『アメリカン・ビューティー』 12. リッキー

リッキー、この「心に茨を持つ少年」には三つの面がある。ひとつめは、世界の観察と表現に関しては他人の意向など歯牙にかけない、我なすること我のみぞ知る的なあけっぴろげな個人主義アウトサイダー性。ふたつめは、それと相反するような、プラグマティックでドライな世渡りに見られる適応性。みっつめは両親に対する素朴な愛情だ。

彼のアウトサイダー性、おそらくは同世代や、彼らが関心を抱くものに興味がもてず、ひとり自分のしたいことを追究して、メインストリームの事物、他人志向型の人間にはそっぽを向くという傾向がいかに形成されたかは、登場からしてそうなのだから想像するしかない。手がかりは15歳でマリファナを吸っていたということだ。現在では認められている州もあるが、キャロリンが厳しく批判することからして普通の行動ではないだろう。ましてや15歳だ。劇中からわかるとおり、彼はアウトサイダーとはいえ仲間とつるむタイプではない。つまり、不良の微笑ましい非行としてマリファナを吸っていたのではない。彼は孤独だし(だからジェーンに会えて本当によかったと言う)、服装もきちんとしているし(聖書売りなどとアンジェラに言われるほど)、手ぬるい不良の群れなんかには唾を吐くのではないか。彼はベーコンを食べない。明確には語られないが、彼は軽度の菜食主義と思われる。菜食主義をアウトサイダーとくくるのは誤解を招くが、すくなくともこの映画内ではその傾向を示すものとして認められうる。同様に肉食=粗暴も図式的にすぎるが、そこから彼が暴力を手放したことを読むこともできなくはない。

彼のアウトサイダー性の理由は三つ考えられる。生来の気質からというのがひとつめ。あとのふたつは父親に由来する。ふたつめは父親の暴力。映画を観終わってわかるとおり、父親のフランクはゲイでそれを隠して生きている。リッキーは性に意識的になってくる15歳で父親がゲイだと気づいた、という可能性はあるだろう。ゲイであろうが、いかなる性的指向をもっていようがそれは個人の自由だし、理解され、保障されるべきものではあるが(僕はそう信じてます)、偏見まみれの現実においては(もちろん映画というか、想像なんですが)リッキーがその事実に懊悩させられたということはあるかもしれない。少なくとも世間知らずの思春期の少年には大きな影響を及ぼすだろう。1999年デビューのイギリスのロックバンドにGay Dadというのがある。これは性的マイノリティーに対する揶揄ではなく、むしろ差別はなくそうの方向の文脈にあるネーミングだが、保守派を挑発する意図もまた明らかだし、実際アメリカではバンド名が物議を醸したりもした。フィッツ父子はもちろんきちんと話し合って理解し合うのがよいのだろうが(お互い言外に理解して忖度し受け入れあう、でもいい)、父親は軍人であり、それを隠している。そのフラストレーションから彼は家族に抑圧的で、暴力をふるいさえする。息子は誰にも話すことはできない。その抑圧的な状況下の逸脱行動としてマリファナに手を出したのではないか(父親がゲイだと息子が非行に走ると言ってるわけではないですよ、念のため。この映画は実情を無理に糊塗することから来る悲劇を描いている。それを踏まえた推測にすぎません)。

15歳でマリファナがバレて、彼は陸軍学校に入れられる。日本ではかつて手のつけられない男子は、性根を叩き直すために戸○ヨットスクールや日○学園高校なんかにブチこまれていた。50代以上のおじさんのなかには、いまでも問題児を指して「戸○ヨットスクールにブチこんでやればいいんだ」と言い放つひともいる。親が金持ちで問題のある子息はとりあえず留学させたりするそうだ。アメリカでは陸軍学校がスタンダードなのかは寡聞にして知らないが、この仕打ちにあった有名なアメリカの作家がいて、この作家とその作品はリッキーの造形に影響を与えているように思われる。

その作家とはずばりサリンジャーと代表作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公・ホールデンだ。J.D.サリンジャー本人については、陸軍学校への転入、『ライ麦畑』のホールデンについては、放校処分、アウトサイダーであり他人と上手く馴染めないこと、他人をよく観察していること、独特な感性と奇矯な行動、虚飾が嫌いなこと、若輩でありながら喫煙しそれにこだわりがあること(煙草とマリファナ)、髪型についての言及(おそらくリッキーがからかわれたのは軍隊的な短髪の髪型であるクルーカットで、これはホールデンの髪型)、帽子が意味ある小道具として利用されている点、精神病院に入れられる点、家族を大切に思っているところ、激しく痛めつけられるシーン、遠くに出奔する(しようとする)ことなど。性格や言動、環境はもちろんかなり違うが(なによりタフさが違う)、製作者が文学系アウトサイダーを造形するにあたっていくらか参考にしたのは間違いないのではないか。世界中の若者に影響を与えた(ときに与えすぎちゃった)『ライ麦』はいまでも毎年50万部売れているのだ。「雨のなかの死」も共通している。またあとでふれる。

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彼が登校初日に髪を丸ごと隠すようにニット棒をかぶっているのは、以前、陸軍学校から普通の高校に戻ったときに同級生にからかわれて激高し、周囲が止めなければ殺すほど痛めつけたからだ。小中学校→陸軍学校(すぐに放校。父親に殴られる)→普通の高校(髪型をいじった奴をしこたま殴ってすぐに退学)→精神病院(父に引きずって連れていかれる。まわり道2年)→今度の高校、ということになる。一連のまわり道と二年間の精神病院での矯正が効いたのか、あるいは諦めたのか、たぶんその両方から、プラグマティックにドライに外部に適応することも身につけたのだと思われる。それは軍服を思わせる、プレーンすぎる服装にも表れている。新しい高校での彼の帽子は防御と適応のための道具であり、ビデオカメラも似た役割を果たす。自分と世界とのあいだに窓=ビデオカメラを置いて外部を眺める。一旦フィルターを置くことで、自分と外界に距離をとることができる。レンズを通して見るかぎり客観的でいられる。もちろんカメラをいつも掲げていれば変に思われるからこの防衛手段は十分適応的とは言いがたいし、処世術としては本末転倒気味なのだが、世界の美(リアリティー)の記録が彼の至高の目的でもあるから、それは他人の視線に優先する。

ここらへんは複雑で独特だ。不適応性を前提として世界に適応するメソッドを身につけているとでも言おうか。ビデオカメラは彼にとって二重の役割(世界との壁と、世界の観察)をもつ。彼以外の人間は常に出来事の当事者だが、彼だけは観察者性をまとっている。これは芸術家の要件でもある(リッキーの撮影癖は監督サム・メンデスの経験が反映されてる)。現実とは別にもうひとつの世界をもっている(物理的にはビデオテープの棚)。審美が彼の基準だ。だから、彼はいかに否定されようが、終始動じず落ち着いている。主要な登場人物で劇中一度も激高しないのはただ異端者の彼のみ。その姿にレスターもジェーンも感服し、影響を受けることになる。革命を呼ぶのは往々にして「まれびと」、遠くから来訪した異人だ。リッキーはトリックスターの役割を果たす(キャラ原型としてのトリックスターとはちょっとずれるが)。引っ越してきた彼が発端となって、玉突き事故のように世界の様相は火花を散らしながら変わっていく。

金を稼ぎ、好きにそれを楽しむためにマリファナの腕のいいディーラーになってバイトを隠れ蓑に上手く顧客を集める。わるびれることもなく機械的に、非情緒的にそれをこなす。大人、同輩問わず、物怖じせず冷静に話せる(その様子にジェーンは唸る。なんせ周りはひっきりなしに金切り声をあげている)。父親との関係も、ある程度この適応の枠に収まっている。横暴な父親に、また父の示す規範に従っているように見せる。偽の小便を用意する。金策が妙なことはバレバレながら、正当なバイトで稼いでいるように父に示してとりあえず安心させる。方便としてしばしば嘘をつく。とにかく彼は父親が恐慌を起こさないように演技する。彼だけが現実とイメージを峻別し、同時に架橋するスキルをもっている。もちろん父を安心させ、その暴力を抑え、関係をなるべく穏当な状態に維持するためだ。ほとんど事務的な趣さえある。

ただ、適応性と超越性だけではない。彼の深みは別のところにある。リッキーは父を憎むべきだとジェーンに言われて「悪いひとじゃない。(He’s not a bad man.)」と答え、つけ加えるように「いや、すごく憎んでいるよ」と矛盾したことを言う。「父親を殺すためにひとを雇おうなんてよくない考えだよ」と真っ当に彼女を諭しもする。父親に折檻された直後、母親に「父さんを頼みます」と願って家を出ている。ひどく権威主義的・差別的・閉鎖的で悪口や呪いの言葉ばかりを吐き、笑顔や優しさを見せることもなく、常に家族を抑圧し、夫人を楽しませるようなこともなく、話し合いをすっとばしていきなり拳を硬め、血が出るほど激しく自分を折檻する軍国主義ファシストを「悪いひとじゃない」と息子は言うのだ。ここには、虐待されているのにもかかわらず親が他人に非難され、攻撃されるやいなや親をかばうような、被虐待児特有の親への独特な愛着があるように思われる(心理学者でもないのでわからないのだが、他者の指摘や糾弾によって親の言動の正当性が毀損がされると、しつけ(愛)と暴力の両義性が消え失せ、暴力しかそこになかったことが露わになってしまう。これを否定せんがための防衛機制として、子どもは親をかばうように思われる、のだがどうだろう。ストックホルム症候群的なこともあるのかもしれない。憶測で決めつけられないが)。

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しかし、もうひとつあってそれらは分けられない、つまり未分なものと思われる、父、フランクの弱さへの憐れみと愛情だ。横暴さは弱さから来るんだ、本質的には悪い人間じゃないんだ、と。そこには保護者的なにおいさえする。彼は憎みながら、父親を愛している。彼の状況は特殊と言っていいが、彼の愛憎半ばする心情のあり方は必ずしも特殊というわけではないように思われる。

そうしたところ、まったくの誤解から口をきわめて罵倒され(「神に誓って、おまえをこの家から放り出してやる」)、話も通じないまま殴打されることで、またなにより誤解とは言え「おまえがゲイであるくらいなら、死んでくれたほうがマシだ」との発言によって、リッキーのかぼそい父親への愛情の糸が切れてしまう。リッキーはゲイではないのに、なぜここに感情の分水嶺があるのか。彼はゲイではないが「ゲイであるか、そうでないか」という前提付きで親が子どもを大事にするかしないか決めるということは、その愛が条件的(conditional)であることを示してしまう。たとえ条件のうち親が望む正解のほうにいるとしても、それは子どもには致命的な、回復しがたい傷になりうるのではないか。話が通じないうえ、ゲイ嫌悪自体も度が過ぎている。それはフランクの恐怖と弱さの裏返しだが、もうつきあいきれない。序盤でもゲイのカップルを罵る父親の発言を否定せず、逆に過剰に肯定することで、トリッキーにジャブ程度の攻撃を父親に加えている(「ああいうゲイの連中を見てると内蔵が口から出そうになるよ」)。父親に絶望したリッキーはわざと自分がゲイであり、そのサービスの達人だと認めることで(そうすれば当然の理路として、父はもう息子を愛することができない)、諦めと悲しみを抱きながら復讐する。父親が自らを偽っていることを告発し(What a sad old man you are.)、彼の元から去る。それでも息子は母親に、弱い父のことを頼むのだ。

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