『アメリカン・ビューティー』 11. アンジェラ

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アンジェラもまた「現実とイメージのギャップ」の虜囚だ。彼女が外装するイメージはクールなティーンのモデル。自室の壁はそうしたモデルの顔だらけ。やたらと「性に奔放です」話を繰り返し、自らビッチを演じてみせる。的外れな気もするが、パリス・ヒルトンが人気なのだからその目論みもあながち間違ってもいないのかもしれない。それが人気あるイメージとして大いに流通しているから、カウンターとしてP!nkが「Stupid Girl」などという曲をつくるわけだし。I don’t wanna be a stupid girl.

自己演出だけではなく、実質的な部分もある。チアリーディングで彼女はセンターを張っていて、高校学園ものの女王蜂の立ち位置にいる。しかし、学校で少々野暮ったい女の子二人組の片われに「『セブンティーン』なんか一回載っただけでしょ。太ってるし。クリスティー・ターリントンみたいに振る舞うのはやめなさいよ」と見抜かれているとおり、彼女はその方面のメインストリームの頂点に立てるわけではない。スーパーモデル、クリスティー・ターリントンの身長は178cm。アンジェラは美人は美人だが、スーパーモデルになるには明らかに寸足らずだ(演じるミーナ・スヴァリは163cm。彼女も十代はモデルだったが、身長で不利になりにくい役者に転じ、『アメリカン・ビューティー』に出ているということだろう)。そのように、つまり、隙のない美女の芯を外すように制作者は人選している。体重も落とさせず、トランジスタグラマー(古い)を指定したのではないか。こういうのはしようがないことだ。スヌーピーが言っているとおり、「僕らは配られたカードで勝負するしかないのさ」。あるいは「このいずれかの者(創造主)が仕事場でこしらえ、しばらくのあいだ、わたしたちがその魂にならねばならないようにした身体という『偶発事』によって、わたしたちを永劫に罠にかけたのだ。」(ミラン・クンデラ『出会い』)

レッド・ロブスターに行けば、その場のすべての男に注目され、学校の男子はみな自分をズリネタにしていると彼女は言う。彼女がレスター以外の男性に関心を注がれるシーンはないし、自意識過剰と思われるが、それが本当だとしても彼女が美について一流になることは残酷だがない。「普通であることよりサイアクなことはない(there's nothing worse in life than being ordinary.)」と言明するが、彼女が特別になれる可能性は低い。すくなくとも自分が勝負できそうと考えている美の舞台において、いちばんよいカードを配られているわけではない。

彼女はそれに気づいている。自信がないから言葉で粉飾する。現実とイメージの狭間にあって不安を感じているし、希望に足をかけられているぶん強迫観念も強い。だからこそ、本物の賞賛の視線、つまりレスターの視線がたとえ下卑たものであっても受け入れることになる。それは彼女が待望していたものだ。これは完全に想像でそんなシーンはないのだが、彼女の不遜な態度は日常的に男子を避けさせていたのではないか。あれだけモテるアピールをしながらアンジェラには恋人がいない(本当は臆病というのもあるだろうが)。一方で、リッキーには激しい拒否反応を起こす。彼女が魅力と自認している容姿に彼は一切目を向けないし(「信じられない。あいつ、私をたったの一度も見なかったわ」)、その空虚さ(vanity)を見抜いているように感じられるからだ。結局、彼女はイメージを装うことによって不利益を被り、罰を受けることになる。ジェーンとは決定的に仲違いし、「どこまでも平凡(totally ordinary)」とリッキーに言い放たれ、かぼそい自信を砕かれる。バブルはいずれ弾ける。アンジェラは自ら望んでいたわけだが、イメージとはいえその役割を引き受けるかぎりにおいて、その責任はとらなければならない。酔余の不品行に言い訳が許されないのと同じで、それは自分ではない、ということにはならない。「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない。」(カート・ヴォネガット『母なる夜』)

友だちも自信も失ったところで折よくレスターが現れ、「これまで見たもののなかでいちばんきれいだよ」(これは彼にとっては嘘ではない。レスターが望んでいるのは彼の「夏」の時代の高校時代のイケてるきれいな女の子というような「等身大のイメージ」だから)、「そう努めるんでもなければ、平凡になんかなりようがない」とそれが最も響くときに彼女を褒める。レスターがボタンをはずし、胸をはだけさせたところで、彼女は初めてであることを告白する。ここで観客はいかに彼女が自身を偽っていたか、また自分=観客が騙されていたこと(映画的な仕掛け)を知らされる。レスターは彼女の胸に耳を当てたあと、行為を止めて彼女にニットのガウンを巻く。アンジェラは経験もないのに、友人の父親に色目を使い挑発していたことについて、泣きながら言外に謝る。この夜の顛末からすれば、この謝罪には自らを偽っていたことについての懺悔も含まれているように思える。ここに美があるとすれば、失礼ながら彼女の露わになった身体よりも、イメージを剥ぎ取られた壊れやすい自我が露わになって震える様にこそ、それを見ることができるのではないだろうか。それは(『トーマ』ではなく)アンジェラの心臓の音に等しく、レスターはその鼓動に耳をすます。劣情をまとった互酬的依存関係は終わる。彼女を「だいじょうぶだよ」と抱きしめて背中をさするレスターは、厳しい世間で手酷くしくじって傷ついた実の娘を家で慰めている父親のようにも見える。ここでレスターは成熟を見る。彼も「そして父に帰る」。