『アメリカン・ビューティー』 4. 第一幕 - 鍛えゆく男

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レスターのふたつの出会いのうちのひとつめは、娘の同級生・アンジェラへの一目惚れ。もちろん不適切な恋慕、のぼせあがりではある。パートナーがいることはともかく、相手は娘の同級生である。ロリコンである。宮崎駿大林宣彦である(実は彼らは巷間言われるロリコンではないと思われるのだが、これは機会があれば、あるいは誰に頼まれなくても自分で機会をつくって別にキルケゴールの性向との関連で少し扱ってみたい)。アンジェラの名字はHayesで、ナボコフ『ロリータ』のロリータの本名はDolores Haze、もちろん意図的に命名されている。

レスターのロリコン的恋愛には、仕事・生活における手応えのなさから来る自信の失調という『縮みゆく男』的な背景はあるかもしれない(弱い男だから、弱い女しか相手できない)。しかし、それは無垢なる少女(たとえば、猫のジジと会話でき、飛ぶことに不自由のない乙女・キキ@『魔女の宅急便』)に憧れるという日本的?なそれとは違うし、ナボコフ的ニンフェットの媚態の見え隠れ、あわいでの戯れともいささか趣を異にしているように思われる。元ネタにとっただけあってそういう描写も少なくないが、話の筋は全然違う。『ロリータ』の主人公のおっさん、ハンバート・ハンバートはロリータ(ドロレス)の処女性を求めているが、アンジェラはそうは見えないし、レスターはそれを求めているわけではない。レスターの幻想は女の子のエロい肢体を直接的に夢見るもので、年若い童貞がクラスメートの女の子に抱くタイプの扇情的な妄想と大差ない。

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大量のバラの花ビラというわかりやすい性的なイメージ全開だ。彼が生来のいわゆるロリコンである気配はない。奥さんがいて偽装結婚というわけでもないから。若い愛人を男の器量とばかりに囲うタイプでもない。なにせそれを会社で非難しているのだから。レスターのアンジェラへの執心で重要なのはときめきだ。ときめきとはこれから起こることへの胸の高鳴りであり、未知に手放しで期待できる心持ちは若いということだ。レスターがアンジェラに高揚するのは、彼女がいかにも学園クイーン(クイーン・ビー)というキャラで男の欲望を惹起させやすいタイプであり、彼を学生時代のような若い時分に引き戻すからのように思われる。娘のジェーンは「スケベなオタク男子(some horny geek-boy)」と形容している。

若さに加えてもうひとつ。アンジェラのチアリーディングを見て恍惚とする直前のシーン、体育館へと向かう車のなかで彼はキャロリンに「今夜は007があるのに」とこぼしている。ジェームズ・ボンドは颯爽と仕事をこなし、派手に遊び、華麗に女を落とす。彼は男性性の象徴で、レスターはそれを求めているということのわかりやすい暗示になっている(この細工が『Mr. インクレディブル』にも使われていることを、町山智浩が指摘している)。そこまで意図されているかは不明だがここでの台詞、And I'm missing the James Bond marathon on TNT. の missing はダブルミーニングで、ジェームズ・ボンドを見られなくて口惜しい(観たかった)という会話上の意味の他に、ジェームズ・ボンドという男性性をmissing(取り逃している)と読めなくもない。ついでに、marathon(マラソン)について言えば、レスターはのちにジョギングをはじめてもいる。深読みしすぎかもしれませんが、テクスト論的な読みということで。

そう、レスターが失っていたものは男性性だ。まさに中年の危機。娘の部屋のドアのまえで盗み聞きした、アンジェラの「もうすこし筋肉をつければかっこよくなる」という言葉に触発されて彼は身体を鍛えはじめる。男性性に付随して浮上してくるのは身体性だ。先まわりになるが、彼はアンジェラをきっかけにワークアウトをはじめるが、次第にそうした鼓舞の視線に無頓着になっていき、やがて身体性の向上自体を目的としていくように見える。『アメリカン・ビューティー』のメインのヴィジュアル・イメージは深紅の薔薇の海に浮かぶ裸身の乙女であり(american beautyで画像検索してみればわかる)、これはレスターが妄想するファンタジーなわけだが、実はこのファンタジー・シーンは映画の2/5(=一幕め)以降にはまったく、ただの一度も出てこなくなる。二幕め開始すぐにレスターは、広告会社=イメージを取り扱う牙城から抜ける。そもそも、この映画の主たるテーマは様々な場面における「現実とイメージのギャップ」だ。直接描かれてはいないが、レスターの意気消沈の原因のひとつは、イメージの世界に長く馴致せざるをえなかった疲労とストレスだと想像される(某有名広告会社の社員はかなり平均寿命が短いそうだ。就業時間と物理的な激務ということもあるだろうが)。映画冒頭の電話シーンでは、そんな自分を道化として演じている。現実とイメージのギャップを糊塗するさまは、傍から見れば途方もなくキッチュに、滑稽に、そして不憫になりうる。『アメリカンビューティー』での代表選手はキャロリンだ。さらに、家庭も基本は役割演技でこれも不全なのだから(ついでに奥さんもイメージ世界の住人のひとりだ)、自分がわからなくなるまで消耗するのも当然と言えば当然だ。おまけに、精神と身体の調和を図る楽しい治癒的な活動、セックスも失われている。専門家ではないので確言はできないが、彼の無力感は鬱の初期症状のようにも思える。

虚脱した生に現実味を取り戻そうとするときに発想が向かう先はまず首から下だ。首から下の世界は無情に仮借なくリアルで、基本的にファンタジーの入る余地はない(替わりの悦びはナルシシズムとなる)。レスターがアンジェラに魅了されて帰宅したあと、真っ先にするのは真っ裸になっての身体検めだ。青年に差し掛かった村上春樹もこれをしたそう。

たとえば『マトリックス』(これも1999年製作・公開)において、マトリックス世界を打破し、現実世界を取り戻す術は、電「脳」活動であるキーボード操作によるプログラミングではなく、まずもって目に見えて激しい身体活動として表象されなければならない。『2』でも現実世界の一行がたどり着いた先のザイオンではいきなりみんなやたら無駄に踊っている。食料が十分確保されているはずがなく、派手に動くことが危険を招く世界でそんなことをするのは不自然なのに。そりゃ娯楽は他にたいしてないだろうけど。いずれにせよ、『マトリックス』のアクション性には、ハリウッド的ジャンルアクションであることやウォシャウスキー兄弟(姉弟)の趣味、ヴァーチャル世界で繰り広げられる想像力とケレン味あふれる、現実からの写像(これは『マトリックス』以降アクション映画のお約束設定のひとつになってしまったが)といった要素以上の必然性があるように思われる。

身体を鍛えることで、魂の脂肪(ヘミングウェイキリマンジャロの雪』)を削ぎ落す。こうした文脈はさして難しいものではないし、似た筋の話はたくさんあるだろうが(日本の漫画にもあったはず。タイトル失念)、やはり『ファイト・クラブ』に止めを刺す。Where is my mind? → 「うるせえ、てめえの身体を痛めつけろ!」というわけだ。『アメリカン・ビューティー』は「ひとりファイト・クラブ」でもある。同年製作・公開の両者は物語の発端と途中までよく似ている。1999年はアメリカのITバブルの晩年くらいだろうか。バブルとは価値の粉飾であり、まさにイメージが最大限膨らんだ状態だ。そんな世相を反映してか、現実感のない味気ない生活と、それを覆すための身体性の向上、男性性の回復がひとつのテーマになる。両者ともに明確な、その明確さによってほとんど時代遅れの戯画とも感じられるほどの物質文明批判のシーンがある。

ここでのモノはイメージという贅肉だ(『アメリカン・ビューティー』でモノはキャロリンが用意するものだが、詳しくは後で)。ちなみに、別文脈だけど首より上偏重(脳化)はやめて身体を動かしなさいと養老孟司先生も主張してます。『ファイト・クラブ』の「僕」はセックスまでストレートに手が届くが、レスターはそれを手に入れることができない。このくだりも後に譲るが、実はこれがふたつの映画を明確にわけているということは記しておきたい。

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レスターのもうひとつの重要な出会いは、不動産業者のパーティ会場で発生する。相手は、こちらも娘の同級生である(劇中で同級生となる)まわりより二才年長で18歳のリッキー。不動産業者のパーティーで彼らは出会う。外面の社交とビューティフル・ピープルどもにうんざりしてウィスキーをあおるレスターと(ここでのレスターの姿勢が最高↑。酒はカティーサーク)、ギャルソン業を隠れ蓑にしてマリファナ販売の顧客を得ているリッキーはともにアウトサイダーだ。だから会場の外で彼らは語らい、マリファナを吸う。このシーンにて、ケヴィン・スペイシーは素で笑いが止まらなかったそうだ↓。チャウ・シンチーかおまえは。

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雇用したらしき男に勝手な休憩をとがめられても、リッキーはあっさりと「やめます。バイト代はけっこう。ほっといてください」と返す。このあっぱれで奔放な、自由な若者を目撃してレスターは脱帽する。「きみは僕の個人的なヒーローだ」。彼らが何気なく話題にしている映画は『死霊のしたたり』で、おっさんが年若い娘にいけないことをありえない方法で(デュラハン方式)しちゃう内容らしく、内容がかけられているように推察される(未鑑賞。しかし、ここにも頭と身体の分離がある)。そして原題が『Re-animator』=再び活気づけるもの、再び命を吹き込むもの。彼との出会いによって、レスターに自由と若々しさの息吹きが吹き込まれはじめる。

リッキーはレスターに自分が隣人であることを知らせるときに「ロビン・フッド通りに住んで(live)ませんか?(Don't you live on Robin Hood Trail?)」と尋ねる。ロビン・フッドは義賊であり、権力への抵抗の象徴的人物だ。そしてtrailは跡、または追跡を意味する。「ロビン・フッドの跡を追って、権力(金持ち)に反抗して生きる(live)のではないのですか?」優秀なつくり手というのは意味の虜囚なので名づけにこだわるし、このくらいの暗示はしかける。牽強付会だろうが、すくなくともこの映画のつくり手は命名に意識的だ。これは後ほど、だいぶあとで述べる。

キャロリンもこのパーティーで不動産業者のバディとお近づきになる。ここで、わかりやすい立場表現の画がある。

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壇上の高い位置からバディ、キャロリン、レスターと下っていっている。これはそのまま三者の力関係を表しているわけだが、レスターはキャロリンと同じ位置に上がり、キャロリンに熱烈なキスをするという奇矯な行動をとる。このやぶれかぶれっぽい行動も、今後の彼の逆襲の予告のように思われる。