『アメリカン・ビューティー』 8. アメリカ的成功主義の裏にあるもの

アメリカン・ビューティー』の20年まえに夫婦の不和と離婚を社会問題として取り扱った映画に『クレイマー・クレイマー』(1979)がある。その序盤、主人公テッド(ダスティン・ホフマン)は夜遅く帰宅したというのにすぐに会社に電話をかける。それがつながるあいだ、受話器を耳に当てたままの彼が妻のジョアンナ(メリル・ストリープ)にこともなげに発する言葉は「経理のジャックを知ってるよね、あいつ自殺したよ」だ。

ここで険しい顔のジョアンナはさらに肩を怒らせ、家を出ることに戸惑いを覚えずともすむようになり、心を決めて、困難だったはずの「別れましょう」を告げる。ついでながら、両映画の共通点としてひとつ見逃せないのは「イメージの人生に変更を余儀なくされた男がメシをつくるようになる」というところだ。ダスティン・ホフマンのフレンチトーストづくりの上達は『クレイマー』の話になると必ず言及される。

アメリカン・ビューティー』のこちらも序盤で、納得しがたい人員整理に苦悩し、評価レポートを書くことをしぶって「ファシストの発想だ」と憤るレスターに、キャロリンは「選択の余地はないわ。それ書いてちょうだい...失業したくはないでしょう」と答える。「じゃあ、魂を売ってサタンのために働こう。それだと悩まずにすむからね」に対しては「もうちょっとドラマチックにお願いできないかしらん」と軽口で返す。そこには他者(レスター、解雇されるだろう人たち)に対する歩み寄りの姿勢や、共感、注意力、また想像力というものがない(出世のために弱者を切り捨てることを選択するホラー映画『スペル』も必然的にこれがモチーフになっている。そして、この映画の元になったという監督サム・ライミの原体験もまったく同じ文脈にある。詳しくは、町山智浩のアメリカ映画特電第83回。24分あたりから)。だってそんなものは、仕事に邁進し、金を稼ぐうえでは邪魔になる感情だし、時間の無駄以外のなにものでもないからだ。効率が下がるし、金にならないからだ。等価交換のステージに感傷など存在してはならない。感情過多では仕事にならないのは確かであるにせよ、端的に言ってこれは人心荒廃というべきものだろう。

レスターは一幕まで諾々とキャロリンの望みに付き従っている。口答えもしないし、気乗りのしないチアリーディング見物にも不動産業者のパーティーにも随伴している。内心でキャロリンをよく観察している。関係を諦める間際には「こんな生活でいいのか?」と問いかける。「きみを助けたいだけなんだ」しかし、この映画中、キャロリンが譲歩する場面、悩めるレスターの話を聞き、共感しよう、手を差し伸べようとする場面はただの一度もない。自分の悪手に懊悩するばかり。「僕はまるで僕が存在していないみたいに扱われることにうんざりしてるし疲れたんだよ」とレスターは気色ばんでもらすことになる。「きみたちがいつ何をしようが僕は文句を言わない。だから、僕が望むのはそれと同じようにcourtesyに(親切・好意的に)になってほしいということだけ…」愛が抱けないのはしようがない。しかし、親切心は別で、これは関係を保つうえでしばしば愛よりも重要になる。ヴォネガットの言うように「愛は負けても、親切は勝つ」もちろんキャロリンはレスターの望みに耳を傾けることなどなく、却ってわめき散らす。彼女が夫に憐れみの情を表すのは自分の浮気が派手にバレたときの一瞬と、レスターの死が判明したときだけ。

シーンとしては先取りになるが、終盤、彼女は車内で自己啓発の音声「『私は犠牲者になることを拒否する』。これがあなたのマントラになり、頭のなかに繰り返し思い浮かび…("I refuse to be a victim." When this becomes your mantra, constantly running through your head--)」に従い、「I refuse to be a victim.」をまるで仏教の題目のように繰り返す。そもそも、この文言からして宗教がかっている(victim, mantra, through your head)し、声音もそうだ(そのように製作者につくられている)。そう、それは程度の低い宗教なのだ(山上の垂訓とは違うから)。

不動産の王、バディ・ケインとの「不動産ビジネスを教えてもらう」名目のランチのシーン。バディは離婚するだろうことをキャロリンに告げる。「彼女によると、僕は仕事に集中しすぎらしい。成功に向かってひた走ることを、まるで人物的瑕疵みたいに言うんだ。僕の成功が、不自由しない生活を成り立たせてるって彼女は知ってたはずなのにね」いかにも軽薄なキャリア野郎の言い草だ。そして、「僕をちょっとおかしいと思うかもしれない。しかし、成功しようとする者は始終(心のなかに)成功のイメージを描いておかなくてはならない(Well, call me crazy, but it is my philosophy that in order to be successful, one must project an image of success, at all times.)」。これ自体はほとんど陳腐なクリシェのはずなだが、キャロリンはその薫陶に感極まって彼に熱い視線を注ぐ。脚本にはこう書かれている。「キャロリンはメニューを機械的に持ち上げながら、まるでキリストと対面を果たしたばかりの熱狂的なクリスチャンのようにうっとりと彼を見つめ続ける (Carolyn picks hers up mechanically, but continues to stare at him, enraptured, like a fervent Christian who's just come face to face with Jesus. )」そしてこの教化のすぐあと、キャロリンは教祖(グル)であるバディとセックスして、自己を開放する。こりゃカルトの行動原理だよ。

キャロリンがいかに安手の自己啓発の類に毒されているかは娘を叱るシーンからもよくわかる。彼女はとんでもない両親の喧嘩を娘が目撃したことを意外にも「よかったわ」と悲壮な表情ながら告げる。「いちばん重要な教訓(lesson)を学ぶにはいい年ごろだわ。自分自身以外は頼ることができないってことよ」ここでの無理矢理なポジティブ・シンキングと、なんでも教訓に結びつけるところ、その口ぶりなどは、滑稽ながらもうほとんど痛ましい。それは自己啓発そのもののロジックとナラティブだ。「自分以外頼れない」が自分の苦境を言い表してしまっているのも拍車をかける。誰にも頼れない=「自己責任・自助努力(self help)」はアメリカの保守的な自由主義イデオロギーの代表的スローガンでもある。それは母親が娘に言い聞かせるべきことなのだろうか。

「私は犠牲者にはなることを拒否する」は、キャロリンに呪いの言葉として作用する。犠牲者には、足を引っ張る何かの、誰かのというふうに対象が要る。キャロリンはそれを自分にあてはめているから、対象は当然自分の人生を混ぜっ返す、我慢ならないレスターだ。不倫もバレたし、離婚となれば不利になる。彼女は最も強い意味で彼をrefuseしようとする(「極端な偏見で抹殺!」)。

victimはそれが自己啓発に使われているとすれば、勝ち組に対する負けた側、勝ち組を支えることになる犠牲者=負け組とも捉えられる。「負け組のほうになってはならない」と。『リトル・ミス・サンシャイン』の父親も同じことを(小さな娘にさえ)繰り返す。それは職業倫理とはなんの関係もない。彼らはビジネスの論理を生活と接続し、一体化させる(こういうひとが日本にもけっこう増えてきた。共通するのは、その清潔さと押しの強さとうさんくささ)。ビジネスは等価交換の原理で動くが、生活はそうではない。愛とはほとんど取り引きでないこと自体を意味する。それは先んじて価値が了解されている等価交換では捕捉されない。価値を量りえない(invaluable)からこそ「人は愛するものについて常に語り損なう」のだ。彼らには実質的に生(性)活がない。だから、レスターはこれは生活じゃないと叫ぶ。彼らには「形而上学ではなく生活」(ドストエフスキー罪と罰』)の生活がない。彼らこそ負け組であり、過剰な成功主義、勝ち組思想の犠牲者なのではないか。ある意味ではレスター以上に憐れだ。話が逆に向かう『リトル・ミス・サンシャイン』のほうでは「本当の勝ち(幸せ)とは何か」に対する答えのひとつが最後に提示されている。このテーマのクラシック、『素晴らしき哉、人生!』にもそれは通じている。

もちろん、たとえば渡邊芳之@ynabe39先生のおっしゃるとおり、金があればたいていのことは解決するのだが、金があれば幸せとはかぎらないというのも真理というか、データとして確かにあるようだ(とあるGIGAZINEの記事。プリンストン大学調べとのこと)。ヴォネガットは『タイムクエイク』で、ウィリアム・『ソフィーの選択』・スタイロンと「どのくらいの割合の人が生きがいのある人生を送っているか」について相談して17%と答えを出している。彼の知り合いの精神科医もそれに首肯する。

ここまで拡大解釈と括弧の使いすぎのそしりは免れないが、この映画、またある種のアメリカ映画の背景の説明としては大筋間違ってはいないだろう。キャロリンが象徴するのは拝金主義、消費的メンタリティーと強迫神経症的成功イデオロギーであり、アメリカの暗黒面だと言える。後者について、キャロリンをそのミニチュアとするなら、実存レベルの大ボスがダニエル・プレインビュー(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公。2007年公開。1999年から2007年までのぶんの経済潮流への懸念の拡大と見ることもできる。兆候から現実へ)。パセティックな還元的物言いになるが、彼らは心を失っている。そして、ふたつの映画の結末はともに「いずれ血に染まる(There will be blood)」それは聖書の言葉であり、アメリカの罪を表す。アメリカで金融犯罪をテーマにした映画がこれほどつくられるのはサブプライム問題という実際の問題もあるが、そうした事件を起こす潮流がもはや単なる社会問題の域を越えて根本的な国家的倫理の問題として問われているからではないか。

二幕はこれで終わり。レスターとキャロリン以外のキャラクターの行動も気になるが、これはレスターの最期を読み解くまえにまとめることにする。この映画でレスターの広告業界勤務が雰囲気で設定されているのではないことについてはすでに考察したが、キャロリンが個人ながら不動産業者であることも暗示的だ。この映画の数年後、サブプライム低所得者層向け)住宅ローン問題(2006〜)が表面化した。成功者と呼ばれるひとたちが、金を儲けることを目的化させ、ついにはゲームにして、世界からいかに不正に巻き上げてしかも処罰されなかったかについてはドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ』に詳しいので観られたし。フィクションなら金融危機前夜と証券売り抜けを描いた『マージン・コール』。レスター=ケヴィン・スペイシーも出ている(彼は「組織、上司と部下、解雇、成功と敗北、社会正義」がキーワードになるような映画への出演が異様に多い。『摩天楼を夢観て』が発端と思われる。スペイシー=宇宙的な、のわりに地上的で現実的)。少なくとも『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』で興奮した向きはフェアネスの点で観ておいたほうがよいように思われる。中年の危機ものからもうあとふたつ引用しておこう。誰が善で、誰が悪か、もはやわからない世界であるとはいえ。

「でもね、有紀子、これだけははっきり言える。絶対損をしない株なんてどこの世界にもないんだよ。もし絶対に損をしない株があるとしたら、それは不正な株取引の株だ。僕の父親は定年退職するまで四十年近く証券会社でサラリーマンをしていた。朝から晩まで本当によく働いた。でもうちの父親があとに残したものと言えば、ちっぽけな持ち家ひとつだった。きっと生まれつき要領が悪かったんだろう。うちの母親は毎晩家計簿をにらんでは、百円二百円の収支が合わないと言って頭を抱えていた。わかるかい、僕はそういう家で育ったんだ。君はとりあえず八百万くらいしか動かせなかったけどと言う。でもね有紀子、これは本物の金なんだよ。モノポリー・ゲームで使う紙のお札じゃないんだ。普通の人間はね、満員電車に揺られて毎日会社に行って、出来るかぎりの残業をしてあくせくと一年間働いたって、八百万を稼ぐのはむずかしいんだ。僕だって八年間そういう生活を続けていた。でももちろん八百万なんていう年収は取れなかった。八年間働いたあとでも、そんな年収は夢のまた夢だった。君にはそれがどういう生活なのかきっとわからないだろうね」
村上春樹国境の南、太陽の西

「ケツの穴野郎どもが、世界じゅうを動かしてやがるんだ」
ポール・オースター『偶然の音楽』