『風立ちぬ』の喫煙シーン - あってもいいではなく、なくてはならない

いまさら感は拭えないけれども、宮崎駿風立ちぬ』(2013)の喫煙シーンについて思うところがあって、禁煙学会の苦言(要望)に対する一般的カウンター(フィクションに難癖つけるな、当時としては当たり前だ、銃のほうが人殺してるだろ等など)以外で、なにか有用な意見なり考察なりがないかと探してみたら、以下のようなものがあった。禁煙学会の苦言のくだりとあわせて。

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零戦(美しいもの)開発に邁進することを運命として迷いのない二郎と、死の病である結核を運命として受け入れている菜穂子の両者の運命(美しさ/甘さと死)を合わせた表象としてこのシーンが描かれているという主張と解して問題ないだろう。これに関しては異論はないし、的確だとも思うが、もうちょっと別の言葉で考察してみたい。

この映画のコピーは「生きねば」。戦争の災禍とパートナーの喪失という過酷な現実(結末)には適していて世間に対する惹句的にはウケがいいかもしれないが、実際にはこれはちょっと違う。本当のコピーは、劇中、カプローニが二郎に発する問いである「君は、ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」だ。

一応まとめておくと『風立ちぬ』は、科学愛好少年、堀越二郎がイタリアの飛行機製造技術者、カプローニの幻影から天啓を得て、美しい飛行機をつくるという夢を抱き、そのために生活というものをほとんど度外視して必死に学び、長じて兵器開発という舞台で苦闘を重ねながらそれを実現させていく、その途上で愛すべきひとに出会い…という筋の話。

才能と意気に恵まれた堀越二郎はピラミッドのある世界を選ぶ。彼にとってのピラミッドは美しい飛行機であり、時代が彼に設定する具体的な対象は零戦だ。戦時下で飛行機をつくるチャンスはそこにしかない。彼はただただ美しい飛行機をつくることを願う。ただし、彼の設計する零戦は戦闘機、敵を打ち倒すための、また搭乗員を死地に運ぶ、人殺しの機械でもある。二郎は軍事的な野心だとか功名心などには目もくれていない。美しい飛行機が美しい軌道を空に描くこと、それだけを望む。その夢に向かってひたすらまっすぐに突き進む。その果てに描かれるのは戦争のもたらす巨大な破壊だ。その表現はもう現実的なものではない。アニメという手法で描かれた悪夢というほかない。「大量虐殺を語る理性的な言葉など何ひとつない」(カート・ヴォネガット)からだ。アニメで戦争とそれにまつわるものを描いた『戦場でワルツを』は逆に最後で「過度の現実」を示していたりするけれども。

「君は、ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」。ピラミッドとは美しい、偉容を誇るモニュメントだが、誰かを養ったりするものではまったくない(吉村作治は実は公共事業だった説を唱えてましたが)。端的に言って無駄なものだ。その建造は多大な人的、エネルギー的、時間的、財政的コスト、つまり多大な犠牲を強いる。さらに言えば傲慢さを感じさせる。神の威光に背いて天を衝く行為。シェリー(メアリ『フランケンシュタイン』シェリーの旦那)作の、ジッグラトをつくったネブカドネザル2世(オジマンディアス)についての詩の有名な一節は「我が名はオジマンディアス。王の中の王。我が業績を仰ぎ見て、汝ら権力者たちよ、絶望しろ」(私訳)。バベルの塔は言うに及ばず。

しかし、ピラミッドのような美しいものは、ただその美しさによって果てしなくひとを魅了する。「美しいが役に立たない」は芸術のひとつの要件であり、「美しいモニュメント」は人間が生きた証でもある。ピラミッドは日本語では金字塔とも呼ばれる。金字塔の意味するところは「後世に永く残るすぐれた業績」。

ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらを望むか。これは宮崎駿が自身に問うたことでもあるだろう。映画館で初めて鑑賞したときには、宮崎が自身を解放するためにつくったのかと考えたが、いまはむしろ自分(=堀越二郎)を責める/みんなに責めてもらうためにつくったのではないかと推察している(こうした傾向はマーティン・スコセッシに似ている)。二郎は劇中まったくエクスキューズを発しないし、それが許されていないように描かれていることもこの印象を強くする。

「戦争と技術者」の話と聞くとオッペンハイマー的な科学技術(者)批判、あるいはカウンターとしての科学技術擁護といった思想的なものを想起するが、この映画は(アートの正しい姿として)そうではなく、コントロール可能かどうか未確定で、多大な犠牲が想定されながらも、その美しさやおもしろさ(センス・オブ・ワンダー)、純粋性に魅入られ、追究を止めることができない人間の業をそのまま見せている。その点では芸術至上主義に似ている。ピラミッドがメタファーとして適していることにもつながってくるし、宮崎駿の自然と機械愛好の矛盾した心性と、羅刹のような偏執狂的作品づくりにも通じる。二郎も宮崎駿も非難を前提にその姿をさらしているようなものだ。ストレンジラブ的奇矯な振る舞いは見受けられないが、二郎にはマッドサイエンティスト性がある。個人的には煙草の存在感も含めて「美しいが役に立たないのが芸術」を強く主張する森博嗣の作品の世界観と「美しいもの、純粋なもの最高。それ以外は度外視」の登場人物たちが思い出される。

犠牲を払いながら追究をやめない/やめられない。だから、結核を患った奥さんの肺を煙草の煙で汚しながら、図面を引き続ける。このシーンは、あってもいい、ではなく、なくてはならないもの、だ。禁煙学会の件で擁護の色がついているが、このシーンが疑問を抱かせるのは間違いない。「命を賭けてまで」の美しさや、妻の夫に対するほのぼのとした愛情だけが描かれているわけではない。この疑問のわく感じは映画全体の、堀越二郎の生き様に対するいわくいいがたさと相似している。要はテーマ(ある種の人間の業)的に一貫しているシーンのひとつということだ。ということで、件の喫煙シーンは必要だと思うのです。

宮崎駿作品全般の解題。参考にしてます。【町山智浩×切通理作宮崎駿の世界 その1

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関係ないけど、かっこいい喫煙シーン。Back to the human race.
Escape From LA Ending Scene - End of All Electricity

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