり、侮辱の言葉を親しみの呼びかけとして使ったりすること(修辞法)を指す。映画などでよく見られる、黒人の若者どうしの“What’s up? Nigger!”、あれである。これはひとつには、奴隷たちが主人たちに悟られないように会話をするために生まれたもので、貴族どうしが内緒話をするとき、召使いに知られないようフランス語をはじめとした外国語で会話をしていたという言語使用と裏表である(これは完全に余談だが、複数言語を横断できる能力がいかに強力に場を支配しうるかについては、アガサ・クリスティー名探偵ポワロシリーズや、タランティーノの映画『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐に端的に見ることができる)。「相手に悟られないように主人を茶化したり、直接的な言い方を避けてほのめかしたり、あらゆる誇張表現やレトリックが用いられました(p. 33, 34)」。また、「たとえば、『ダズンズ』は一種のゲームで、とくに若い男の子が二人で悪口を言い合うのをギャラリーが見守るものです。その悪口はだいたい相手の母親のことで、要するに日本でいえば『お前の母ちゃんでべそ』と同じなんですが、それを韻を踏んだり言い変えながら交互に言いあうわけです。相手の悪口に対してどれだけ巧妙に返せるか、どれだけギャラリーを沸かすことができるかで勝負を決める(p. 34)」。

つまり、ロックのように「世界に向けて正しいことを、また異議申し立てを、特定の個人やグループが主体的に、詩的表現を通じてメッセージとして発する」のではなく、ヒップホップは「あくまで場やコミュニティが支持するかどうかという基準で、韻を踏んだベシャリで気の利いたことを上手く言いあう」ということだ。ポストモダン用語としてはもはや死語になりつつあるが、戯れと言い表してもよいだろう。現代ではこれが、なにかネタ(ビーフ)になるものを用意して、上手く言い争う(ディスりあいをする)ということになる。「ヒップホップは音楽ではない?」、「ヒップホップに『内面』はない」といった本書の惹句小見出しはそういった文化特性を指している。それはプロレスに擬せられる(ガチ派のみなさん、怒らないでください)。だから、プロレスラーにリングネームがあるように、ラッパー(MC)やDJには通り名(エイリアス)がある。プロレスにいさかいを、果ては戦いを促す揉め事の設定があるように、ヒップホップにはビーフ(ケンカのネタ)がある。門外漢は「ヒップホップってあれだろ、ギャングが怖いナリして銃撃って殺しあうやつだろ。けしからんね」と見てしまいがちだが、ギャングスタ・ラップ、特に現実的な殺し合いなどにつながるような極端なものはラップの支流ではあっても本流(上手い言い合いをする遊び)ではないということだ。政治性(主体的に物申す)を強く感じさせるThe Messageも同様で、本流とは言いがたい。

また、その発祥がブロック・パーティーであるからして、「オリジナリティよりは場の支持、つまりその場にいる人をどれだけエンターテインできるかが重視される(p. 96)」。「あえて図式的にいうと西洋文化にオリジナリティ信仰があるとすると、黒人文化はむしろ本歌取りと同じで、同じ言葉に違う意味を与えて歌ったり、逆に同じ意味を違う言葉で歌ったり、変奏やバリエーションが特徴だといえます(p. 38)」。「ヒップホップっていうのは要するに『新古今和歌集』であって、『万葉集』時代に蓄積されたものをどう発展させていくかっていうゲームなんですよ(p. 37, 38)」。ラップに限らず、過去の蓄積(データベース)をほとんど無節操に再利用するサンプリングも同じ流れのなかにあると言えるだろう。あらゆる表現は他の誰かの表現の言い換えにすぎないとする「主体性・オリジナリティの喪失(いわゆる作者の死)」もまた、ポストモダン的な色合いの濃い文化性を感じさせるところである。

5. 成功と結婚しにくいロック、成功との結婚を求めるヒップホップ

ここからは、1〜4までと、本書の第6章「ヒップホップとロック」を下敷きにして、さらに明確にロックとヒップホップとの違いに焦点を当てて比較し、整理してみたい。

音楽を楽しむためにリスナーはレコードやCDや音楽ファイルを買い、アーティストは金を稼ぐ(このモデルは崩れつつある趨勢で、ネットでの定額音楽視聴サービスの出現や著作権の問題など語るべきテーマは多いがここでは置く)。両者は、確実にビジネスモデルのなかにある。そして、ロックにおいて両者は基本的に少なからず可処分所得をもつ「中産階級」出身であり、労働者階級出身ではない。そうでありながら、反体制や反商業主義を掲げるのは、矛盾ではないか? ジョン・レノンビートルズ解散後、ソロでWorking Class Heroという曲をつくったが、彼は不幸な生い立ちであるにしろ、正確には労働者階級出身ではないし、作曲した当時の本人ももちろんそうだ。

商業でありながら、反商業主義を謳う。これは自家中毒というものだ。成功できない鬱屈を表現することによって、成功してしまう矛盾。そうした陥穽に落ちて、罪悪感を覚えるロックスターはやがて身を滅ぼしていく。金を手に入れたことで破滅する割合は映画スターの比ではない(代わりに、特にハリウッドの俳優/女優は、幼年期に両親の離婚に見舞われている割合が異常なまでに高い)。「27クラブ」という言葉がある。27歳で亡くなったロックスターたちのことだ。大抵は麻薬のオーバードーズが原因だ。キャッチーな曲「Smells Like Teen Spirit」をつくって大成功してしまったがために、これをライブで毎回演奏しなければならなくなって激しく落ち込んだNirvanaカート・コバーン(コベイン)は、ファンの求めるものやメディアでのイメージと、自分自身の立ち位置との乖離に耐えきれなくなり、「Better to burn out than to fade away.(燃え尽きたほうがいい。消え去っていくよりも)」という遺書を残し(この文言は3節で登場したニール・ヤングの「Hey Hey, My My」の歌詞)、ショットガンで自殺して、27クラブへの殿堂入りを果たした。オルタナティブ・ロック(メインストリームに背を向けた、影のある、また実験的な潮流のロック)は、もはやオルタナではなくなってしまった。「Smells」の入っているアルバムは『Never Mind』、要は「気にすんな」だ。皮肉にも、彼は「気にしない」ことができなかった。

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27歳に限らず、ロック・ミュージシャンは破滅したり、若死にしたりしやすい(しやすかった)。「成功と結婚しにくい音楽」、それがロックと言える。『ロッキン・オン』を創刊したロック評論家の渋谷「ロックとは初期衝動だ」陽一は、ロックの抱える矛盾とオサラバして「明るくお気楽に楽しもう」精神で活動しているバンド群に「産業ロック」と名づけた。ここにもやはり、「それでもロックは商業主義に完全に迎合するものではない」という強い思いがあるのだろうし、そのような希望を抱くロックファンは少なくないはずだ。

ただ、たとえばセックス・ピストルズシド・ヴィシャスの人生を描いた伝記映画『シド・アンド・ナンシー』では(カート・コバーンとパートナーのコートニー・ラブは破滅的カップルとして、シド・ヴィシャス&ナンシー・スパンゲンとよく比較される)、成功したミュージシャンが病気であるどころか、室内運動器具で健康に磨きをかけているという光景が描かれている。「破滅型」は実際に存在してはいたものの、現実はそう単純でもないし、「伝説の破滅的人物像」もロックファンがアーティストに見たいと望むファンタジー、一種の共同幻想だということだ。そもそも論で言えば「労働者階級の『反抗』や『抵抗』というイメージを郊外の中産階級の若者にファンタジーとして抱かせるのがロック(p. 276)」ではある。1で述べたような、旧来の「虐げる者と虐げられる者」という構図の軒先を借りて、思想的フレームとして利用しているとも言える。その思想に添い遂げる行為の代表が「ドロップアウト」だ。「まずロックという音楽が何を目指しているのかを考えると、要するに『資本主義社会の中核を担う中産階級からのドロップアウト』ですよね(p. 226)」。

しかし、「ヒップホップは正反対なんです。資本主義から締め出されちゃっている人が、資本主義に参入していくための手段として始める音楽だから。『ドロップアウト』ではなく『イン』なんです(p.227)」。これを読んで目からウロコが落ちた。「ケミカルなジャージやスニーカーはわかる。ジーンズの腰履きも、金がないからオーバーサイズの安売りかお下がりしか手に入らなかったということに由来しているというのもわかる。でも、虚飾をあげつらい、差別、また貧困に見舞われている鬱屈を世間に対して叩きつけているはずの奴らが、なんで高そうな革のジャケットを着たり、避雷針のようにゴールドのアクセサリーをつけまくったり、高級車やスポーツカーに乗ったりして、憎んでるはずの成金みたいな下品なマネやファッションを進んでするんだ?」という通俗的な疑問が一気に氷解した。生半可な貧困からは反資本主義が生まれうるが、明日をも知れない深刻な貧困=資本主義からの疎外からは、アンチではなくラディカルな資本主義の奪還が目指されるというわけだ。

短絡的のそしりはまぬがれないものの、これで白人層がヒップホップを聴くようになった理由もひとまず説明できる。1980年代の自由主義経済政策・レーガノミクスアベノミクスの元ネタで、要は格差が生まれやすい)下で、白人だからといって裕福に生まれつけない低所得者層、つまりひどいケースではトレーラーハウスに住んでいるようなプア・ホワイトはまさに「資本主義から締め出され」ていた。だから、彼らはロックよりもヒップホップに共感し、聴きはじめた。本来、身体や生活と呼応するのが音楽というものだ。ロックはもはやそうした地平での説得力を欠いていたのだろう。極端な貧困からほとんど徒手空拳で成功できるかもしれない処世術=ワザがラップであり、これをまさに実行したのが、そう、エミネムだ。「ヒップホップは、人気者になると彼らが夢見ていた資本主義社会の成功者になるわけです。成功したラッパーは皆これみよがしに高級車や宝石を買う。たしかに成金趣味かもしれないけど、そこに自己矛盾はまったく無いんです(P. 229)」。「成功することへの内面的な葛藤がない(p. 229)」。確かにこれはロックの定型的なイメージとは正反対だ。

6. オリジナリティを克服するヒップホップ

4節の「世界に向けて正しいことを、また異議申し立てを、特定の個人やグループが主体的に、詩的表現を通じてメッセージとして発する」とは、ロックの一般的と思しき定義だ。異論もあるし、すべてがそうであるとするのは乱暴あるにしろ、ロックが「魂の叫び」というイメージで表現されうること自体は否定できないだろう。そしてそれは、個人やごく小さなグループのあずかるものであり、その独自性が問われる。ここでは、そうしたオリジナリティに象徴される心性について、ロックとヒップホップがいかに異なるかを引用を中心にして紹介する。説明を要しないほど上手くまとまっている。前提として、ヒップホップの特性、サンプリングという手法の性格(データベース性)を紹介した3節を参照されるとよりわかりやすいと思われる。

「ロックと比較するとやはりヒップホップはポストモダンな音楽だという気がします。つまり、ロックはどこまでもモダンな音楽ジャンルじゃないですか。ロック・ミュージシャンを『偉大なアーティスト』や『天才』と称することにも表れていますが…ロックは常に『魂』の比喩で語られます。『魂の叫び』とか『魂の苦しみ』とか。表現のリソースがミュージシャンの『内面』にあると考えられている。それは西洋の歴史をたどると宗教儀礼上の『告白』にまで遡ることができますが、『表現』の出発点が常に『心の内面』にまで遡行される。こうした習慣はいまだに根強くて、僕らも絵画や小説などを鑑賞するときに『作者の心の打ちから湧き出る表現』などと普通にいいますよね。(p. 233)」。

ロックの「内面」志向は、アイデアの枯渇という問題につながる。なぜなら、個人が自分だけをリソースとして、新しい表現を紡ぎ出し続けることなどほとんど不可能だからだ(これに近いアーティストとしてはプリンスがいるが)。また、個人の内面や技術の高さに価値を置く、すなわち「天才」志向は、「天才がいなくなるとシーンが停滞する(p. 236)」という問題を招く。「次に現れた天才は、前の人とは違ったスタイルでロックを前に進めなくてはいけない。でも所詮バリエーションには限界があるから、初期の天才であるビートルズジミ・ヘンドリックスを誰も超えられないという事態が発生しちゃう(p. 236)」。

こうした傾向を、あくまで自然にそうなった(収斂した)ということではあるにせよ、ヒップホップは克服している。ひとつはすでに述べたデータベース性である。「それに対して、ヒップホップは音楽を制作するときに文字通り『外』のデータベースにアクセスするわけです。DJの人たちがこれ見よがしに自分のレコード・コレクションを自慢することがありますが、作品を作り出すきっかけが『内』にあるのではなく『外』にある。『心の内から湧き出る』というよりは『過去の音源のデータベースにアクセスして検索をかける』というイメージです(p. 233)」。データベースはほとんど無限だ。 データの選び方、そのストック傾向(棚のつくり方)によって色はあるはずだし、それがセンス、アーティスト性となるのだろうが。

もうひとつは「場(シーン)」志向だ。「たしかに相対的に見るとヒップホップって『天才』と呼ばれるミュージシャンが少ないというか、ファンはヒップホップという『場=シーン』に注目している。ロックの場合は『俺はボブ・ディランしか聴かない』というようなファンも多いですよね(p. 236)」。「ヒップホップは、シーンを天才が牽引するというよりは、みんながトップを争ってボトムからあがっていく感じなんですよ。才人の成果はシーンに還元されて共有財産になっていく。トップランナーがコケても、成果はボトムに還元されているから、シーンのレベルは常に上がり続けるんです(p. 236)。「文章に喩えるなら、ロックは単行本で刊行される純文学で、ヒップホップはTwitterのつぶやきなんですよ。前者は個人の著作物だけど、後者はまず場があってその上で表現がある。受け手は個々の表現よりもシーンという名のタイムライン上のやりとりを楽しんでいる(p. 239)」。発言の内容のいかんを問うよりも、誰かの発言が誰かの反発を招き、揉め事が勃発して、野次馬たちがそのどちらかにたわむれ含みで肩入れしつつ、騒ぎを楽しむ。騒ぎが終わればまた次の騒ぎへと、終わることがない。場合によってはフットワーク軽くそこに参入していく、また、参入していける。 これは秀逸な喩えだ。

コピー&ペースト的な引用としてのサンプリング性、それ自体の意味を問うことはさておき、徹底的な収集とカタログ化を目指すデータベース性(Googleはすべてのサイトのデータをまるごと自社サーバにコピーしている)、そして、表現されたものに入り込むよりもむしろ、その場、その時間で、なにがしかのネタを元におしゃべり的コミュニケーションを楽しむ、場(シーン)の重視、SNS性とでも言うべきもの。ヒップホップとインターネットはやはり相似形にあると言える。

7. 備考と補足

「ヒップホップが従来の音楽、特にロックとどのように違い、どこが新しいのか」については5節、6節が、不十分な抽出とまとめは言え、少なからず理解を促すように思われる。「ヒップホップは聴かないんですけど…」という層にこそむしろ読んでみてもらいたい。ヒップホップの地域性や詳しい歴史、具体的なアーティストたち、曲、レコードについては本書に直接あたってもらえるとありがたい。0. イントロで書いたように読みやすいし、元がとれる内容です。おそらくはヒップホップファンも、思い込みや臆断が覆されることでしょう。「ははあ、なるほど、そういうことだったのね」と。

6節はヒップホップの新たな可能性に話が移っていくが、本論ではなく延長部分と考えられるのでオミットした。これも詳しくは実際の本を読んでみてください。簡単に言えば「魂の領域に進むヒップホップ」。また、ロックの「個人的営為性」といったようなものの強調については本書ではいささか過剰ではないかという疑問もないではなかった。これはロックが純文学に擬せられていることにも表れている。ともに先人との共同作業であるという性質は無視しがたい。パクリかどうかという単純な議論ではないし、文学においても本歌取りは伝統である。別作者の作品どうしの継続性、並行関係(響きあい)を間テクスト性というキータームで紹介することも考えたが、いささか逸脱してしまうので、これも除外した。図式性を優先することでわかりやすい論の展開をしている部分もあるということは確かで、考慮しなければならない。またいかにサンプリングが基本にあろうと、その創作の営みは他の音楽と同様に個人によるものであるから(チームであろうと個人性は捨象されない)、安易にまとめ、類型化したり、流れのなかに位置づけるのは慎重にならなければならない。そもそも論として音楽を聴くしかないというところはある。

それから、ヒップホップというカルチャーの本来的性格、サンプリングが招いてしまう著作権の問題についてもふれなかった。このまとめを読むならば少なくとも、ヒップホップと著作権問題がいかに運命的なまでに避けがたくくっついているか、くっつきあい続けるかは容易に了解されるだろう。このテーマについては、増田聡『その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権』に詳しい。音楽と著作権の関係にひとかたならぬ興味がある向きに特におすすめする。