『ストーナー』(1965)- 1

f:id:kilgoretrout:20160206210236p:plain

あらためて言う必要もないのだろうけど、説明するのに難儀するタイプの小説がある。難儀の仕方にも、筋が入り組んでいて複雑とか、思弁性が高くて長ったらしいだとか、特定の分野に知悉しているのが前提もしくは推奨とかいろいろある(ちなみに最も説明が苦とならないのは思想小説。国威発揚映画と同じ理屈)。『ストーナー』は複雑でもないし、能書きの類もないし、歴史や宗教や哲学や科学や文学や美術や音楽やサブカルチャーに詳しくなくても読める。でも、説明するのが難しい。省略すると意味がなくなってしまうからだ。そういう(名言コレクション集的でなく、全体として捉えるしかないという)意味では非常に小説的だと言えるかもしれない。

すべての小説は三行にまとめられると誰かが言っていたし、この小説もそうすることができる。舞台は1910年〜、アメリカはミズーリ州。生真面目で朴訥な男、ウィリアム・ストーナー。彼は田舎での極貧育ちながら大学教育の機会に恵まれ、偶然の導きによって古典文学にふれ、それに魅入られて農家を継がず、往時半ば当然であった従軍にも背を向けて大学に残り、文学の考究に努める。不如意な夫婦生活と大学での教員生活にも意気を失わず、ままならぬ現実を厳粛に受けとめながら、よりよい教育と仕事の完成に向けて地道に苦闘しつづける。四行ちょっとかかった。本書のあとがきでは九行でまとめられている。その前段で評判について、ヨーロッパでの反響に比して「主人公があまりに忍耐強く受動的で、華やかな成功物語を好むアメリカ人に受けなかった」と説明されている。

これも、この小説を語ることが難しい理由のひとつだ。あらすじで説明する相手を魅了するのが難しい。受けとったものは得がたく重いものなのに、ストーリー自体は凡庸というか、まずもって目を引くでかい出来事がない。殺人犯が世界の中心で愛を叫んだりしないし(1969)、とある男が女と寝た場所に必ずV2ロケットが落ちてくることもないし(1973)、トラルファマドール星人が時空をかき乱したりすることもない(同年)。『ストーナー』は1965年の作品。主人公、ストーナーの青春期前半は1920年代、つまりフィッツジェラルド『グレート・ギャツビィ』と重なることになるが、作中には好況期の面影やジャズ・エイジの浮かれた喧噪の気配など微塵もない。アメリカ的な、活力に満ちて滑稽だがどこか偉大さを帯びていて、なおかつ失敗するようなヒーローが出てこない(この系譜には、新しめのものでは『ガープ』も含められるだろう)。彷徨を象徴とするビート・ジェネレーションはもうすこしまえの流れだが、ストーナーはほとんど家と大学を往復するだけだ。ヒップな逸脱行動もない。彼は戦地に赴くこともなく、ヘミングウェイ的にそこから材がとられるというようなこともない。そう、小説にあってしかるべき、風変わりな「材」がない。一方でミニマルでもない。ミニマルな人生などない。材ではなくひとがある。だから、タイトルにはそのひとの名が冠されることになる。

ここからは説明しづらさというより、受けなかった理由についてだが、アメリカの文学的潮流をすこしひもといて、突き詰めてみる。先の時空をかき乱すトラルファマドール星人というのは、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』のことで、僕はこの作家(というかおじさん)が大好きなのだけど、小説好きがあまり知られていない名前を挙げて得意ぶれるようなマイナーな小説家ではない。アメリカ学園もの映画の解題本、『ハイスクール U.S.A.』によると、大学生にはサリンジャーの『ライ麦』よりも『5』のほうが好まれるそうだ。たしかにヴォネガットの存在感はそもそも大学で育てられた。畑違いで時代も違うが、ミュージシャンのベックも同じだ。新しいものをくもりのない感性で感得し、なおかつ正当に評価できる世代はいつもだいたいそのへんにかたまっているのかもしれない。ヴォネガットはこの大出世作によって破格の成功を収め、一躍、人気作家どころではない大家になった。それは間違いないし、小説も読者がそのような印象をもたざるをえない別格の新しさと傑作感に満ちてはいる。たいした長さではないのに、マスターピースと呼ばれる文物がほとんどそうであるようにこの小説は作者を超えている。ヴォネガットはこの一冊しか読んだことがないという読者は少なくないというか、ほとんどがそうだろう。ただ、彼の人気と彼への支持はこの小説にのみ、その端緒があるわけではない。

2013年に刊行されたヴォネガットの評伝に『人生なんて、そんなものさ』がある(原著は2012年)。原題は『AND SO IT GOES』。So it goes.は『5』で誰かが命を失ったら直後に必ず付される言葉。ふざけと諦めの響きをもつこの「そういうものだ」は作中で何度も何度も繰り返されるうちに、次第にどのようなささいな死も見逃さない鎮魂の色彩を帯びてくる。この本は、ヴォネガットの従軍体験と、混乱した執筆の様相を含む実人生(男のだらしなさ)にくわえて、彼の作品が当時の文学的潮流とどう切り結びながら布置されていったかを明らかにしている。けっこう長いが、読んでよかったと思えるのは『スローターハウス5』の滑稽な主人公、ビリー・ピルグリムのモデル、エドワード・クローン兵卒(ジョー)について知れたことだ。さて、『5』が出版された頃(1973)の文芸シーンの状況はどのようなものだったか。

 だが、カートが若い作家に与えた助言の正当性を裏付けたのは、サム・ロレンスが作品を再販したことで入った大金だけではなかった。文芸作家として認められたかどうか、その試金石のひとつが、作品がアカデミックな研究の対象となることだ。アイオワ大学で、カートは英文学科の教員ロバート・E・スコールズと親しくなった。一九六七年、スコールズは文芸批評の著書『ファビュレーター』のなかで、ヴォネガットの小説に関してかなりのページを割いて論じている。
 ファビュレーターというのは、イソップや中世の寓話作家のように、「制御されたファンタジー」を使って「現実よりも思想や理想に重点を置いた」物語を創造する作家を意味する。このタイプのストーリーテラーは、構造や形式に凝る。たとえば、入れ子構造の物語、脱線、気晴らしなどだ。それは折り紙やキュビズムやシンメトリーに魅せられた視覚芸術家に似ている。この特徴こそ、ファビュレーターがほかの小説家や風刺作家と一線を画す点だ、とスコールズは論じている。例えばカート・ヴォネガットは、ヴォルテールやスウィフトの伝統を受け継ぎ、自分の思想を映し出す世界を創造した。「ヴォネガットの作品は、この世界への愛と、それをさらによいものにしたいという願いを表現している—が、あまり希望を抱いていないことも表現している」。
『ファビュレーター』刊行の数ヶ月前、C・D・B・ブライアンは「ニュー・リパブリック」誌に厳しい調子で書いている。ヴォネガットは「現代のユーモア作家のなかで、最も読みやすく面白い作品を書くにもかかわらず、読者から当然受けるべき評価を受けてこなかった」と。
 かつては、カート・ヴォネガット・ジュニアの新作が出たときいても、誰もが首をすくめていたというのに、いつのまにか読んでいなければ読者も批評家も非難される時代になったのだ。(p. 328, 329.)

スローターハウス5』の出版年は1973年だが、それに先駆けて1967年頃までに「入れ子構造の物語、脱線、気晴らしなど」を特徴とする作品が本格的な批評の遡上にあげられはじめていたということだ。この気運には『5』と同じ戦争不条理小説であるジョゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)が影響しているように推察される。ヴォネガットは『5』で大枚せしめたと思われがちだが、人気や支持の面でも経済的な面でもそれに先んじてすでにある程度は潤っていた。人間のコントロールを越えた外部の力(システムとテクノロジーとメディア)が横溢し、またモダン的自我を確立することの難しくなった時代、もはや正気や理性では現実を捕捉できない(と気づいた)時代ゆえの狂気じみた奇想が日の目を見はじめていた(狂気に精神を圧され、救いを求めてたどりつく軒先のひとつが肉体また性愛で、これは大江健三郎の特徴)。

そうした戦後、フランスの難解で思弁的なヌーヴォー・ロマンよりもむしろ小説世界をたくましく刷新した(というふうに、とあるフランス語の先生が評されていた)アメリカ文学ポストモダン性など『ストーナー』(1965)には皆無だ。派手さもなく、ポストモダン的な時流に与することもなく、この小説は埋もれていったらしい。しかし、その埋もれていったこと自体がメタ的にこの小説の、また主人公ストーナーの特性を表しているのではないか。この小説の徳は総じて、この小説を語ろうとする人間の口を重くさせるところにあるように思う。僕は口が軽いのでいくらか語ってみます。

ストーナー』は、過去に静かに埋もれていくような、ひとりの男の一生を描いた小説だ。それは冒頭で宣言されもする。

 たまさかこの名前に接した学生は、ウィリアム・ストーナーとは何者かと首をかしげるぐらいはするだろうが、その関心があえかな水泡以上の大きさにふくらむことはきわめて希だ。生前からことさら故人に敬意を払っていなかった同僚たちが、今ストーナーを話題にすることはめったにない。年長者にとってその名は、諸人を待ち受ける終わりの日の標であり、若年の者たちにとっては、過去のいかなる感覚も、また、自分自身もしくは自分の履歴と響き合ういかなる美質も呼び起こさぬ、単なる音の連なりに過ぎない。(p. 3, 4.)

我々は自ら望んだものでない、実は他のものと交換可能な「単なる音の連なり」に一生引きずり回され、その取り扱われ方に一喜一憂する(死後のそれもということであれば、それは『不滅』の話になる)。評判の如何は他人の口に与り、それは死んだあとにも続く。ストーナーという名前は、そこで特段の感興を引き起こすことがない。作者のジョン・ウィリアムズは謳われざる者について書くとはじめに明らかにする。本来謳われるべき偉大な人間が、ゆえあってそうなっていないからここで顕彰する、という筋の話にこうした文言があらかじめ用意される傾向があるように思う。「だが、そのような評価は妥当ではない」と落差をつけるために。しかし、この小説は小説であって偉人伝ではない。人生は、金、地位(業績)、名声といったポイントで競うテストではない(と思います)。 ジョン・ウィリアムズはただ無骨な人物の足跡を丁寧に描く。そして正しく、小さな確信を裡に隠しながら小説としての問いを響かせる。「さて、あなたはこの人物をどう思いますか?」

ストーナー」は不滅の名前ではない。この小説、またストーナーへの愛着は、ひとつには「我々のひとり」の感を読むひとに催させるところに発している。無数のままならぬ由なし事に苦悩し、右往左往して力を使い尽くし、運がよければ多少の責任を果たし、いつのまにか年老いて、名前を残すことなく死んでいく。理不尽に期限が切られ、途中下車のように死を迎えることも少なくない。つまらない、なんでもない人生かもしれない。しかし、「つまらない人生だよ」と戯れに口にのぼす当人はたいていそう思ってはいない。我々は里程標のようにわかりやすい成功、失敗よりも、余人からはけして察せられない人生の諸々の、かたちにならない、見えないプロセスの一つひとつをこそ、出さなかった手紙を引き出しにまさぐるように、人知れず思い出して抱きしめる。『ストーナー』はそうしたプロセスに満ち、ストーナーはそれについていくらかの認識と感傷を抱くものの、安易な自己肯定/正当化をしない。職場と家庭という多少なりと親密さを期待してしかるべき場所で、思いもよらぬかたちで問題に巻き込まれ、すでに抜き差しならない地点に追い込まれているのに気づく。それは必ずしも、というよりほとんどの場合、自分のせいではないように思われる。あるいは誰の(当事者たちの)せいでもない。説明しても折り合いなどつくことなく、事態が変わらないことはわかっている。理解は得られず、耐えることしかできず、ままならなさに歯噛みさせられ、立ち尽くす。そうした無力感は人生を通して多かれ少なかれ誰もが経験することだ。読んでいて身につまされ、共感する。しかし、思いどおりにいかない人生に対するストーナーの姿勢はやはり彼独自のものだ。受動的とも評されるとおり、彼はコンフリクトが浮上してもさして積極的に対処をしたり、抗弁したりしない。たとえば、仕事を進めるうえで大学が適している時期は大学を仕事場にする。家が適している時期にはその逆をする。ただ、たいして策を講じないだけで、 けして主体的でないということではない。いくつかの局面でそれははっきりする。

彼が教員として「地味な人気」を博して、ゼミでも選別を行わなければならないほど学内での仕事が軌道に乗ってきたところで、唐突に妙な学生、ウォーカーが教室にやってくる。彼はむやみに的外れな大言壮語を吐き、虚勢を張って教師に敬意を払うどころか挑発して愚弄し、ああいえばこういうの言い訳の繰り返しで己を顧みることがない(こういう学生はいる)。こうした学生の常として肝心のレポートはきちんと書いていない。ストーナーは「怠慢と不実と無知」と指摘する。しかし意外にも彼は、学位の予備口頭試問の場で自らの論文の要諦をよどみなく語る。その内容はまとまっていて「知性のきらめきを感じさせる部分」もある。ゼミでの醜態とはほど遠いその姿に感銘を受けて続きに耳を傾けるうちに、ストーナーはある可能性に思い至る。学生の語り口とそこで語られる言葉は、彼の担当教員であり、ストーナーの同僚であるローマックスのものだ。ウォーカーのアイデアは彼が発案し、練り上げたものではなく、ローマックスが体よく仕込んだコピーということだ。これに先立って、ゼミの場面でウォーカーのほうも無意識に「ローマックスの大ざっぱなものまね」をしていることにストーナーは気づいている。ローマックスは他の教員の質問の際に「(常に謝罪付きで)」口をはさみ、ウォーカーが答えやすいように質問を誘導したり、自ら要点を話しさえする。なぜそれほどまでにローマックスはウォーカーに肩入れするのか。その理由は、作中では示唆さえされておらず、読者が推し量るべきところであるが、障害者として身を同じくするからだ。ストーナーの邸宅を訪れた際に、酔った彼は皮肉屋の性分には珍しく、率直に「異形の身体ゆえに味わった孤独感や、出所が知れず、抗うすべもない羞恥心のことを語っ」ている。「自室で過ごした長い昼と長い夜、ねじれた肉体が課する行動の枠から逃れようと本を読みふけり、少しずつ自由の感覚に目覚め、その自由の本質を理解するに至って感覚はいっそう強大なものとな」った。ストーナーはここで文学をとおした「自己変革の過程」を共有していたことを知り、ローマックスに同族意識を感じる。

ローマックスがそのような「同族意識」をウォーカーに感じていることは、ウォーカーのふるまいに疑義を呈するストーナーに対しての「知識人としての能力が、心的欠陥という酌量すべき見地から判定されるようなことは、あってほしくないと思うね」と、これに続く「きみもたぶん気づいているとおり、彼は体に障害をかかえている」という、斟酌を求める発言からわかる。騒動が終わってから「(…)これはぜひ付言しておきたいが、その学生には不幸な身体上の瑕疵があって、心ある人間なら、同情心をそそられてしかるべきところだろう」とも言っている。

審査の最後に発言権を与えられたストーナーは、英文学の基礎教養についてウォーカーに直截に問いはじめる。ウォーカーはのらりくらりとかわそうとするが、終始しどろもどろでまともに答えられない。ローマックスの助け舟も意に介さず質問を続け、審査後は彼の合格判定も追加履修の折衷案もはねのけ、ストーナーは当然のように不首尾を理由に不合格の判定を下す。その後の懐柔も歯牙にもかけず、判断を変えることがない。ローマックスはウォーカーに自分を見ている。ストーナーを翻意させることが完全に不可能だと悟ってからは、(ストーナーはそんなことをしてはいないのだが)ウォーカーへの人格攻撃は自分への人格攻撃と同じだとばかりに、怒りに燃えてストーナーを非難しはじめる。さらに、ストーナーが実務を求めて断った学科主任の座は不運にもローマックスに渡ることが判明する。ここからローマックスのストーナーに対する容赦のない、執拗な、ほとんど創意に富むとさえいえるような締め付けといやがらせが延々と、最後まで事あるごとに続くことになる。

ローマックスは、自らを救い、自由になるすべと立場、つまりは自分の人生をパッケージしてウォーカーに与えようとする。しかし、そうした過剰な温情は目をくもらせ、判断力を大きく損ない、牽強付会を招く。微妙で難しい、あるいは厳しい問題ではあるが、被害者の特権性と被害者どうしの条理を越えた絆はともすると暴走し、公正さへの感覚を狂わせ、排他性を生じさせる。それは絶対的正当性を盾にできるがために「死神の権利」になりうる。

なにかを手に入れるためには身銭を切って、自分で払わなければならない。ウォーカーはそれを果たしていない。助力が陰ながらの範囲であれば公平さを保てるだろうが、ローマックスのウォーカーへの配慮は明らかにいきすぎているし、なにより正当性と厳正さが求められる学術の場に情状酌量がもちこまれてはならない。当人のためにもならない。傲慢な若者はしかるべき時期に肘鉄を食らわせられなければならない。そこに成長の契機があるからだ。ローマックスは冷笑的ではあるものの、その知的能力は確かで十分理性的なはずだ。悪い人間ではない。にもかかわらず、彼は自身のアキレス腱によって致命的に判断を誤り、それに気づくこともない。ここで彼は悪の域に達している。物語的因果応報は適用されず、現実はこの悪と悪意を帯びてそのまま進行する。我々の知る現実と等しく。このような「どうにもならなさ」の描き方こそこの小説の醍醐味だ。

将来に予想される不遇にも納得ずくで権力者/体制側の傲慢に一撃を食わせ、快哉を叫ぶといったロバート・オルドリッチ式のカタルシスなどもたらされようはずもない。ストーナーはこの一件によって報われることのない学者人生を決定づけられる。職場を移そうにも夫人がてんで相手にしない。立場がなくなり、頼れる者もなく、無気力が襲ってくる。上手くものが考えられず、意識が遠くなっていって、忘我の瞬間が訪れる。ここはやるせないが美しい場面だ。誰しもこのように窓の外を眺めたことがあるのではないだろうか。

冷たい空気で肺を満たしながら、開いた窓のほうへ体を傾ける。冬の夜の静けさが聞こえ、入り組んだ繊細な蜂窩構造の雪に音が吸い込まれるのを感じ取れたような気がした。白銀の上では何も動かない。その死の光景が空中の音を取り込み、冷たく白い柔らかさの中に葬ると同時に、ストーナーを引き寄せ、ストーナーの意識を呼び込もうとしているようだった。自分が外へ外へ、白銀のほうへと引っ張られるのを感じ、視界の果てまで広がるその白銀の野の向こうに、背景として無窮の闇を、高さも深さもない澄み渡った空を思い浮かべた。一瞬、窓目に身じろぎもせず坐る肉体から離脱し、天翔る自分になりきって、すべてのもの—白い平原、木立、高い柱、夜空、はるかな星々—があまりにちっぽけで、あまりに遠く、無の中へ消え入りつつあるその眺めに驚く。(P. 212.)