『アメリカン・ビューティー』 16. 現実とイメージのギャップ / アメリカの美

レスターの最期に入るまえに、この映画の「現実とイメージのギャップ」と「アメリカの美」について。

キャラクター単位の「現実とイメージのギャップ」はこれまでに示したとおり。レスターはイメージ世界、広告業界と夫婦生活と決別し、身体というリアリティの獲得に向けて精進する。革命の主体だから彼は主人公だ。キャロリンは立派なキャリアと成功を目指しながら、仕事が上手くいかず苦悩する。家庭についても同じで、彼女は見映えのする素晴らしい家庭生活を望み、努力もしているが、その欲望とそれにまつわる浅薄さが却って現実の家庭に亀裂をもたらしている。ジェーンは成長を遂げつつある身体というリアリティに馴染んでいない。アンジェラは、モデルとしてキャリアを積むことを目指し、そのイメージの体現に偽悪的に励むが、実際は自信のない処女。フランクはゲイであるというリアリティと和解することなく、男らしい男/父親のイメージを守ろうと必死だ。立派な父親を目指すのは歓迎すべきところかもしれないが、自らがゲイであること(nature)の否定というアンチの心性、強迫観念、フラストレーションに端を発しているものだから過剰で歪だ。テレビで観るものさえ軍隊もの(おそらくは国威発揚的なもの)なのだ。やがて致命的な支障をきたす。リッキーは父親のイメージ保持に奉仕する。バーバラは普通の家庭というイメージのために殉じ/殉じさせられ、もはや現実そのものを失いかけている。

そして、家族という単位の「現実とイメージのギャップ」。50年代に形成された、いまに通じるアメリカの現代的白人中流核家族像、テレビ、洗濯機、(食料品の詰まった)冷蔵庫、いわゆる三種の神器をはじめとする耐久消費家電、潤沢な家財道具、庭つきの広く明るい邸宅、豊かな暮らし向き、たくましく頼りになる父親、優しく美しい母親、かわいい子どもたち、仲睦まじい家庭生活、というモデル。ホーム・スイート・ホーム。戦後日本を魅了し、日本人が映画やドラマや雑誌を通して倣ったステレオタイプ。共産主義圏のそれに対置されてきた、誇るべき「豊かさ」と「幸せ」のイメージ。一方で、多くの物に囲まれながら、いさかいの絶えない、冷たい家庭という現実。逸脱を許さない風通しのわるさ。先進国の豊かな家庭が、いかに多くの収奪と犠牲のうえに成立していたか。それはそのまま『現代社会の理論』となる。呪いという言葉が思い出される。

専門でもないし、価値判断が入ってくるときなくさくなるフィールドだが、もうすこし具体的に、レスター家の不和について考えてみよう。女性の社会進出が進んで、女性が自律的な個として生きる可能性が広がった。一方で、男性は。

これ(リチャード・マシスン『縮みゆく男』)がアメリカで重要な作品だと言われる理由としては、主人公が昔、戦争の英雄だったんだけども、今は生活に苦しんでいる。郊外に一戸建てを買ったんだけども、そのローンが払えない、みたいな話になっていくんですね。当時、これはアメリカで一戸建てを郊外に建てて住み始めてローンを払うっていうのは始まりの時なんですよ。核家族化が進んで...肉体的な労働者が大多数だった中、次第にサラリーマンが大多数になっていく。汗水たらして肉体労働を行っていた男たちが、書類整理や営業とかをさせられるんですね。この時から、働く実感がなくて苦しんだらしいんですね。社会の中で、自分の位置や、やってる仕事がどういう関係性があるのか分からなくなっていくんです。巨大な社会の歯車になっていくから...巨大な社会の中で、自分というものがどんどんと小さくなっていった。その気持を『縮みゆく男』に象徴させているんですよ。それまでガンガン働いてたのが、社会の中での位置がどんどん小さくなっていく。社会の仕組みがどんどん複雑化してわからなくなっていく、そのことが象徴化されてるんですね...実はその頃、アメリカや日本で『サラリーマンが辛くなっていく』って話がたくさん書かれてるんですよ。ところが、その中で他の作品は消えていったのに、『縮みゆく男』だけは残っているんですよ。それは、象徴的に描いているからでしょうね。ハッキリと生活が大変で、実感がわかない、とは書いていないんです。体が小さくなる、とお伽話として書いているから、かえって残るんですね。時代が変わっても普遍的に残るんですね

映画評論家・町山智浩「報われない人が元気になれる小説『縮みゆく男』」 | 世界は数字で出来ている

町山智浩は何度かこの小説を取り上げていて、「『縮みゆく男』ってのは『縮みゆく男根のこと』」というふうにも述べている。これはそのまま広告業界で疲弊し(「働く実感がなくて苦しんだ」)、「ペニスを瓶詰めにされた」レスターに当てはまる。そして、女性が強く、男性が弱い家庭ができあがる。レスターも『縮みゆく男』の系譜にある(途中から反・縮みゆく男)。将来的にまずい事態を呼ぶ家庭のパターンのひとつに奥さんが旦那を軽蔑していて、それを子どもに隠さずあからさまに見せるというのがある。これもバーナム家に当てはまる。これに加えて、もうひとつレスターが奉ずる心性(後述)と、キャロリンの寄って立つ成功主義イデオロギーの齟齬がある。これが「性格の不一致」、価値観の相違だ。もうひとつ注目すべきは、キャロリンの成功が脅かされているという点。彼女の仕事が上手くいっていないことも間接的に家族の機能不全につながっている。なぜ上手くいかないのか。家族(ウチ)と仕事(ソト)の両方に影響するある潮流。

彼女が邸宅を売らんとキャミソール姿で一所懸命に掃除をし、口紅を塗ったくって気合いを入れて見学者を案内するシーンを見てみよう。彼女がなぜそれを売ることができないかは明白だ。必要と思われる要素を外形的に邸宅に仕込み、夫の職業である広告代理店のような紋切り型の派手な言葉で(「ドゥラマァッティック!」)、カタログを読むようにプレゼンテーションをするからだ。その方法は彼女自身の邸宅のあつらえと同じで、家人に安らぎを与えることができないのと同様に見学者を魅了できない(キャロリンは娘に「あなたがもっているモノを(いかにモノに恵まれ、囲まれているか)見てごらんなさい!」と叱る)。不動産業者パーティーにて「不動産業者はよき家庭のイメージを周囲に与えることが重要なのよ」とキャロリン自身がレスターに言っている。彼女は「よき家庭のイメージを周囲に与えること」について、「よい家庭をつくり、その帰結として楽しげな雰囲気を表現できている」わけではなく、よき家庭であろうが『岸辺のアルバム』のようなひどい家庭であろうが、とにかく「よき家庭のイメージをつくりあげて(捏造して)振りまく」といったようなことに腐心している。根を必要としない造花のようなもので、「本当のよき家庭のイメージ」を真に体現できているわけではない。だから、家を売ることができない。『素晴らしき哉、人生!』の主人公も不動産業者だった。彼の家庭がどのようなものであったか、引き比べてみればよくわかる。それはさておき。

見学者は順に、アジア系の男性と(ポケットに手をつっこんでいる。『速読英単語』によると手のひらを見せない相手にセールスは成功しにくいらしい)ちょっとオリジンが外見からはわからない女性(毛沢東のTシャツを着ている)のカップル、白人の後期中年夫婦、黒人の初期中年カップル、アート系らしき女性ふたり(たぶんレズビアンのカップル)。冷やかしもいるかもしれないが。

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キャロリンは彼らに懸命におもねって、愛想を振りまく。白人の夫婦を除いて、マイノリティーであった層に値踏みされているのだ。結局キャロリンはしどろもどろになる。そして彼らが家を買うことはない。長く憧れのスタンダードとして権勢を誇ってきた憧れられるべき「穏当な」模範的白人中間層が、周縁だったはずのマイノリティーに否定されている。価値の基準という点においても経済的にも。「模範的」白人中間層の否定という点で、不幸せなフィッツ家に幸せそうなゲイ(クイア)のカップル(ふたりのジム)が訪ねてくるシーンも同じだ。

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かつて、アメリカの若者のネット個人放送にて、(匿名なのでたぶん)日本人の若者がリアルタイムのコメントをとおして彼に「○○(放送者のハンドル)って本当のアメリカ人?」と尋ねていた。本当のアメリカ人がいるとするなら、それは(嫌な物言いで申し訳ないが、当人のそれとして想定される語彙を使って言えば)「インディアン」ということになる。もちろん彼/彼女が意図していたのは『ジャック&ベティ』のジャックのような白人の男の子だ。そうした、おそらくは当事者たちも自認していた白人、白人中間層、白人核家族というモデル、イメージが失墜していくさまをこの映画は描いている。『アメリカン・ビューティー』とは第一に麗しい白人、白人核家族、それにまつわるもの、そのイメージ、構成要素、アメリカの美として想起されてきたものを象徴する。美を自認する白人女性たちは赤で装飾される。バーナム邸の玄関ドアも赤色だ。日本車が侵略するまえの美しい栄光のアメ車、ポンティアックのファイアーバードも赤色。もうひとつのキーカラーは映画内で赤の補色(実際の赤の補色は緑だが)のようにカラーコーディネートされている青色だ(スレートブルー気味に彩度と色合いは変えてある)。ここに白人の白を加えてみよう。できあがるのは星条旗だ(書いてて気づいた。もう指摘しているひとはいるだろうが)。レスターが癇癪を爆発させるソファは青と白の「ストライプ」でもある(素材のイタリアンシルクにコロンブスを見るのは深読みし過ぎで、単に舶来品で高価なのを示すということだろう)。キャロリンも同色のワンピースを着ている。

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バーナム家の邸宅の正面も赤、青、白の配色。美しい家。その中身はどうだろう。この映画の中心的二家族に「まともな」人間、特にまともな大人はひとりもいない。もう彼らはそのイメージをまっとうできなくなってしまった。建国から続いてきた白人専横は終わりを告げられつつある。そのようなアメリカ。白人専横社会の終わりの宣言(二千うん十年にヒスパニックに人口比で逆転され、白人はマイノリティーになる、プアホワイトの増加、実際の黒人大統領、e.t.c.)はいまでは珍しいものではなくなった。ものづくりの失調、経済の金融化による(白人が主たる構成員であった)中流層の不安定化、失業の増加、その負の波及効果についてはハフィントン・ポストのハフィントンさんが『誰が中流を殺すのか』でしつこく説明している。白人中心の趨勢が脅かされている状況を象徴を通じて描くような映画は少なからずつくられてきた(象徴性の強い映画では『猿の惑星』、『地球最後の男』の系譜など、町山さんにさんざん習った)。『アメリカン・ビューティー』はその止めのように見える。

こうした流れを越えて、クリント・イーストウッドは『グラン・トリノ』(2008)という作品をつくった。これも白人社会の終わりの風景を描くが、彼は肌の色や宗教ではなく、オリジンや属性を越えて受け継がれる、公正さを求めて苦闘する魂にアメリカ性を託した。それは差別や迫害の反対のほうにある移民の国・アメリカの気高い精神であり、歴史の短い国の継承すべき伝統でもあった。

リッキーは鳥の死骸を撮影し、凍りついて寂しそうなホームレスを撮った話をジェーンに語り、最後にレスターの死体を見つめる。ビデオカメラこそもっていないが、ハッと我に返るまで美を観察する視線でレスターを見る。それはイメージではない。死体(body)以上のリアリティはない。彼の作品は死の記録だ。その元になった光景が脚本家のアラン・ボールにこの映画を胚胎させたという、寒空の下、風に吹かれて地面を舞う白いビニール袋(flying bag)の映像についても同様だ。風に翻弄される白いビニール袋=白人たち。それはプラスティックでもある。プラスティックとは言うなればまがいものだ。I want to say one word to you...Plastics『卒業』で示された「現代とは何か」。詩の技法にならえば、風は霊を象徴したりもする。この映像は死と終わりのにおいに満ちている。死んだレスターもこの映像を見る。同時に、そこにいるものとして見られる(これが実はこの映画のスタイルなのだ)。死の間際まで右往左往し続けたレスター。模範的だったはずの白人家族がわけもわからず翻弄され、ひとつの終わり=死を迎える。アメリカ白人中間層が支えていたヘゲモニーの終わり。その文体はアメリカらしくトラジコメディーとなる。美しい薔薇の裏、罪や恥のなかにも美は見出される。それこそが総合的な、大文字の「イメージと現実」だ。だから、この映画は『アメリカン・ビューティー』というタイトルになる。墓碑銘と献花のように。