『アメリカン・ビューティー』 5. 第二幕 - 反抗する中年1

二幕めの開始ナレーション(これはリッキーの部屋を訪れるまえだが)は「自分を驚かせるような力がいまだ自らのうちに眠っていることに気づくのは素晴らしいことだ。できると思いながらいつのまにか忘れてしまっていたこと、そんなことが他にないかと考え出す」。レスターはリッキーの部屋を訪れて極上のマリファナを買い、ピンク・フロイドのCDを手にとり、ただ8トラックを買うための(カセット以前の音楽メディア。字幕では訳出されていない)夏のバーガーショップでのバイトや(ここは夏でなければならない)、パーティー、女の子と寝ること(get laid。イメージ的にイチャイチャのほうが近い気もする)だけの日々に思いを馳せる。人生はまだ、前方にすべて開かれていた。ありていに言えば、レスターは青春を取り戻しはじめる。 そして、夕餉の退屈な「エレベーター・ミュージック」でない音楽が劇中にかかりはじめる。恋のときめき、男性性、自由、若々しさ、青春と来れば、レスターの「逆襲=反抗」を彩るBGMはもうロックしかない。手はじめにかかる曲はボブ・ディランの代表曲のひとつ「All Along The Watchtower」。『ウォッチメン』でももちろん使われてる。歌詞を見てみよう。

There must be some way out of here," said the joker to the thief,
There's too much confusion, I can't get no relief.
Businessmen, they drink my wine, plowmen dig my earth,
None of them along the line know what any of it is worth.

「ここから抜け出す道だってあるはずだ」道化師は盗人に言った。
「あまりに混乱しすぎてる。まったく気が休まるひまもない。
 商売人どもが俺のワインを飲み、農夫たちが俺の土地に鍬を刺す。
 がっついてるやつの誰もそれにどんな価値があるか知らないのさ

...So let us not talk falsely now, the hour is getting late."

だから、自分を偽って話すのは終わりにしよう。もう時間も遅くなってきてるじゃないか」

この曲は旧約聖書におけるバビロンの崩壊を題材にしている(検索するとその都度教えてもらえます)。バビロンは虚栄の市の象徴で、映画だと古典の『イントレランス』が直接そのさまを、バベルの塔の崩壊についてはブリューゲルやドレが絵画として描いていて、映画『バベル』の由来もこれ(未鑑賞)。フィッツジェラルドの『バビロン再訪(Babylon Revisited)』は、かつて景気がよく、派手に遊んでいたパリ(=バビロン)に、時を経て不遇を託つアメリカ人男が再訪する話。ホテルのバーテンダーにかつての遊び仲間の所在を尋ねるものの、ことごとく離散してしまっていることが判明する冒頭の、唐突ながら再読すると物悲しい会話が印象的な短編。

ディランの歌詞からは、心ない人間の条理を越えた強欲な収奪と混乱、そこからの脱出、それから自分を偽るのをやめること、その時期にさしかかっていることが連想される。これはそのままレスターの状況にあてはまる。心ないビジネスマンはキャロリンと上司デュプリーに擬せられる。彼らによる抑圧や中年の倦怠から脱出し、自分を取り戻す時期にレスターは来ている。ガレージでマリファナを吸いながらベンチプレスをするシーン。ここでの会話はなかなかすごい。キャロリンの慇懃無礼で嫌味な(怒るとこうなるタイプは少なからずいる。お母さんが子どもを叱るときにフルネームさんづけで呼んだりするあれ)、 「違法な向精神性物質を使用することは、私たちの娘に示すサンプルとして実に適切でしょうね!(I think using illegal psychotropic substances is a very positive example to set for our daughter.)』に対しレスターは、「ああ、冷血な貯め込みキチ○イがなんかしゃべってる(You're one to talk, you bloodless, money-grubbing freak.)」と返す。鬼嫁にとがめられてもなんのその。ここでレスターはキャロリンの圧迫と虚飾から逃れる意志を明確に示す。

家庭の次は仕事、職場での圧政が反抗の対象となる。上司のブラッド・デュプリーにレポートを提出して叛旗をひるがえす。「私の仕事は主として担当しているケツの穴のみなさまへの侮蔑の念を押し隠すこと、また、少なくとも一日に一度男性用トイレでマスをかくことにより、人生というものがそれほど地獄に似ているというわけでもないと夢想すること、などによって構成されております」声に出してレスターのレポートを読み上げるデュプリー「ほう、きみは自分を守ることになんの興味もないわけか」「ブラッド、僕は14年間広告産業の娼婦だったんだ。自分を救う唯一の方法はすべてを焼き払うことさ」とレスターはぶちまける。当然デュプリーはクビを宣告し、その日中に出ていくよう要求する(アメリカでは上が解雇を決めたらその日に追い出すことが可能とのこと)。ここで常に抑圧する側だったデュプリーをレスターが脅しにかかり、立場が完全に逆転する。レスターは会社の不正を並べ立て、それを公表されたくなければ口封じに一年分の給料と社会保障を寄越せと要求する。会社の金を使って幹部らしきクレイグが女遊びをしていることを「取引先や競争相手の出版社はきっと知りたがるだろうなー。言うまでもなくさあ、クレイグのカミさんもね!」要求に対してしぶるデュプリーに、悪のりでセクハラまで捏造し、上乗せして公表するぞと脅す。「Against who?(誰のだよ?)」「Against you!(あんたのだよ笑)」

Man. You are one twisted fuck.
驚いた。あんたは頭のネジのはずれたイカレ野郎だ
Nope. I’m just an ordinary guy with nothing to lose.
いいや。僕は失うものがない、ただの普通の男さ

I’m just an ordinary guy with nothing to lose. 岡本太郎の理想的人間像。レスターは確かにここから爆発していく。ひろゆき2chの言う無敵の人でもあるわけだが。

素敵なキメ台詞を残し、荷物をまとめた小箱を担いでガッツポーズしながら、彼は意気揚々と会社を去る。ここでのすりガラスの向こうの通路からレスターが歩いて現れるシーンは細かいところだが、非常に映画的なシーンだ。雲のかかったブラーな過去から、リアルでクリアな未来へ。

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そして、自分の運転する車のなかで楽しげに熱唱する。「アメリカの女よ、俺に近づかないでくれ」(The Guess Who「American Woman」)。I got more important things to do than spend my time growin' old with you.(おまえといっしょに年食いながら時間を無駄遣いするより大事なことがあんだよ) ここもレスターの心情そのままの選曲だ。

アメリカ映画の女嫌い(ミソジニー)傾向・系譜については、そのサンプルも含めて内田樹『映画の構造分析』の第3章に詳しい(『メジャー・リーグ』がわかりやすい典型)。大胆で説得力があり、興味深い仮説なのでごく微力ながら耳目にさらしたいので引かせていただく。

開拓時代の全史を通じて続いた、恐るべき男女比率の不均衡状態(女不足)のなかで、女を確実に手に入れられた男はごく少数だった(だから娼館は西部劇の定番だ)。「近代アメリカの礎を築いた男性たちのほとんどは、生涯一度も『ステディ・パートナー』を持つことなく、そのDNAを次代に残すことなく、死んでいったということである。」さらに、男たちの従来の単純な価値のものさし(開拓に根本的に寄与したはずの腕力、胆力、直感など)は、女からのまなざし・選択という本来男たちのあずかり知らぬ価値基準(女性は少数であり、だぶついた男たちはそれを浴びざるをえない)によって深く傷つけられた。「そこで人々はある物語を創り出す必要に迫られたのである。...それは次のような物語である。」「女は必ず男の選択を誤って『間違った男』を選ぶ」「それゆえ女は必ず不幸になる」「女のために仲間を裏切るべきではない」「男は男同士でいるのがいちばん幸福だ」。フロンティアの消滅と入れ替わるようにして登場したアメリカ映画文化における女性嫌悪映画群とその傾向は、恨みを抱いて死んでいった男たちへの供養というわけだ。「女に選ばれなかったことへの恨み」はなんとなく現在の日本の(別の意味だが)「女のいない男たち」のあいだで醸成されつつあるような気がしないでもない。

さて、レスターはここで全編を通して初めて運転している。それまで運転を一手にあずかっていたのはキャロリンだ。運転するキャロリンと車とのセットは、劇中最初から最後までことさら頻繁に画面に登場する。それは彼女が働く女であり、キャリアを自分でつくる意志の人間だからだ。車のハンドルは人生を意志的に取り扱う(ハンドルする)装置、人生の主導権に擬せられる。レスターは映画冒頭では、キャロリンの運転する車の後部座席で眠っていた。キャロリンに我慢せず、仕事を放り出し、「失うものがない普通の男」に戻ってやっと彼は人生の主導権を得る。眠っていた人生を「ドライブ」しはじめる。

目上の者が運転する場合、目下の者は後部座席ではなく助手席に座らなければならないなど、車内での位置は人間関係を反映する。注意される新社会人は少なくないだろう。こうした車、また車における位置の変化が人間性、人間関係の変化のメタファーになっている作品にヘミングウェイの短編『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』がある(昔はマコーマー表記だったが、bomberがボンバーなことを考えるとmacomberはマカンバーなのでしょう)。簡単に言えば、狩猟を通して男が決定的に成長する話。良短編。

The Car as Symbol in Hemingway's "The Short Happy Life of Francis Macomber"という短い論文で、著者のJ. F. Peirceというやや大統領っぽい名前の方が、ヘミングウェイ作品における車のメタファー論の嚆矢らしきCarlos Bakerさんの文章にやや噛みつく感じで『マカンバー』の車について書いている。たしかにCarlos Bakerさんの意見は、魂の所有権争いとか、最後は後部シートに座るマーゴットが幕を閉じる指揮的役割を担っているとか書いていていかにも納得しづらい。Peirceさんは、キーの差し込み、点火、レシプロエンジンのリズミックなピストン、エンジンを吹かす(動詞:gun)ことでみなぎる力、引き延ばされたかたち(エイリアンの頭部を想像してください)などの要素(The sticking of the key into the lock, ignition, the rhythmic pumping of the pistons, the surge of power as one “guns” the engine, and its elongated shape)から、男にとって車がセックスと力の象徴であることを明らかにしながらも、『マカンバー』の車が箱のようなかたち(box-bodied)でドアがない(doorless)ことから、それを子宮に見立てている(箱・袋・筒状のものはだいたいそうなのだ)。臆病に車に居座ってそこから卑怯に動物を狙い撃つことは非難され(Not from the car, you fool!)、外に出て戦えと促される。子宮でぬくぬくと守られていないで、へその緒切って恐怖を断ち切って、そこから出て独り立ちしろ。要はイニシエーションということで、J. F. Peirce さんの論文(紀要かな)の骨子はこれだ。狩猟がイニシエーションを担うのはそれこそ原型であるし、それがテーマというのは短編を一読して明らかなのだが(白人ガイドのウィルスンが解説してもくれる)、Peirceさんは道具や言動に性的なイニシアティブとイニシエーションの「椅子取りゲーム」がどう反映されているかを詳らかにしている。

座席の位置について考察するために『マカンバー』を読みなおしていて気づいたのだが、『アメリカン・ビューティー』とこの短編は共通点が実に多い。車内での位置が人生の主導権を暗示する点はすでに述べた。さらに、意気に欠け、妻にほぼ見捨てられ、馬鹿にされている中年の夫が転機を迎える点、抑圧をはねのけ、男性性を獲得(回復)して人生を取り戻す点(イニシエーション)、しかしそのことで却って妻との溝が深まり、夫婦仲が決裂していく点、妻が他の男と関係する点(これは両者で原因と様態が異なるが)、妻が夫の死を願い殺意を抱く点、夫が人生を取り戻した直後に命を失う点、(程度の差は大きいが)妻の殺意と実行=殺害がずれている点、それが成立しても妻が幸福にはならない点などが挙げられる。「殺意と殺害のずれ」と「アメリカの罪」については後に詳述したい。

もうひとつ、『マカンバー』の主人公のフランシス(Francis)という名前がfrank(形容詞として「率直な・腹蔵のない」。またFrancisのニックネーム)を連想させ、実際にフランシスが終始率直な態度で、自らの心情やその変化をほとんど馬鹿みたいに腹蔵なく話す人物であるという命名上の細工にふれておきたい。この象徴的命名はたとえば、映画『スーパー』やゾンビゲーム『デッド・ライジング』に(直情径行の憎めないキャラクター。『スーパー』には名前の言及がある)、そして皮肉なかたちで『アメリカン・ビューティー』にも利用されている(後述)。最近ではケヴィン・スペイシー主演のドラマ『ハウス・オブ・カード』にも使われていて、スペイシーがまさにフランクだ。このフランクは映画の第三の壁を越えて観客に腹蔵なく語りかけてくる。