『アメリカン・ビューティー』 10. ジェーン

ジェーンは映画冒頭の導入部で、父親であるレスターから典型的なティーンエイジャーで、angry、insecure、confusedと評されている。怒りに満ちて、不安定で、混乱している。彼女は初登場シーンで豊胸手術についてインターネットで調べ、姿見で自分の胸を確認し(横から膨らみを確かめるところがリアル)、そして母親が正しく指摘するとおりつまらない(not attractive)服を来て車に乗り込む。ここは誤解を生みやすいようだが、豊胸手術をしようと調べているのではなく(かつてはそうしようと画策し、お金を貯めていた。一瞬映る数字のウィンドウは豊胸手術の費用ではなく、電子お小遣い帳)、むしろそれがもう必要なくなったのではないかと考えはじめていると解釈したほうが筋が通る(傍目からは明らかなのだが)。

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後々自分の胸部をビデオカメラで映すリッキーに向かって「胸が(豊胸手術を)待ってくれない(豊胸手術を待たず、もう大きくなってしまった)」と言っている。彼女はディスプレイに映る豊胸手術のBefore、AfterのAfterのほうに期せずしてなってしまっているわけだ。しかし、まだ自分の発育に上手く馴染めていない。だから、明らかに大振りな身体の線がわかりにくいジャケットとパンツを身につける。髪も引っつめにして女性性を抑制している。性徴期にあって、ちょっとした分裂状態にあるわけだから、機嫌がわるいのも当然と言えば当然だ。身体は勝手に大人になっていく。しかし、内面は言うなればbeforeのままで、勝手に大人になるわけではない。ここでも(セルフ)イメージと現実(身体)のギャップが問題になっている。 彼女が、リッキーの父親・フランクの口癖「Structure and discipline!(自己構築と規律/訓練)」が自分にも必要だと言うのも、ただの冗談ではない。

チアリーディングをしている場面、ああした演技を見るときはまるでバーナム夫妻のように親の視点で見てしまうもので(カメラの視点人物がレスターということもある)、「あっ」と気になった向きも多いと思われる。ジェーンは途中で床に置かれた帽子をすこしばかり蹴ってしまっている。何故このショットが採用されているのか。制作者に違うと言われればそれまでだが、テクスト論的に深読みしてみる。

見物当初はジェーンを観にきたということで、画面の中央には彼女が捉えられている(初めにロングショットで横一列に開いたメンバー全体が遠くに映り、アンジェラは中央にいるが顔が見えるほどではない。左右対称は監督のサム・メンデスの嗜好もある)。次に、画面は認識できる大きさのジェーンとアンジェラを中央に映す。それから、メンバーたちが脇に開いていき、アンジェラが中央奥に来て、センターポジション独自の振り付けを披露する。「ジェーン→ジェーン&アンジェラ→アンジェラ」で、レスターの関心が移っていく過程を巧みに表現しているわけだが、このメンバーたちが脇に開いていって、その奥にアンジェラが現れるところは女性の足を開いて隠されていた秘密の花園に接近するメタファーと捉えられるし(官能小説みたいだな)、アンジェラの振り付けは帽子を脱いだりかぶったりするもので、これはもうセックスの暗示というほかない(ここは確実)。レスターは一気に欲情させられ、直後にエロい妄想まで見はじめることになる。帽子は女陰のメタファーだ(産道、子宮含め、袋・筒状のものはなんでもそうなのだ。『北北西に進路をとれ!』と『大脱走』ではトンネルがそうした意味で使われている)。ということで、ジェーンが帽子を蹴る行為は、女性性を否定したい無意識というふうに読みとることもできなくないこともないこともない。

レスターが「(不安定さなどは)全部過ぎ去るものだと言ってやりたいのだが」と言うのは、後々の娘の糾弾に対する「おまえも母さんみたいになりたいのか」という反応を考えれば、女性特有の不安定さを指していると考えられる。ただ、もちろん彼女の不安定さは両親の不和の空気と父親の不甲斐なさにも由来している。父親へ不満は、当初の駄目オヤジっぷりと長らくの自分への無関心から、彼のアンジェラへの劣情へとシフトし、増大する。二幕の最後、リッキーと懇意になって戯れに父親を殺そうと語るシーンでは「アンジェラを近しく思うように、私も大切にしてもらいたい」、「無害に見えるかもしれないが、精神的にはひどいダメージを受けている」、「ロールモデルとしての父親が必要」と吐露している。そのような演出はさして見受けられないが、最初の発言(直訳すると、アンジェラが占めている、彼にとっての重要度の高い位置に自分がいたらいいのに)からは父親が友だちと寝るということ自体への嫌悪感とは別に、父親を盗られることへの怖れが垣間見えなくもない。

もうひとつ、不安定さを後押しすることになるのは友だちのアンジェラだ。実はこの関係は元々十全に機能し、安定していたわけではない。典型的な白人ホワイトカラーの上流気味中産階級の娘、外見もわるくなく、チアリーディング部所属で高校ではクールな(と自認している)立場、同じハビトゥスをもつ、ティーン的ないわゆるガールズ・トークをするには彼女たちは打ってつけの仲だ。しかし、レスターとアンジェラの出会いと、そして特にリッキーの登場でふたりの他者性が明らかになる。

明白なイベント以前にもその兆候はある。意見の別れるところであるかもしれないが、前半の彼女のメイクはゴスっぽい。学校でアンジェラと並んでいるシーンがわかりやすい。

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日本では基本的にアニメや何らかの意味でのコスプレ、また洋服の趣味、ファッションとしてゴスなるものがまとわれているのだと思われるが、アメリカでのゴスはスクール・カーストやメイン・ストリームに対するアンチテーゼ、そうしたものを受け入れられず、背を向けるアウトサイダーであるという意味、アイデンティティを表すサインとなりうる。この、ゴスそのものではないがその雰囲気でアウトサイダー感を醸し出すという演出がなされているキャラとして他に『レイチェルの結婚』の主役のキム(アン・ハサウェイ)が挙げられる。また、親が見に来ていて不愉快とはいえ、チアリーディングを披露するときにもまったく笑顔がなく、演技をする喜びも見えない。それは既成のメインストリームのなかでの特別な存在を目指すアンジェラとは明らかに志向性を異にする。虚勢ながら奔放な女性像を打ち出しているアンジェラとは対照的に、ジェーンは自らの女性性に馴染んでいない。アンジェラの艶話に乗ることもない。

そんなところにリッキーが隣に越してくる。奇矯な行動に彼女は嫌悪感を隠さないが、リッキーに興味を抱かれて密かにうれしがるシーンはふたつある。これらは、前半常に不機嫌な彼女が口角を上げる数少ないシーンでもある。また、彼と高校で会話し、じっと見つめられるシーンからあと=彼と等身大で接したあとはゴスメイクをやめている。はっきりと自省して自らに疑念を抱くようなシーンはないし、単に異性に好きになってもらえてうれしいということも確かにあって、また家族に問題を抱えているらしいことに共通性を見出して興味をもったということもあるだろうが、いずれにせよアンジェラという「身内」の嫌悪を圧して、目に見えておかしな行動をとる「異常者」、リッキーとの出会いを彼女は拾う。あっさり行われるこの選択は彼女自身に異端者の素地があったことを示していると考えて差し支えないだろう。彼らは歩いて家に帰る。途中、霊柩車とすれ違う。彼らは死と対局にある生(≒性)の世界へとわけ入っていき、部屋で初めてのキスを交わす(早い)。レスターの死を経てふたりで生きていくという未来の暗示と読めなくもない。

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リッキーについては次に扱うが、彼は親や周囲との葛藤を経てすでに処世術を身につけている(はっきり言って過剰適応なのだが)ひとまず大人だ。自分はどうやらまわりと違う感性をもっているらしい。彼はそれを認め、他人とは違うものを見、別のことを考えている。彼の行為が芸術的かどうかは置くとしても、その方向性にあることは確かだろう。ジェーンは彼に出会い、いままでとは違う世界にふれる。違う世界を見せてもらい、それが好きになるというのはまぎれもなく恋のはじまりだ。必然的に、次のステップはお互いをより深く知ることになる。彼女はリッキーと、それまでできなかった問題の共有をする(アンジェラは親父と寝るなどと言っているし、軽薄でもある、正確に言えば軽薄であろうと努めているから話が発展しない)。それは当然家族、特に父親という存在についてとなる。これも当たり前のことだが、悩みを話せる相手ができたということは非常に大きい。ある意味ではそれはひとつの解決だから。『七人の侍』の平八も「話せば楽になるぞ」と言っていた。

身体の問題もリッキーとの出会いによってよい方向に向かう。リッキーはジェーンを部屋に招き入れ、彼自身が最も美しいと信じる、寒空の下でコンクリートの地面を舞い、漂うビニール袋の映像を見せ、涙さえ見せる。好きなものを見せるというのは、端的にそれが好きな自分を呈示することだ(好きな子に曲目を編集したカセットをあげるのと同じ)。ジェーンは彼に自分と似たにおいをかぎとり、彼らは恐るべき親和力で急接近する(ここで初キス)。彼女はリッキーから受け取り、今度は自分をさらけ出す。つまり、自分の身体をだ。二つの窓をはさんで、ジェーンがブラジャーをとり、乳房を露わにしてリッキーに見せるのはなにも挑発しているわけではない(いや、ちょっとはしてるのかもしれない。女性の気持ちはわからんです)。彼女は彼に言外のかたちで好意を示すとともに、自らはその取り扱いに二の足を踏んでいる、女性としての自分を彼に認めてもらおうと跳躍している。ここでジェーンは初めて髪ゴムをとり、長い髪を下ろしている。

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それは女性性の象徴だ(長い髪=女性らしいって旧弊な価値観だなと思われるかもしれないが、骸骨が死を表すとかそういうことになっている類のことです。僕はショートカットが好みだけど、そういう好みの話ではない)。This is my truth, tell me yours.の原理に従って、彼女も真実をひとつ彼に差し出す。対して、リッキーは他の誰もしようとしなかったことを彼女にする。すなわち自分もまた字義どおり素っ裸になって、両親の不和のなかで勝ち気なわりに自信のない女の子(「自分の姿なんて見たくないの」)、裸になってそれを見せてくれたジェーンを留保なしで素晴らしいと褒め、認める。不安定な若者にこれ以上の薬はない。一般論として、若者は叩かれることも経験上欠かせないが、同時に『坊っちゃん』のキヨのように「あなたはすばらしい」と無条件に受け入れてくれる存在をなにより必要としているからだ。そんなふうにして、ひとは自分を愛することを覚え、他人を愛することを学ぶようになる。Love spreads. 「誰かに承認されたい」という点については、ジェーンもアンジェラも一応リッキーも、そして大人たちも同じ立ち位置にいる。

自分とは違う世界だけでなく、自分の裡にありながら自分が見出せていなかったものを発見して、手のひらに乗せて見せてくれるような存在。リッキーが「出会えて本当によかった」と言うように、理想的な恋愛と言ってもいい。彼らは相愛になり、マリファナを吸い、ジェーンは女性としての自分と調和を図ることができるようになる。ジェーンの服装に注目しよう。

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リッキーに裸の姿を見せ、親密になる前後で、「(母親にもつまらないとあざけられる)初日の浅いVネックの子どもっぽいニット、大きめのオーバーとぶかぶかのパンツ。学校でのパーカーとTシャツ、アンジェラと自分の部屋にいるときのTシャツ。リッキーの部屋を初めて訪れるときのこれまた大きめのオーバー」から「裸の胸をさらす」を経て、「リッキーと部屋でいちゃつくときのキャミソール(髪も下ろす)、最終日の胸元がある程度見えるような着こなしのインナーとパーカー」へと相対的に女性らしさを隠さないものへと変化している。彼女は自分の女性性と和解したように見える。逆に、前半では薄着のセットだったジェーンとアンジェラは(Tシャツと上下下着)、最後の破局のシーンでそこまでではなくなっている。

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新しい世界を知るということは、それまでの世界を別様に見るということでもある。学校から帰宅時の車内、ジェーンはアンジェラの下世話な質問にあからさまにうんざりしている様を見せ、言下に「あなたが一方的にしゃべってるだけ」と言い放つ。アンジェラはジェーンにとってもう「自分はこうではない」を確かめるための機能になり下っている。部屋では父親の件について強い口調で釘を刺し、そこに割り込む、家を出る決意をしたリッキーの「(ニューヨークへ)いっしょに来るか?」という問いに「イエス」と答える。アンジェラはまだ子どものあなたたちでは生きていけない(段ボールで暮らすことになる)と「友だち」であるジェーンを引き止めようとする。リッキーは「自分が気持ちよくなるために(自慢するために)利用してるだけだろ」と喝破する。「ジェーン、そいつはキチ○ガイよ!」に対してジェーンは「じゃあ、私もそうよ! 私たちは変人だもの、他の人たちのようにはならない。あなたは完璧でしょうけどね!」ここでジェーンはアンジェラが象徴するメインストリームに明確に背を向け、アウトサイダーであることをはっきりと自認する(行動としても外に出ていこうとする)。近しく、同質的だと思っていた存在が急に空々しく、自分には理解しがたい人間に見える。親しいはずであればあるほど、認知的不協和(「そんなひとだとは思わなかった!」)の度合いは高まるだろう。傷害・殺人事件の大部分は家族内や友人・恋人関係のなかで起こる。ある日唐突に明らかになる、近しい存在どうしの他者性。

一連のコンフリクトは自分、馬が合わない友だちと恋人の板挟みの三角形のなかで男を採るという類型とは異なる(そういう筋の話では選択した主体は往々にして異性に裏切られ、打ちのめされ、友だちの元へ戻ることになる)。正義の観念や、道徳的な価値観が看過できないほど異なる関係はいずれ瓦解するらしいが、ジェーンとアンジェラもこれに似ている。簡単に言えばソウルメイトではないということだ。お互いの趣味を越えた、にわかには解消されがたい他者性が露わになってしまっている(レスターとキャロリンのように)。「リッキーという理解者」によって「アンジェラという他者」という問題も平和的とは言えないにせよ解決する。表面的には合うかもしれないが、それより深い価値観において致命的に異なる友人といつのまにか疎遠になった、あるいは意識的に関係を切ってしまったというのは誰にでもある、ときに避けられない苦い青春の一ページだ。ジェーンが見ている(見せられている)アンジェラも実は自分をひどく偽っているのだから、そこまで掘り下げて話し合えればまた関係は新しい局面を迎えるのかもしれない。しかし、そういった誤解がほどけていくのには、たいていの場合、非常に、長い時間が、かかる。また、他者性を起点に人間関係を構築していけるほど彼らは大人ではない。

ジェーンとリッキーが共謀してレスターを殺害し、映画が牢屋からの回想になる可能性もあったわけだが、そうはならなかった。それで正しい。生き急ぐボーイ・ミーツ・ガールの匂いは終盤色濃くなるが、この映画は、アンファンテリブルものとか『ナチュラルボーン・キラーズ』みたいな話ではない。彼らは反・親であっても、非・親ではない。彼らはそれでも親の存在を希求している。