『アメリカン・ビューティー』 1. 家族崩壊の映画?

『キッ ク・アス』の主人公デイヴ(=ヒーロー、キック・アス)は絶体絶命、万事休すの場面でナレーションを通して自嘲気味に観客にこう尋ねる。Hell dude, you never seen "Sin City"? "Sunset Boulevard"? "American Beauty"?(「ねえ、あんたは『シン・シティ』観てないでしょ。『サンセット大通り』とか『アメリカンビューティー』とか」)。主人公のナレーションつきの回想形式の映画(主人公が過去の出来事をある時点/いまから思い出せている)だからといって主人公が最後まで死なないとはかぎらないよと言いたいわけだ。

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『サンセット大通り』のナレーターは、プールに浮かぶ(まるでギャツビーと晩年のフィッツジェラルドを混ぜたような設定の)B級映画の脚本家の死体=主人公(自分)について、なぜそうした事態に陥ってしまったかを語りはじめる。「欲しかったプールをこんなかたちで手にいれるとはね」開始3分。『アメリカン・ビューティー』に至ってはもっとストレートで、「やあ、私はレスター・バーナム。ここが私の住んでいる界隈。ここが私の家の通り。これが私の生活(人生)」との自己紹介のあとに「いま42歳で一年以内に死ぬ」と自ら死亡宣告をする。開始1分30秒、タイトル表示からわずか30秒。

アメリカン・ビューティー』。映画の大半を占める、殺意をもたらすにまで至る家族のいさかいから「家族の崩壊」という印象が強いし、そう評されてもいる。実際に二つの核家族が壊れていく。その様相を追った群像劇と言ってもいい。しかし、冒頭で印象づけられるのは「何故レスター・バーナムは死ぬことになるのか?」だ。要所で彼のナレーション(ボイスオーバー)が入ることも加えて、あくまでこの映画のメインプロットは主人公レスターの生き様=死に様である。そして、その軸はケヴィン・スペイシー演ずる語り手=主人公レスターという、中年の危機を迎え、人生の空虚をまえにした「男がいかに生を回復する/しようとするか」であるように思われる。その点では実は『ファイト・クラブ』に似ている(ともに1999年製作)。アカデミー賞を穫った映画らしくスクロールバーの長い英語版Wikipediaにも、きっちりと他のキーワードと並んで最後にredemption(救済)の言葉がある。『ショーシャンクの空に』の原題は『The Shawshank Redemption』。『24: Redemption』もある。ゲームだと『Red Dead Redemption』。ボブ・マーリー『Redemption Song』。最近だと『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサがその目的を訊かれてそう答えていた。芸術作品のかなりの部分が救済にまつわるものではある。

かつてTBSラジオ・ウィークエンドシャッフルで宇多丸さんが「『アメリカン・ビューティー』がオスカーをとって、『レヴォリューショナリー・ロード』がとらないのはどうか」という意味のことを述べられていたし、過大評価されている映画と見られることもあるようだが(映画.com)、この映画のもつアメリカ的なものを考慮すればアメリカ(白)人が特にこの映画に思い入れをもってしまうだろうということも理解されうるように思う。そのアメリカ的なるものはレスターが抗ったもの、そして回復したものに通じている。レスター(Lester)、lesser=より少ない・より劣ったを連想させる名前を与えられたこの男は、何を回復したのか。なぜ終盤に二度、”I’m great.”とつぶやくのか。

そもそも家族の崩壊とはなにか。こちら(「グローバル化のもとでの日本家族の変容;日本における「家族の個人化」のゆくえ」)が参考になる。明治維新また大戦以降、家制度や世間体といった旧来の規範を越えて個人としての生き方を通すこと、個人の自由を優先することのハードルが飛躍的に下がった。この個人が自由を通すことで起こる葛藤、難しさと寂しさをいち早く表現したのが夏目漱石だろう。「自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、其の犠牲としてみんな此の淋しみを味わなくてはならないでしょう。」(『こころ』)

家族の個人化については程度の差こそあれ(かなりでかいはずだが)、傾向としてはアメリカも日本と同じだろう。日本の離婚理由の一位は「性格の不一致」だそうで、その理由はかなりバラけている。性格の不一致は『アメリカン・ビューティー』の主要なカップル、レスター夫妻でも同じだがその性格の合わなさはアメリカ特有の、踏み込んで言えばアメリカの歴史/無歴史に根ざすもので、男女がその二つの面をそれぞれ別々に、かなり戯画的に象徴しているように思われる。そのひとつは成功への強迫観念だ。

アメリカン・ビューティー』とは逆に機能不全に陥っている家族が回復する映画に『リトル・ミス・サンシャイン』がある。こちらは、それぞれ敗残者となっている/劇中なってしまう家族のメンバーが子どもの夢を叶えるために奔走するうちに我知らず回復していく/させられていく(こうしたモチーフは大江健三郎に共通するように思う)。この家族のうちの父親が、自己啓発で一山当てようとしている成功願望者だ。彼は食卓で幼い我が子に脅し気味に成功哲学を語るような男で周囲にあきれられているし、尊敬されてもおらず、疎んじられている(この評価は彼の父親=ファンキーなじじいの死体を彼主導で病院から盗み出す、ルール/世間的矩を越える、彼自身が変わる大胆なイベントから変化する)。

リトル・ミス・サンシャイン』はモチーフがミスコンであることもあって、一番主義や世俗的な成功への強迫観念への風刺の色合いが強い。男女が入れ替わっているが、『アメリカン・ビューティー』で成功への強迫観念に支配されている代表として(ちょっとかわいそうなくらい)描かれているのがレスターの奥さんのキャロリンである。レスターが自分の家庭を評する”A commercial, for how normal we are.”(コマーシャルなんだ。いかに僕らが普通かってことを確認するための)を体現している女性。彼女は実績を上げてキャリアを磨こうと必死にがんばってはいるが、その姿を見てウーマン・リブ的よきものを想起するひとはほとんどいないのではないか。

成功への憧憬と成功者への賛美の観念、アメリカン・ドリーム信奉はかの国ではやはり果てしなく強いようだ。ロッキーがあれほど受けたのは、ニューシネマやカウンターカルチャーで自信を失いかけていたアメリカ人を、まさに1976年=建国200年というメモリアル・イヤーに元気づけたからとのこと。ここで陰鬱なニューシネマの時代は終わる(町山智浩『映画の見方がわかる本』第8章)。

厳しい未開の地に産み、殖え、満ちていくためには自らを律し、寸暇を惜しんで勤勉に働き続けなければならない(『プロ倫』の禁欲主義とあわせて「だからハンバーガーなんて粗末なものを食ってるんだ」と大学時代に鉄面皮のO熊先生に教わった。残業を除けばということだろうが、いまもアメリカ人の労働時間は日本と差がない。図録▽労働時間の推移(各国比較))。そして立身出世を果たす。フランクリンの偉人伝に代表される、自分を自らつくる人間=セルフ・メイド・マンと立身出世・成功はステレオタイプとは言え、いまだに有効な物語なのだと思われる(ただし、セルフ・メイド・マン―自伝の御大―フランクリンも後代によって都合良く神話化された存在らしい。ただ、神話化されたということは物語として有効だということでもある。参考:いかにフランクリン像はつくられたか)。「勤勉と成功」を下支えした精神はそのまま『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』(禁欲が資本主義をつくった)ということだが、ここらへんは英米人文系また社会学専攻の方などには耳タコだろう。このテーマは後ほど具体的にまた詳しく扱いたい。

アメリカのもうひとつの面、レスターが代表しているものについては、登場人物を整理して、展開を追いながら考察する。脚本はThe Daily Script、事実関係はIMDbの、それぞれのページに依拠する。