『アメリカン・ビューティー』 10. ジェーン

ジェーンは映画冒頭の導入部で、父親であるレスターから典型的なティーンエイジャーで、angry、insecure、confusedと評されている。怒りに満ちて、不安定で、混乱している。彼女は初登場シーンで豊胸手術についてインターネットで調べ、姿見で自分の胸を確認し(横から膨らみを確かめるところがリアル)、そして母親が正しく指摘するとおりつまらない(not attractive)服を来て車に乗り込む。ここは誤解を生みやすいようだが、豊胸手術をしようと調べているのではなく(かつてはそうしようと画策し、お金を貯めていた。一瞬映る数字のウィンドウは豊胸手術の費用ではなく、電子お小遣い帳)、むしろそれがもう必要なくなったのではないかと考えはじめていると解釈したほうが筋が通る(傍目からは明らかなのだが)。

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後々自分の胸部をビデオカメラで映すリッキーに向かって「胸が(豊胸手術を)待ってくれない(豊胸手術を待たず、もう大きくなってしまった)」と言っている。彼女はディスプレイに映る豊胸手術のBefore、AfterのAfterのほうに期せずしてなってしまっているわけだ。しかし、まだ自分の発育に上手く馴染めていない。だから、明らかに大振りな身体の線がわかりにくいジャケットとパンツを身につける。髪も引っつめにして女性性を抑制している。性徴期にあって、ちょっとした分裂状態にあるわけだから、機嫌がわるいのも当然と言えば当然だ。身体は勝手に大人になっていく。しかし、内面は言うなればbeforeのままで、勝手に大人になるわけではない。ここでも(セルフ)イメージと現実(身体)のギャップが問題になっている。 彼女が、リッキーの父親・フランクの口癖「Structure and discipline!(自己構築と規律/訓練)」が自分にも必要だと言うのも、ただの冗談ではない。

チアリーディングをしている場面、ああした演技を見るときはまるでバーナム夫妻のように親の視点で見てしまうもので(カメラの視点人物がレスターということもある)、「あっ」と気になった向きも多いと思われる。ジェーンは途中で床に置かれた帽子をすこしばかり蹴ってしまっている。何故このショットが採用されているのか。制作者に違うと言われればそれまでだが、テクスト論的に深読みしてみる。

見物当初はジェーンを観にきたということで、画面の中央には彼女が捉えられている(初めにロングショットで横一列に開いたメンバー全体が遠くに映り、アンジェラは中央にいるが顔が見えるほどではない。左右対称は監督のサム・メンデスの嗜好もある)。次に、画面は認識できる大きさのジェーンとアンジェラを中央に映す。それから、メンバーたちが脇に開いていき、アンジェラが中央奥に来て、センターポジション独自の振り付けを披露する。「ジェーン→ジェーン&アンジェラ→アンジェラ」で、レスターの関心が移っていく過程を巧みに表現しているわけだが、このメンバーたちが脇に開いていって、その奥にアンジェラが現れるところは女性の足を開いて隠されていた秘密の花園に接近するメタファーと捉えられるし(官能小説みたいだな)、アンジェラの振り付けは帽子を脱いだりかぶったりするもので、これはもうセックスの暗示というほかない(ここは確実)。レスターは一気に欲情させられ、直後にエロい妄想まで見はじめることになる。帽子は女陰のメタファーだ(産道、子宮含め、袋・筒状のものはなんでもそうなのだ。『北北西に進路をとれ!』と『大脱走』ではトンネルがそうした意味で使われている)。ということで、ジェーンが帽子を蹴る行為は、女性性を否定したい無意識というふうに読みとることもできなくないこともないこともない。

レスターが「(不安定さなどは)全部過ぎ去るものだと言ってやりたいのだが」と言うのは、後々の娘の糾弾に対する「おまえも母さんみたいになりたいのか」という反応を考えれば、女性特有の不安定さを指していると考えられる。ただ、もちろん彼女の不安定さは両親の不和の空気と父親の不甲斐なさにも由来している。父親へ不満は、当初の駄目オヤジっぷりと長らくの自分への無関心から、彼のアンジェラへの劣情へとシフトし、増大する。二幕の最後、リッキーと懇意になって戯れに父親を殺そうと語るシーンでは「アンジェラを近しく思うように、私も大切にしてもらいたい」、「無害に見えるかもしれないが、精神的にはひどいダメージを受けている」、「ロールモデルとしての父親が必要」と吐露している。そのような演出はさして見受けられないが、最初の発言(直訳すると、アンジェラが占めている、彼にとっての重要度の高い位置に自分がいたらいいのに)からは父親が友だちと寝るということ自体への嫌悪感とは別に、父親を盗られることへの怖れが垣間見えなくもない。

もうひとつ、不安定さを後押しすることになるのは友だちのアンジェラだ。実はこの関係は元々十全に機能し、安定していたわけではない。典型的な白人ホワイトカラーの上流気味中産階級の娘、外見もわるくなく、チアリーディング部所属で高校ではクールな(と自認している)立場、同じハビトゥスをもつ、ティーン的ないわゆるガールズ・トークをするには彼女たちは打ってつけの仲だ。しかし、レスターとアンジェラの出会いと、そして特にリッキーの登場でふたりの他者性が明らかになる。

明白なイベント以前にもその兆候はある。意見の別れるところであるかもしれないが、前半の彼女のメイクはゴスっぽい。学校でアンジェラと並んでいるシーンがわかりやすい。

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日本では基本的にアニメや何らかの意味でのコスプレ、また洋服の趣味、ファッションとしてゴスなるものがまとわれているのだと思われるが、アメリカでのゴスはスクール・カーストやメイン・ストリームに対するアンチテーゼ、そうしたものを受け入れられず、背を向けるアウトサイダーであるという意味、アイデンティティを表すサインとなりうる。この、ゴスそのものではないがその雰囲気でアウトサイダー感を醸し出すという演出がなされているキャラとして他に『レイチェルの結婚』の主役のキム(アン・ハサウェイ)が挙げられる。また、親が見に来ていて不愉快とはいえ、チアリーディングを披露するときにもまったく笑顔がなく、演技をする喜びも見えない。それは既成のメインストリームのなかでの特別な存在を目指すアンジェラとは明らかに志向性を異にする。虚勢ながら奔放な女性像を打ち出しているアンジェラとは対照的に、ジェーンは自らの女性性に馴染んでいない。アンジェラの艶話に乗ることもない。

そんなところにリッキーが隣に越してくる。奇矯な行動に彼女は嫌悪感を隠さないが、リッキーに興味を抱かれて密かにうれしがるシーンはふたつある。これらは、前半常に不機嫌な彼女が口角を上げる数少ないシーンでもある。また、彼と高校で会話し、じっと見つめられるシーンからあと=彼と等身大で接したあとはゴスメイクをやめている。はっきりと自省して自らに疑念を抱くようなシーンはないし、単に異性に好きになってもらえてうれしいということも確かにあって、また家族に問題を抱えているらしいことに共通性を見出して興味をもったということもあるだろうが、いずれにせよアンジェラという「身内」の嫌悪を圧して、目に見えておかしな行動をとる「異常者」、リッキーとの出会いを彼女は拾う。あっさり行われるこの選択は彼女自身に異端者の素地があったことを示していると考えて差し支えないだろう。彼らは歩いて家に帰る。途中、霊柩車とすれ違う。彼らは死と対局にある生(≒性)の世界へとわけ入っていき、部屋で初めてのキスを交わす(早い)。レスターの死を経てふたりで生きていくという未来の暗示と読めなくもない。

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リッキーについては次に扱うが、彼は親や周囲との葛藤を経てすでに処世術を身につけている(はっきり言って過剰適応なのだが)ひとまず大人だ。自分はどうやらまわりと違う感性をもっているらしい。彼はそれを認め、他人とは違うものを見、別のことを考えている。彼の行為が芸術的かどうかは置くとしても、その方向性にあることは確かだろう。ジェーンは彼に出会い、いままでとは違う世界にふれる。違う世界を見せてもらい、それが好きになるというのはまぎれもなく恋のはじまりだ。必然的に、次のステップはお互いをより深く知ることになる。彼女はリッキーと、それまでできなかった問題の共有をする(アンジェラは親父と寝るなどと言っているし、軽薄でもある、正確に言えば軽薄であろうと努めているから話が発展しない)。それは当然家族、特に父親という存在についてとなる。これも当たり前のことだが、悩みを話せる相手ができたということは非常に大きい。ある意味ではそれはひとつの解決だから。『七人の侍』の平八も「話せば楽になるぞ」と言っていた。

身体の問題もリッキーとの出会いによってよい方向に向かう。リッキーはジェーンを部屋に招き入れ、彼自身が最も美しいと信じる、寒空の下でコンクリートの地面を舞い、漂うビニール袋の映像を見せ、涙さえ見せる。好きなものを見せるというのは、端的にそれが好きな自分を呈示することだ(好きな子に曲目を編集したカセットをあげるのと同じ)。ジェーンは彼に自分と似たにおいをかぎとり、彼らは恐るべき親和力で急接近する(ここで初キス)。彼女はリッキーから受け取り、今度は自分をさらけ出す。つまり、自分の身体をだ。二つの窓をはさんで、ジェーンがブラジャーをとり、乳房を露わにしてリッキーに見せるのはなにも挑発しているわけではない(いや、ちょっとはしてるのかもしれない。女性の気持ちはわからんです)。彼女は彼に言外のかたちで好意を示すとともに、自らはその取り扱いに二の足を踏んでいる、女性としての自分を彼に認めてもらおうと跳躍している。ここでジェーンは初めて髪ゴムをとり、長い髪を下ろしている。

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それは女性性の象徴だ(長い髪=女性らしいって旧弊な価値観だなと思われるかもしれないが、骸骨が死を表すとかそういうことになっている類のことです。僕はショートカットが好みだけど、そういう好みの話ではない)。This is my truth, tell me yours.の原理に従って、彼女も真実をひとつ彼に差し出す。対して、リッキーは他の誰もしようとしなかったことを彼女にする。すなわち自分もまた字義どおり素っ裸になって、両親の不和のなかで勝ち気なわりに自信のない女の子(「自分の姿なんて見たくないの」)、裸になってそれを見せてくれたジェーンを留保なしで素晴らしいと褒め、認める。不安定な若者にこれ以上の薬はない。一般論として、若者は叩かれることも経験上欠かせないが、同時に『坊っちゃん』のキヨのように「あなたはすばらしい」と無条件に受け入れてくれる存在をなにより必要としているからだ。そんなふうにして、ひとは自分を愛することを覚え、他人を愛することを学ぶようになる。Love spreads. 「誰かに承認されたい」という点については、ジェーンもアンジェラも一応リッキーも、そして大人たちも同じ立ち位置にいる。

自分とは違う世界だけでなく、自分の裡にありながら自分が見出せていなかったものを発見して、手のひらに乗せて見せてくれるような存在。リッキーが「出会えて本当によかった」と言うように、理想的な恋愛と言ってもいい。彼らは相愛になり、マリファナを吸い、ジェーンは女性としての自分と調和を図ることができるようになる。ジェーンの服装に注目しよう。

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リッキーに裸の姿を見せ、親密になる前後で、「(母親にもつまらないとあざけられる)初日の浅いVネックの子どもっぽいニット、大きめのオーバーとぶかぶかのパンツ。学校でのパーカーとTシャツ、アンジェラと自分の部屋にいるときのTシャツ。リッキーの部屋を初めて訪れるときのこれまた大きめのオーバー」から「裸の胸をさらす」を経て、「リッキーと部屋でいちゃつくときのキャミソール(髪も下ろす)、最終日の胸元がある程度見えるような着こなしのインナーとパーカー」へと相対的に女性らしさを隠さないものへと変化している。彼女は自分の女性性と和解したように見える。逆に、前半では薄着のセットだったジェーンとアンジェラは(Tシャツと上下下着)、最後の破局のシーンでそこまでではなくなっている。

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新しい世界を知るということは、それまでの世界を別様に見るということでもある。学校から帰宅時の車内、ジェーンはアンジェラの下世話な質問にあからさまにうんざりしている様を見せ、言下に「あなたが一方的にしゃべってるだけ」と言い放つ。アンジェラはジェーンにとってもう「自分はこうではない」を確かめるための機能になり下っている。部屋では父親の件について強い口調で釘を刺し、そこに割り込む、家を出る決意をしたリッキーの「(ニューヨークへ)いっしょに来るか?」という問いに「イエス」と答える。アンジェラはまだ子どものあなたたちでは生きていけない(段ボールで暮らすことになる)と「友だち」であるジェーンを引き止めようとする。リッキーは「自分が気持ちよくなるために(自慢するために)利用してるだけだろ」と喝破する。「ジェーン、そいつはキチ○ガイよ!」に対してジェーンは「じゃあ、私もそうよ! 私たちは変人だもの、他の人たちのようにはならない。あなたは完璧でしょうけどね!」ここでジェーンはアンジェラが象徴するメインストリームに明確に背を向け、アウトサイダーであることをはっきりと自認する(行動としても外に出ていこうとする)。近しく、同質的だと思っていた存在が急に空々しく、自分には理解しがたい人間に見える。親しいはずであればあるほど、認知的不協和(「そんなひとだとは思わなかった!」)の度合いは高まるだろう。傷害・殺人事件の大部分は家族内や友人・恋人関係のなかで起こる。ある日唐突に明らかになる、近しい存在どうしの他者性。

一連のコンフリクトは自分、馬が合わない友だちと恋人の板挟みの三角形のなかで男を採るという類型とは異なる(そういう筋の話では選択した主体は往々にして異性に裏切られ、打ちのめされ、友だちの元へ戻ることになる)。正義の観念や、道徳的な価値観が看過できないほど異なる関係はいずれ瓦解するらしいが、ジェーンとアンジェラもこれに似ている。簡単に言えばソウルメイトではないということだ。お互いの趣味を越えた、にわかには解消されがたい他者性が露わになってしまっている(レスターとキャロリンのように)。「リッキーという理解者」によって「アンジェラという他者」という問題も平和的とは言えないにせよ解決する。表面的には合うかもしれないが、それより深い価値観において致命的に異なる友人といつのまにか疎遠になった、あるいは意識的に関係を切ってしまったというのは誰にでもある、ときに避けられない苦い青春の一ページだ。ジェーンが見ている(見せられている)アンジェラも実は自分をひどく偽っているのだから、そこまで掘り下げて話し合えればまた関係は新しい局面を迎えるのかもしれない。しかし、そういった誤解がほどけていくのには、たいていの場合、非常に、長い時間が、かかる。また、他者性を起点に人間関係を構築していけるほど彼らは大人ではない。

ジェーンとリッキーが共謀してレスターを殺害し、映画が牢屋からの回想になる可能性もあったわけだが、そうはならなかった。それで正しい。生き急ぐボーイ・ミーツ・ガールの匂いは終盤色濃くなるが、この映画は、アンファンテリブルものとか『ナチュラルボーン・キラーズ』みたいな話ではない。彼らは反・親であっても、非・親ではない。彼らはそれでも親の存在を希求している。

『アメリカン・ビューティー』 9. 第三幕 - 今日は残りの人生の最初の日で最後の日

レスター・バーナム氏の最後の一日のBGMはロックそのもののような一曲、The WhoのThe Seeker(「誰」というバンドの「探索者」という曲)ではじまる。

They call me The Seeker 人は俺をザ・シーカー(探索者)と呼ぶ
I've been searching low and high あらゆるところを探し続けてきた
I won't get to get what I'm after 探し物にたどり着くことはないだろう
Till the day I die 俺が死ぬその日まで

 例によってレスターの状況を表している。ただ、絶望的なザ・シーカー(探索者)であるレスターは「俺が死ぬ日」に「探し物」にたどり着く。これは最後に書きたい。ナレーションは「『今日は残りの人生の最初の日』ってポスターを覚えてるかい? まあね、それはすべての日にあてはまる。ある一日だけ別にして。それは死ぬ日だ。(Remember those posters that said, "Today is the first day of the rest of your life?" Well, that's true of every day except one. The day you die. )」Today is the first day...のフレーズは、リチャード・『かもめのジョナサン』・バックの『イリュージョン』にも登場する。ここからいろんなところに引かれるようになったと推察する。長いあいだネイティブ・アメリカン箴言かなんかと思っていたのだけど、ちょっと気になって検索してみた。リチャード・デートリッヒという名字が俳優っぽいアメリカの慈善家がつくったとのことで、この人物もその事業も暗黒的に興味深そうなのだけど、長くなるので割愛。

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レスターはもうジョギングしても息があがらない。ワークアウトに馴染み、バーガー・ショップのアルバイトも板に付いている。二幕からそれなりに時間が経過したことがうかがえる。ただ、家庭での不和は相変わらず。娘のジェーンからは、アンジェラを酔っぱらったみたいにずっと見てるから家に呼べなかったと糾弾される。

この日、キャロリンは薔薇、アメリカン・ビューティーと同じ深紅の、気合いの入った衣装でめかしこんで朝から出かけている。見せる相手は不動産の王、バディ・ケイン。逢瀬のあと「運動」しておなかがすいたと彼女が車を向かわせるのはレスターがパティを焼いているハンバーガー・ショップ。そこで夫と妻+間男が偶然、鉢合わせするコメディとなるわけだが、この展開はハプニングのおもしろさだけで成立しているシーンというわけでもないような気がする。『アイアンマン』で、超弩級の大金持ち、兵器開発会社社長にして天才かつハスラーたるトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)が、絶体絶命の敵地から艱難辛苦の末に脱出して真っ先に、他の何事をも差し置いて所望するのはチーズバーガーだ(I want an American cheeseburger...Cheeseburger first!)。

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ポール・オースター『偶然の音楽』で、宝くじで大金持ちになったどこか幼児的な、文化資本については心許ない成金ふたりが、ご馳走を期待していた主人公たちに豪邸で振る舞うのは皿に置かれたハンバーガーだ。M・ナイト・シャマラン『サイン』でグラハム(メル・ギブソン)が最後の晩餐に選ぶのはベーコン・チーズバーガーだ。『パルプ・フィクション』でせっかくヨーロッパで見聞してきたのに、ヴィンセント・ベガ(ジョン・トラボルタ)が詳しく語るのも結局チーズ・バーガーだ。夫婦それぞれにイメージを捨て、似非貴族のお高くとまった食卓を捨て、ともに本性を現したあとで腹が減ったとレスターとキャロリンがそれぞれに吸い込まれるように向かってしまうのは、どうしたって元も子もない、即物的な、まるで食欲と等価交換であるようなアメリカン・ハンバーガーなのだ。

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レスターは、ばつのわるそうなふたりのまえで堂々と振る舞う。「スマイリー・ソースはいかがですか?」という、事務的であるがゆえに高い破壊力をもつ問い(残酷な会話形式は1. 事務的、2. 答えられない質問)にキャロリンは「やめて」と言う。レスターは「もうあれこれ僕に指図することはないんだよ。二度とね」と宣告し、ハンバーガーを差し出す。これが夫婦の最後の会話でとなる。不倫が明白かつ現在形式で夫に露見してしまったキャロリンは、モーテルの駐車場でバディとの不倫関係を解消する。人生を過って、行き場を失った彼女は車中で泣きながら絶叫する。絶叫はFreeの「All Right Now」と重なり、全然オールライトじゃないままに映画は佳境に入っていく。

クライマックスにふさわしく、ここから一気に複数の潜在的なコンフリクト(葛藤/衝突/対立)の導火線が燃え尽きて、爆発していく。数え方にもよるが、「レスターとキャロリン」、「ジェーンとアンジェラ」、「リッキーとフランク」、そして、「フランク自身」の四つ。

「レスターとジェーン」のさらなる悲劇的顛末、要は娘による父親の殺害は可能性としてはあったものの、結局オミットされたらしい。脚本の他のヴァージョンでは、冒頭のジェーン「(お父さんを)殺してくれる?」がリッキーとともに実行されるという展開だったとのこと。その名残り(と観客の関心を誘うためのフック)としてアバンタイトルで父親殺害を匂わせるシーンが使われているのだと思われる。採用バージョンでは、レスターとジェーンの対立は、ジェーンが不満をくすぶらせ続け、最終日の朝にせいぜい「鼻の下を伸ばさないで!」と糾弾する程度にとどまっている。「レスターとキャロリン」については粗方語ったが、レスターをメインに再度後段で取り上げる。以降しばらくは、他のメンバーを注視してみる(Look closer.)。

『アメリカン・ビューティー』 8. アメリカ的成功主義の裏にあるもの

アメリカン・ビューティー』の20年まえに夫婦の不和と離婚を社会問題として取り扱った映画に『クレイマー・クレイマー』(1979)がある。その序盤、主人公テッド(ダスティン・ホフマン)は夜遅く帰宅したというのにすぐに会社に電話をかける。それがつながるあいだ、受話器を耳に当てたままの彼が妻のジョアンナ(メリル・ストリープ)にこともなげに発する言葉は「経理のジャックを知ってるよね、あいつ自殺したよ」だ。

ここで険しい顔のジョアンナはさらに肩を怒らせ、家を出ることに戸惑いを覚えずともすむようになり、心を決めて、困難だったはずの「別れましょう」を告げる。ついでながら、両映画の共通点としてひとつ見逃せないのは「イメージの人生に変更を余儀なくされた男がメシをつくるようになる」というところだ。ダスティン・ホフマンのフレンチトーストづくりの上達は『クレイマー』の話になると必ず言及される。

アメリカン・ビューティー』のこちらも序盤で、納得しがたい人員整理に苦悩し、評価レポートを書くことをしぶって「ファシストの発想だ」と憤るレスターに、キャロリンは「選択の余地はないわ。それ書いてちょうだい...失業したくはないでしょう」と答える。「じゃあ、魂を売ってサタンのために働こう。それだと悩まずにすむからね」に対しては「もうちょっとドラマチックにお願いできないかしらん」と軽口で返す。そこには他者(レスター、解雇されるだろう人たち)に対する歩み寄りの姿勢や、共感、注意力、また想像力というものがない(出世のために弱者を切り捨てることを選択するホラー映画『スペル』も必然的にこれがモチーフになっている。そして、この映画の元になったという監督サム・ライミの原体験もまったく同じ文脈にある。詳しくは、町山智浩のアメリカ映画特電第83回。24分あたりから)。だってそんなものは、仕事に邁進し、金を稼ぐうえでは邪魔になる感情だし、時間の無駄以外のなにものでもないからだ。効率が下がるし、金にならないからだ。等価交換のステージに感傷など存在してはならない。感情過多では仕事にならないのは確かであるにせよ、端的に言ってこれは人心荒廃というべきものだろう。

レスターは一幕まで諾々とキャロリンの望みに付き従っている。口答えもしないし、気乗りのしないチアリーディング見物にも不動産業者のパーティーにも随伴している。内心でキャロリンをよく観察している。関係を諦める間際には「こんな生活でいいのか?」と問いかける。「きみを助けたいだけなんだ」しかし、この映画中、キャロリンが譲歩する場面、悩めるレスターの話を聞き、共感しよう、手を差し伸べようとする場面はただの一度もない。自分の悪手に懊悩するばかり。「僕はまるで僕が存在していないみたいに扱われることにうんざりしてるし疲れたんだよ」とレスターは気色ばんでもらすことになる。「きみたちがいつ何をしようが僕は文句を言わない。だから、僕が望むのはそれと同じようにcourtesyに(親切・好意的に)になってほしいということだけ…」愛が抱けないのはしようがない。しかし、親切心は別で、これは関係を保つうえでしばしば愛よりも重要になる。ヴォネガットの言うように「愛は負けても、親切は勝つ」もちろんキャロリンはレスターの望みに耳を傾けることなどなく、却ってわめき散らす。彼女が夫に憐れみの情を表すのは自分の浮気が派手にバレたときの一瞬と、レスターの死が判明したときだけ。

シーンとしては先取りになるが、終盤、彼女は車内で自己啓発の音声「『私は犠牲者になることを拒否する』。これがあなたのマントラになり、頭のなかに繰り返し思い浮かび…("I refuse to be a victim." When this becomes your mantra, constantly running through your head--)」に従い、「I refuse to be a victim.」をまるで仏教の題目のように繰り返す。そもそも、この文言からして宗教がかっている(victim, mantra, through your head)し、声音もそうだ(そのように製作者につくられている)。そう、それは程度の低い宗教なのだ(山上の垂訓とは違うから)。

不動産の王、バディ・ケインとの「不動産ビジネスを教えてもらう」名目のランチのシーン。バディは離婚するだろうことをキャロリンに告げる。「彼女によると、僕は仕事に集中しすぎらしい。成功に向かってひた走ることを、まるで人物的瑕疵みたいに言うんだ。僕の成功が、不自由しない生活を成り立たせてるって彼女は知ってたはずなのにね」いかにも軽薄なキャリア野郎の言い草だ。そして、「僕をちょっとおかしいと思うかもしれない。しかし、成功しようとする者は始終(心のなかに)成功のイメージを描いておかなくてはならない(Well, call me crazy, but it is my philosophy that in order to be successful, one must project an image of success, at all times.)」。これ自体はほとんど陳腐なクリシェのはずなだが、キャロリンはその薫陶に感極まって彼に熱い視線を注ぐ。脚本にはこう書かれている。「キャロリンはメニューを機械的に持ち上げながら、まるでキリストと対面を果たしたばかりの熱狂的なクリスチャンのようにうっとりと彼を見つめ続ける (Carolyn picks hers up mechanically, but continues to stare at him, enraptured, like a fervent Christian who's just come face to face with Jesus. )」そしてこの教化のすぐあと、キャロリンは教祖(グル)であるバディとセックスして、自己を開放する。こりゃカルトの行動原理だよ。

キャロリンがいかに安手の自己啓発の類に毒されているかは娘を叱るシーンからもよくわかる。彼女はとんでもない両親の喧嘩を娘が目撃したことを意外にも「よかったわ」と悲壮な表情ながら告げる。「いちばん重要な教訓(lesson)を学ぶにはいい年ごろだわ。自分自身以外は頼ることができないってことよ」ここでの無理矢理なポジティブ・シンキングと、なんでも教訓に結びつけるところ、その口ぶりなどは、滑稽ながらもうほとんど痛ましい。それは自己啓発そのもののロジックとナラティブだ。「自分以外頼れない」が自分の苦境を言い表してしまっているのも拍車をかける。誰にも頼れない=「自己責任・自助努力(self help)」はアメリカの保守的な自由主義イデオロギーの代表的スローガンでもある。それは母親が娘に言い聞かせるべきことなのだろうか。

「私は犠牲者にはなることを拒否する」は、キャロリンに呪いの言葉として作用する。犠牲者には、足を引っ張る何かの、誰かのというふうに対象が要る。キャロリンはそれを自分にあてはめているから、対象は当然自分の人生を混ぜっ返す、我慢ならないレスターだ。不倫もバレたし、離婚となれば不利になる。彼女は最も強い意味で彼をrefuseしようとする(「極端な偏見で抹殺!」)。

victimはそれが自己啓発に使われているとすれば、勝ち組に対する負けた側、勝ち組を支えることになる犠牲者=負け組とも捉えられる。「負け組のほうになってはならない」と。『リトル・ミス・サンシャイン』の父親も同じことを(小さな娘にさえ)繰り返す。それは職業倫理とはなんの関係もない。彼らはビジネスの論理を生活と接続し、一体化させる(こういうひとが日本にもけっこう増えてきた。共通するのは、その清潔さと押しの強さとうさんくささ)。ビジネスは等価交換の原理で動くが、生活はそうではない。愛とはほとんど取り引きでないこと自体を意味する。それは先んじて価値が了解されている等価交換では捕捉されない。価値を量りえない(invaluable)からこそ「人は愛するものについて常に語り損なう」のだ。彼らには実質的に生(性)活がない。だから、レスターはこれは生活じゃないと叫ぶ。彼らには「形而上学ではなく生活」(ドストエフスキー罪と罰』)の生活がない。彼らこそ負け組であり、過剰な成功主義、勝ち組思想の犠牲者なのではないか。ある意味ではレスター以上に憐れだ。話が逆に向かう『リトル・ミス・サンシャイン』のほうでは「本当の勝ち(幸せ)とは何か」に対する答えのひとつが最後に提示されている。このテーマのクラシック、『素晴らしき哉、人生!』にもそれは通じている。

もちろん、たとえば渡邊芳之@ynabe39先生のおっしゃるとおり、金があればたいていのことは解決するのだが、金があれば幸せとはかぎらないというのも真理というか、データとして確かにあるようだ(とあるGIGAZINEの記事。プリンストン大学調べとのこと)。ヴォネガットは『タイムクエイク』で、ウィリアム・『ソフィーの選択』・スタイロンと「どのくらいの割合の人が生きがいのある人生を送っているか」について相談して17%と答えを出している。彼の知り合いの精神科医もそれに首肯する。

ここまで拡大解釈と括弧の使いすぎのそしりは免れないが、この映画、またある種のアメリカ映画の背景の説明としては大筋間違ってはいないだろう。キャロリンが象徴するのは拝金主義、消費的メンタリティーと強迫神経症的成功イデオロギーであり、アメリカの暗黒面だと言える。後者について、キャロリンをそのミニチュアとするなら、実存レベルの大ボスがダニエル・プレインビュー(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公。2007年公開。1999年から2007年までのぶんの経済潮流への懸念の拡大と見ることもできる。兆候から現実へ)。パセティックな還元的物言いになるが、彼らは心を失っている。そして、ふたつの映画の結末はともに「いずれ血に染まる(There will be blood)」それは聖書の言葉であり、アメリカの罪を表す。アメリカで金融犯罪をテーマにした映画がこれほどつくられるのはサブプライム問題という実際の問題もあるが、そうした事件を起こす潮流がもはや単なる社会問題の域を越えて根本的な国家的倫理の問題として問われているからではないか。

二幕はこれで終わり。レスターとキャロリン以外のキャラクターの行動も気になるが、これはレスターの最期を読み解くまえにまとめることにする。この映画でレスターの広告業界勤務が雰囲気で設定されているのではないことについてはすでに考察したが、キャロリンが個人ながら不動産業者であることも暗示的だ。この映画の数年後、サブプライム低所得者層向け)住宅ローン問題(2006〜)が表面化した。成功者と呼ばれるひとたちが、金を儲けることを目的化させ、ついにはゲームにして、世界からいかに不正に巻き上げてしかも処罰されなかったかについてはドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ』に詳しいので観られたし。フィクションなら金融危機前夜と証券売り抜けを描いた『マージン・コール』。レスター=ケヴィン・スペイシーも出ている(彼は「組織、上司と部下、解雇、成功と敗北、社会正義」がキーワードになるような映画への出演が異様に多い。『摩天楼を夢観て』が発端と思われる。スペイシー=宇宙的な、のわりに地上的で現実的)。少なくとも『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』で興奮した向きはフェアネスの点で観ておいたほうがよいように思われる。中年の危機ものからもうあとふたつ引用しておこう。誰が善で、誰が悪か、もはやわからない世界であるとはいえ。

「でもね、有紀子、これだけははっきり言える。絶対損をしない株なんてどこの世界にもないんだよ。もし絶対に損をしない株があるとしたら、それは不正な株取引の株だ。僕の父親は定年退職するまで四十年近く証券会社でサラリーマンをしていた。朝から晩まで本当によく働いた。でもうちの父親があとに残したものと言えば、ちっぽけな持ち家ひとつだった。きっと生まれつき要領が悪かったんだろう。うちの母親は毎晩家計簿をにらんでは、百円二百円の収支が合わないと言って頭を抱えていた。わかるかい、僕はそういう家で育ったんだ。君はとりあえず八百万くらいしか動かせなかったけどと言う。でもね有紀子、これは本物の金なんだよ。モノポリー・ゲームで使う紙のお札じゃないんだ。普通の人間はね、満員電車に揺られて毎日会社に行って、出来るかぎりの残業をしてあくせくと一年間働いたって、八百万を稼ぐのはむずかしいんだ。僕だって八年間そういう生活を続けていた。でももちろん八百万なんていう年収は取れなかった。八年間働いたあとでも、そんな年収は夢のまた夢だった。君にはそれがどういう生活なのかきっとわからないだろうね」
村上春樹国境の南、太陽の西

「ケツの穴野郎どもが、世界じゅうを動かしてやがるんだ」
ポール・オースター『偶然の音楽』

『アメリカン・ビューティー』 7. 恐怖と消費とわたし

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『ボーリング・フォー・コロンバイン』のなかで、間違いだらけの「正しい大人」たちは、高校銃撃事件の原因としてショック・ロッカーのマリリン・マンソンを激しく集中的に糾弾する。しかし逆に、彼だけが実のあることを言っている。いわく「テレビを見る、ニュースを見る、あんたは恐怖でいっぱいになる、洪水だ、エイズだ、殺人だ、カット、コマーシャルへ、ホンダ車を買え、歯磨き粉を買え、息が臭いと誰からも話しかけられないぞ、ニキビがあると女の子がヤラしてくれねえぞ、ただただこの恐怖のキャンペーンなんだ、そして消費、みんなに脅しをかけろ、そうすりゃやつらは買う、これにすべて乗っかってるんだと俺は思うね(you're watching television, you're watching the news, you're being pumped full of fear, there's floods, there's AIDS, there's murder, cut to commercial, buy the Acura, buy the Colgate, if you have bad breath they're not going to talk to you, if you have pimples, the girl's not going to fuck you, and it's just this campaign of fear, and consumption, and that's what I think it's all based on, the whole idea of 'keep everyone afraid, and they'll consume.)」「コロンバインの学生や住民に会ったとしたら何を言う?」と訊かれた彼は「何も。ただ彼らの話を聞く」とも答えている。

背景を示したほうがわかりがいいように思われるのでちょっとまとめよう。20世紀の消費社会の流れはこうだ。大量生産・大量消費は20世紀序盤、フォーディズムで可能になった。職人が一台を取り巻いて組み立てるのではなく、流れ作業・適材適所の人員配置で量産する。そのようにしてできたT型フォードはバカ売れする。しかし、急に売れなくなる。GMは色彩とデザイン、つまりは見た目を重視してフォードを負かした。内実よりもデザインが重要なのだ。いまでもデザインは最重要課題だ。MacBookは初めにフォルムを決め、次いで中身を詰めていってつくっていたらしい。初期型の排熱で太ももを火傷しそうになったことがある。ここではデザインが機能性を圧している。他にたとえば、ウォークマンの時代まではツマミ、ボタン、スイッチ、予備の電池入れなど機能の足し算がそのまま外装の突起に表れ、電化製品はごちゃごちゃとしていた。それが工業製品というものだった。Appleはこれをほぼすべて排除した。ハイモダンな建築を見ればわかる。都内だと有楽町・銀座の伝統的と言われるもの以外の、やたら高い薄めの羊羹のようなつるっとしたビル。それは地上に鎮座するiMacのようだ。Appleは工業製品にモダン建築の無駄を削ぎ落したシンプルさを実現させ、普及させた。多くがそれに追随した。そして、彼らを背後に追いやった(Leave Them All Behind)。以下の画像がすべてを物語っている(こちらから引用)。

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そして、バージョンアップ、何年製という型の概念。古いものはダサく、恥ずかしいものだというモード(ロラン・バルト)とイメージの流れが形成される。百聞は一見にしかずの要領で見た目を知らせることに加えて、新しくなりましたとか新製品ですとかイケてます、と言ってまわる必要が強まり、広告業が伸びに伸びた。なにより大事なのはイメージだ。日産サニーの「となりの車が小さく見えます」(1970)という下品なキャッチコピーのCMには、まだ製品とイメージのあいだにつながりがあった。しかし、DoCoMoの白犬のCMは「楽しい家庭」こそ強調されるが、製品についての情報はまったくと言っていいほどわからない。AppleのCMでは、どこかわからない白地の背景に様々な人種の人たちが入り乱れ、イケてるグローバルなイメージが醸し出される。ユニクロも似たようなものだ。時代遅れの恐怖、イメージ、イケてるかそうでないかでひとは新しいものに手を出す。iPhoneはその究極形だ。バージョンアップしても形状はほとんど変わらない。中身の変化もたいしてよくわからない。しかし、人々はバージョンが新しいという理由で買うのだ(というのもメディア論で逆に批判される「大衆愚妹論」であって「いや、ちゃんと調べてるし」という向きも多いだろうが、大筋そうだということですみません)。画、見た目は変わらないのにしっかりと違うものとして想起される。これこそが(見た目という意味ではない、純粋な想念としての)真のイメージの技法だ。

残るは差異化の原理に基づく記号の消費(ボードリヤール)。売り手は微小な差異によって潜在的買い手の欲望を惹起し、消費者はそこにアイデンティティを見出す(ように幻想する)。

...そのレストランには実に八種類ものハンバーグ・ステーキがありました。テキサス風とか、カリフォルニア風とか、ハワイ風とか、日本風とか、そういった感じです。テキサス風というのはとても大きいんです。それだけのことです。ハワイ風にはパイナップルがあしらってあります。カリフォルニア風というのは……忘れました。日本風には大根おろしがついています。店は洒落たつくりで、ウェイトレスはみんな可愛く、とても短いスカートをはいています。
 しかし僕はなにもレストランの内装を研究したり、ウェイトレスの下着を眺めたりするためにそこに行ったわけではありません。僕はただハンバーグ・ステーキを、それもなに風でもないごく単純なハンバーグ・ステーキを食べに行ったのです。
 で、僕はウェイトレスにそう言いました。
 申し訳ないが当店はなになに風のハンバーグ・ステーキしかないのだ、とウェイトレスは答えました。
村上春樹バート・バカラックはお好き?』(1982)

出来合いの差異が、使用価値(ハンバーグがどれだけおいしいか)を殺してしまっている例だ。村上春樹のオシャレ感が苦手と言うひとがいるが、うーむ、逆じゃないでしょうか(初期の意匠については否定しない)。ひねくれているのは確かだけど。『カンガルー日和』収録の『バート・バカラックはお好き?』は、現在は全集にて加筆訂正されて『窓』となっている。差異(記号)の消費と欲望の模倣についてもっと意識的で直接的な言及もある。

いや、違うね。必要というものはそういうものじゃない。自然に生まれるものじゃないんだ。それは人為的に作り出されるものなんだ。...港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスです、ってね。何度も何度も反復して情報を与えるんだ。そうすりゃみんな頭から信じこんじまう。住むんなら港区、車はBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。想像力というものが不足しているんだ。そんなものただの人為的な情報だ。ただの幻想だ。
ダンス・ダンス・ダンス』(1988)

いかにもバブルでやや隔世の感もあるが、高度消費社会はここにひとつの完成を見たと言っていいだろう。ここまで、その要素の部分においては大筋、見田宗介の名著『現代社会の理論』のはじめのほうに概説されている(教え子の宮台真司さんがビデオニューストーク・マル激で名前を挙げることなくナチュラルにこれを引用していて、いささか感動してしまいました)。そして現在は「ギルティー・フリー」商品、あなたはこれで罪のない人間でいられますよ、逆に言えば他のものを選ぶならあなたは罪まみれですよ、というマーケティングが流行りつつある(これは『辺境ラジオ』で聞いた)。

消費と恐怖は相性がいい(「おじいちゃん、おくちくさ〜い」。きっとなんかマーケティング用語もあることだろう)。キャロリンの場合もそうだ。彼女は貧困家庭に育った。これは彼女の弱みであり、忘れたい過去でもあるはずなのでわずかに言及されている程度だが重要なところだ。貧乏だったから貧しさに対する恐怖への防衛機制としてモノを買い、家を満たす。仕事に励み、キャリアを積み、薔薇を育て、きれいな服を着てメルセデスを走らせ、ビールをこぼせない4000ドルのソファをしつらえ、セミ貴族のようなテーブルをセットし、丁寧かつ心ない物言いを心がけ、そのようにして金持ちのイメージを買う。金持ちは複数台の車を所有しているから、彼女も使わない車を用意する。懸命に働き、暮らしを立て、端々をケアして生活を切り回しているのに、その姿になんとなく共感できないのはそんなところにある。できあがるのはCMのような家庭だ(A commercial, for how normal we are.)。そして彼女はほとんど常に不機嫌だ。恐怖が消えないから。これすなわちトラウマというものだ。彼女が皮肉でなく、手放しに笑うシーンはラストの短い回想シーンにしかない。

アンジェラには「あなたのお母さんのほうが嘘くさいわ」と言われる。子どもはよく見ている。大人こそ内情を見ていない。イメージとかたちをつくるだけで、表面を越えて根っこまで掘り、内情を把握して、面倒を引き受けるようなことをしない。キャロリンは神経症的にひたすら外形を整える。映画冒頭でレスターが彼女についてまず言及するのは、ガーデニングの道具、剪定ばさみとつっかけの色さえ揃えていることだ。ここはつっかけが似合うようなおばさんになってきた、女性として薹が立ってきたと評しているのではない。レスターが「それは偶然ではない(偶然色が同じなのではない)」というのは、彼女の過剰な外形の整え、イメージングのことを差す。隙のない服装と立ち居振る舞い、家屋と家具のコーディネート(飾り雨戸、ソファ、ワンピースの色が同じなど)、仕事で取り扱う家の鏡のくもりを抹殺するように拭く目つきと手つき、世間的に望ましい家族活動(チア見物)、娘の演技への「失敗しなかった」という褒め方、不動産業者パーティーでの「不動産はイメージを売るものだから、そのイメージを生きないといけない」。それはレスターを疲弊させる。コーディネート、きちっとしていることは、それが過剰な域に達し、周囲に要求するほどにまでなればひとをいら立たせもするし、それ以上に問題なのは、この「イメージのための整え」にだけ彼女の関心のリソース(エロス)が注ぎ込まれてしまうあまり、他に注意力や想像力が向かっていかないことだ。彼女が願うのは、車内で歌っている曲「Don’t Rain on My Parade」、つまり「私の祭りに雨など降ってくれるな」ということだけ(もちろんと言うべきか、映画の文法どおり、彼女は後々自分の祭り=人生にどしゃぶりを食らうことになり、現実でもびしょ濡れになる)。

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そういう大人をこの映画では「もっとよく見ろ(Look closer.)」と告発する(冒頭のオフィスのシーン。ちゃんとカメラがズームしてlook closerする↑)。これは冒頭の庭の樹をキャロリンが取り除かせた云々のくだりを踏まえている。彼女はフィッツ家以前の隣家の住人が野良猫にエサをあげるので頭にきて、腹いせに根っこはウチにあるからと隣家の庭の樹を切った。樹の根には敏感なのに人間の根には気を配らない。

また、安直、ステレオタイプのそしりは免れないが(動物好きのろくでなしはこの世にゴマンといるから)、動物をどう扱うかはその当事者の人間性を表す。大江健三郎は、漱石が子どものかわいらしさ、無邪気さを表す比喩として「むく犬のような」という表現を使っていることを書いている。逆にドストエフスキーの小説で、虚無に陥った人間は窓から犬を投げ捨てる(どの作品か失念)。それは文学の技法ではあるが、現実もしばしばこれに倣う。イラクのアメリカ兵は崖から犬を投げ捨て、動画に撮っていた。アメリカバイソンは白人入植から19世紀末までに、6000万頭から750頭(0.00125%!)までその数を減らされた。19世紀の終わりからアメリカが何をはじめたか。開拓の仕上げにウーンデッド・ニー(1890)でネイティブ・アメリカンを虐殺し(よくぞという感じで、米産ゲーム『Bio Shock: Infinite』が題材にしている)、国内にケリをつけたあと、メディア王ランドルフ・ハースト(『市民ケーン』のモデル)が新聞を通してきっかけをでっちあげた米西戦争(1898)がはじまった。ここからアメリカの終わりの見えない対外戦争が続くことになる。動物の扱い方は(おおむね)人間の傾向を表す。つくり手がキャロリンをどう思ってほしいかは明らかだろう。「人間の真の善良さは、いかなる力をも提示することのない人にのみ純粋にそして自由にあらわれうるのである。人類の真の道徳的テスト、そのもっとも基本的なものは(とても深く埋もれているので、われわれの視覚では見えない)人類にゆだねられているもの、すなわち、動物に対する関係の中にある。そして、この点で人間は根本的な崩壊、他のすべてのことがそこから出てくるきわめて根本的な崩壊に達する。」(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

単なるキャリア・ウーマンではなく、貧乏の恐怖から抜け出すためになりふりかまわず立身出世・成功に突き進もうとする女性という人物造形はサム・ライミの『スペル』でも見られる。アメリカでの貧乏と他国でのそれは捉えられ方が異なる。引用ばかりになるが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(1969)を見てみよう。

アメリカは地球上でもっとも豊かな国である。しかし国民の大半は貧しく、貧しいアメリカ人たちは自分を卑下せざるをえない状況におかれている。アメリカのユーモア作家キン・ハバードの言葉にしたがえば、“貧乏だからってべつに恥じゃないんだが、やっぱり恥なんだな”。貧民の国でありながら、現実には貧乏することはアメリカ人にとって犯罪にも等しいのだ。賢く、徳が高く、したがって権力や富を持つもの以上に尊敬される貧民の物語は、世界各国の民間伝承に見うけられる。しかしアメリカの貧民のあいだに、そのような物語は存在しない。彼らはみずからを嘲り、成功者たちを称揚する。貧しい男が経営するうすぎたない飲食店の壁に、“おまえがそんなに利口なら、どうして金持じゃないんだ?”と残酷に問いかける紙が貼ってあるという話も、大いにありうることである。

人がだれしもそうであるように、アメリカ人もまた多くの見えすいた虚言を信じている。なかでももっとも有害なのは、アメリカではたやすく金が儲けられるという虚言である。金を儲けることが実際にはどれほどむずかしいか、アメリカ人は認めようとしない。金を持たぬものは、したがっておのれを果てしなく責めることになる。そして、この自責観念が、一方で金持や権力者の財産となってきた事実も見逃すことはできない。貧者への義務を公的にも私的にもほとんど果すことなくすましてきたという意味では、彼らはナポレオン時代以降もっとも恵まれた支配階級といえるであろう。アメリカからは多くの新製品が渡来した。しかしなかでも前例を見ない、脅威の新製品は品性下劣な貧民の大群である。自分を愛するすべを知らぬ彼らは、他人を愛することもない。(文庫 P. 155, 156)

 美しく気高いアメリカン・ドリーム、立身出世、セルフ・メイド・マンの裏側。仕事人間の旦那とそれに飽きれる奥さんというパターンの話は創作・現実問わず数かぎりなく日本にもあることだろう。国是レベルで戦後の日本人は富国を目標に歯を食いしばって働き続けてきたし、浮上する問題はアメリカと共通している。しかし、世界で最も成功した社会主義国家と言われてきた日本では、アメリカほど成功者のtake it allと、敗残者の「自由を上手く行使できなかった恥」のメンタリティーは根付いていない(それも変わりつつあるが)。ウォール・ストリートの占拠でこの潮流に疑義が呈されたのは、それが限界まで伸張してしまったからだ。アメリカでも、はじめから格差社会そのものが肯定されていたわけではない。フランス人、トクヴィルはアメリカ見聞後に著した『アメリカン・デモクラシー』(1835年)にてその平等性に驚いたりもしている(内田樹とハフィントンの本で読んだ覚え。フランスは貴族社会だから当たり前と言えば当たり前だが)。しかし、勝者総取り、貧乏=敗者・恥の概念はいまや基本原理、つまりは保守的イデオロギーになってしまったし(1925年の『グレート・ギャツビー』にも、それを書いた当のフィッツジェラルドにも、すでにそのメンタリティーが里程標のようにはっきりとある)、その傾向はいや増しつつある。その原点と現在をつなぐのがティーパーティだ。「自由の息子たち(sons of liberty)」の息子たち。貧乏人の醜態、敗者を自認した末の諦め、「貧すれば鈍す」の無惨な光景はアメリカ映画で頻繁に描かれる。最近のものでは、白人社会では『ミリオンダラー・ベイビー』、黒人社会では『プレシャス』なんか本当にひどい。貧乏は人の道に反すると言っても過言ではない。

「彼らはみずからを嘲り、成功者たちを称揚する。」ここなどはキャロリンそのままだ。「金を持たぬものは、したがっておのれを果てしなく責めることになる」ということにならないないよう、キャロリンは薄っぺらい自己啓発にのめり込み、自分を追い込んでいく。そして「自分を愛するすべを知らぬ彼らは、他人を愛することもない。」

『アメリカン・ビューティー』 6. 第二幕 - 反抗する中年2

失うものがない普通の男に戻ってさっぱりしたレスター。気持ちが晴れて食欲が出たらしく、ハンバーガー・ショップに直行する。おすすめを断って、big barn burger(デカい納屋バーガー)を注文する。気の大きくなったレスター・バーナムさんとかけてるんでしょう(burn ham → big barn burger)。でないと、こんなヘンテコな商品名にしないよ。

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ドライブ・スルーで接客してくれる女性店員は「ミスター・スマイリーのバーガーショップでは笑顔を!(Smile, you're at Mr. Smiley's!)」、「スマイリーソースはいかがですか?」という、上から言わされている定型フレーズをうんざりしたような仏頂面で、つまり一切の笑顔なしで言う。彼女はそれに勤勉ではないが、これはまさに感情労働というやつだ。ここでも企業のつくりたい雰囲気としてのイメージと、現場での接客という現実が乖離を起こしている。もうひとつ、偶然だろうが打ってつけだと思わされたのはスマイリーというネーミング。どうしたってそれはスマイリー・フェイス(ニコちゃんマーク)を想起させる。Love & Peace、1970年まわりのフラワームーブメント、ロック、反抗の世界に、マリファナを吸いながらドライブスルーにすべり込み、レスターは回帰していく。

NOW TAKING APPLICATIONS!(バイト申し込み募集中)↑を目にした彼は注文ついでにアルバイト希望の用紙をもらい、あっさりと再就職する。「できるかぎり責任のない仕事を探してるんだ」。いかにもビジネスマンでございという容姿と経歴の男が突然バイトさせてくれと頼みにきた。店長らしき男はあっけにとられる。レスターはイメージの世界でのビジネスをやめて、食という肉体に直接かかわる労働を選ぶ。世間体(むしろ家族体)やキャリアというイメージを捨てたから、マック・ジョブに携わることになんの臆面もない。それにバーガー屋でのバイトは目のまえがまっさらな青春時代の思い出の日々なのだ。リッキーの部屋にて、マリファナでしこたま稼いでいる彼に過去のバーガー屋でのアルバイトを「最悪ですね(That sucks.)」と評されて、「いや、そうでもない。すばらしかったよ(No actually, it was great.)」と答えている。

この日キャロリンのほうでは町の不動産王、バディ・キングと浮気をして肉体関係になる。こちらも並行してフィジカルな世界に近づく。ここからレスター夫妻は自分たちをさらけ出すことに躊躇がなくなり、キャロリンが頭のなかから生み出した食卓、映画のセットのような意識の高い食卓は捨てられることになる。もうお互いに対する不満が隠されることもない。キャロリンはレスターの勝手な辞職に怒りまくるし(当たり前だ)、レスターはセックスレスについての不満を(娘のまえで)爆発させ(「ペニスをメイソン・ジャーに瓶詰めにされている!」)、席を立とうとする娘に「座ってろ!」と怒鳴り、人間として扱われていないとキャロリンを告発し、それでも反駁しようとする彼女に、アスパラガスの皿をこれ見よがしに壁にぶん投げて応える。

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このシーンは本来床に落とすはずだったそうで、女性陣の驚きは素なのだそうだ。彼女たちが静まり返り、満足したレスターはこともなげに食事を続け、エレベーター・ミュージック(当たり障りのない、つまらないBGMを示す定型表現)への不満も欠かさず表明する。

余談。このシーンで思い出されるのはサリンジャー『愛らしき口もと目は緑』にて、尻軽の女房を持てあまし、日常的らしい不義理とその日の彼女の不在に追いつめられていて、こともあろうかリアルタイムの浮気相手に電話して相談しまう憐れな男、アーサーの言う「あいつに必要なのはね、図体のでっかい無口な男―新聞を読んでる最中に呼ばれでもしたら、のっそりとあいつのそばへ寄って行って物も言わずにはり倒す―それから戻って来て、読みかけの記事を黙ってしまいまで読み続ける―こういうのがあいつには必要なんだ」という台詞。もちろん女性に手を上げるなんて絶対に駄目ですが。

後日、レスターは手を上げるのではなく、「ふすまと夫婦喧嘩ははめれば直る」というあの下品きわまりない(が、いくぶんか真実を突いているだろう)フレーズそのまま、キャロリンに手を出そうとする。でもそれは切実なものだ。1970年製ポンティアック・ファイアーバードを勝手に買い、ビールを飲みながらラジコンで遊ぶ男の子・レスターだが、セックスも長いあいだ求めていた。「ジェーンはどこかしら」「ジェーンはいまいないよ」。アンジェラによって意気を取り戻したレスター同様、浮気をしているキャロリンは色っぽくなっている。「今日はきれいだね」でも(普段のきみは)「いつからそんなにjoyless(訳が難しい。無感動な、味気ない、素っ気ない、不貞腐れた、喜びのない、潤いのない)になってしまったんだい? かつてのお茶目だった女の子がいったいどうしたんだ?」とレスターは迫る。彼は青春時代へ立ち戻っている最中だから自然「あの頃を思い出せよ」の物言いになる。迫るレスター、応えるキャロリン。ソファのうえであと一歩というところでキャロリン「ソファにビールこぼしそうになってるわ」失望してのっそりと立ち上がるレスター「ただのソファじゃないか」「これはイタリアンシルクを張った4000ドルのソファなのよ。ただのソファじゃないわ」「ただのソファだ!(It’s just a couch!)」。先に書いたとおり、『ファイト・クラブ』と似たようなモノ礼賛批判だ。


「これは生活じゃない。これはただのモノだ。そしてきみにとって、それが生きることよりもっと大事になってしまってる。ねえ、イカれてるよ」。40万もするソファにビールがこぼれそうになっていたら誰でも怒る。しかし、たしかにキャロリンはモノと金に拘泥しすぎているきらいはある。欲望(エロス)がモノに向かっていることは否定できない。夕餉の食卓での大喧嘩の晩、キャロリンは娘を心配し、彼女の部屋になだめにいく。そこで、生意気な口をきく娘を引っぱたいて激しく叱る。正当な怒りではある。ただ、怒りにかられているので本音が出る。「あなたは感謝を知らない若造よ。あなたがもってるモノをごらんなさい。私はあなたの歳にはデュープレックス(二家族がひとつの家)に住んでたのに。自分の家さえなかったのよ(You ungrateful little brat. Just look at everything you have. When I was your age, I lived in a duplex. We didn't even have our own house.)」。この「ソファをめぐっての大喧嘩」と「母が娘を叱る」のふたつのコンフリクトはキャロリンとモノとの関係を表している。彼女が不動産業に携わっているのはこの家へのオブセッションからだと推測される。レスターからすこし離れて、彼女の精神性について掘り下げてみたい。

『アメリカン・ビューティー』 5. 第二幕 - 反抗する中年1

二幕めの開始ナレーション(これはリッキーの部屋を訪れるまえだが)は「自分を驚かせるような力がいまだ自らのうちに眠っていることに気づくのは素晴らしいことだ。できると思いながらいつのまにか忘れてしまっていたこと、そんなことが他にないかと考え出す」。レスターはリッキーの部屋を訪れて極上のマリファナを買い、ピンク・フロイドのCDを手にとり、ただ8トラックを買うための(カセット以前の音楽メディア。字幕では訳出されていない)夏のバーガーショップでのバイトや(ここは夏でなければならない)、パーティー、女の子と寝ること(get laid。イメージ的にイチャイチャのほうが近い気もする)だけの日々に思いを馳せる。人生はまだ、前方にすべて開かれていた。ありていに言えば、レスターは青春を取り戻しはじめる。 そして、夕餉の退屈な「エレベーター・ミュージック」でない音楽が劇中にかかりはじめる。恋のときめき、男性性、自由、若々しさ、青春と来れば、レスターの「逆襲=反抗」を彩るBGMはもうロックしかない。手はじめにかかる曲はボブ・ディランの代表曲のひとつ「All Along The Watchtower」。『ウォッチメン』でももちろん使われてる。歌詞を見てみよう。

There must be some way out of here," said the joker to the thief,
There's too much confusion, I can't get no relief.
Businessmen, they drink my wine, plowmen dig my earth,
None of them along the line know what any of it is worth.

「ここから抜け出す道だってあるはずだ」道化師は盗人に言った。
「あまりに混乱しすぎてる。まったく気が休まるひまもない。
 商売人どもが俺のワインを飲み、農夫たちが俺の土地に鍬を刺す。
 がっついてるやつの誰もそれにどんな価値があるか知らないのさ

...So let us not talk falsely now, the hour is getting late."

だから、自分を偽って話すのは終わりにしよう。もう時間も遅くなってきてるじゃないか」

この曲は旧約聖書におけるバビロンの崩壊を題材にしている(検索するとその都度教えてもらえます)。バビロンは虚栄の市の象徴で、映画だと古典の『イントレランス』が直接そのさまを、バベルの塔の崩壊についてはブリューゲルやドレが絵画として描いていて、映画『バベル』の由来もこれ(未鑑賞)。フィッツジェラルドの『バビロン再訪(Babylon Revisited)』は、かつて景気がよく、派手に遊んでいたパリ(=バビロン)に、時を経て不遇を託つアメリカ人男が再訪する話。ホテルのバーテンダーにかつての遊び仲間の所在を尋ねるものの、ことごとく離散してしまっていることが判明する冒頭の、唐突ながら再読すると物悲しい会話が印象的な短編。

ディランの歌詞からは、心ない人間の条理を越えた強欲な収奪と混乱、そこからの脱出、それから自分を偽るのをやめること、その時期にさしかかっていることが連想される。これはそのままレスターの状況にあてはまる。心ないビジネスマンはキャロリンと上司デュプリーに擬せられる。彼らによる抑圧や中年の倦怠から脱出し、自分を取り戻す時期にレスターは来ている。ガレージでマリファナを吸いながらベンチプレスをするシーン。ここでの会話はなかなかすごい。キャロリンの慇懃無礼で嫌味な(怒るとこうなるタイプは少なからずいる。お母さんが子どもを叱るときにフルネームさんづけで呼んだりするあれ)、 「違法な向精神性物質を使用することは、私たちの娘に示すサンプルとして実に適切でしょうね!(I think using illegal psychotropic substances is a very positive example to set for our daughter.)』に対しレスターは、「ああ、冷血な貯め込みキチ○イがなんかしゃべってる(You're one to talk, you bloodless, money-grubbing freak.)」と返す。鬼嫁にとがめられてもなんのその。ここでレスターはキャロリンの圧迫と虚飾から逃れる意志を明確に示す。

家庭の次は仕事、職場での圧政が反抗の対象となる。上司のブラッド・デュプリーにレポートを提出して叛旗をひるがえす。「私の仕事は主として担当しているケツの穴のみなさまへの侮蔑の念を押し隠すこと、また、少なくとも一日に一度男性用トイレでマスをかくことにより、人生というものがそれほど地獄に似ているというわけでもないと夢想すること、などによって構成されております」声に出してレスターのレポートを読み上げるデュプリー「ほう、きみは自分を守ることになんの興味もないわけか」「ブラッド、僕は14年間広告産業の娼婦だったんだ。自分を救う唯一の方法はすべてを焼き払うことさ」とレスターはぶちまける。当然デュプリーはクビを宣告し、その日中に出ていくよう要求する(アメリカでは上が解雇を決めたらその日に追い出すことが可能とのこと)。ここで常に抑圧する側だったデュプリーをレスターが脅しにかかり、立場が完全に逆転する。レスターは会社の不正を並べ立て、それを公表されたくなければ口封じに一年分の給料と社会保障を寄越せと要求する。会社の金を使って幹部らしきクレイグが女遊びをしていることを「取引先や競争相手の出版社はきっと知りたがるだろうなー。言うまでもなくさあ、クレイグのカミさんもね!」要求に対してしぶるデュプリーに、悪のりでセクハラまで捏造し、上乗せして公表するぞと脅す。「Against who?(誰のだよ?)」「Against you!(あんたのだよ笑)」

Man. You are one twisted fuck.
驚いた。あんたは頭のネジのはずれたイカレ野郎だ
Nope. I’m just an ordinary guy with nothing to lose.
いいや。僕は失うものがない、ただの普通の男さ

I’m just an ordinary guy with nothing to lose. 岡本太郎の理想的人間像。レスターは確かにここから爆発していく。ひろゆき2chの言う無敵の人でもあるわけだが。

素敵なキメ台詞を残し、荷物をまとめた小箱を担いでガッツポーズしながら、彼は意気揚々と会社を去る。ここでのすりガラスの向こうの通路からレスターが歩いて現れるシーンは細かいところだが、非常に映画的なシーンだ。雲のかかったブラーな過去から、リアルでクリアな未来へ。

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そして、自分の運転する車のなかで楽しげに熱唱する。「アメリカの女よ、俺に近づかないでくれ」(The Guess Who「American Woman」)。I got more important things to do than spend my time growin' old with you.(おまえといっしょに年食いながら時間を無駄遣いするより大事なことがあんだよ) ここもレスターの心情そのままの選曲だ。

アメリカ映画の女嫌い(ミソジニー)傾向・系譜については、そのサンプルも含めて内田樹『映画の構造分析』の第3章に詳しい(『メジャー・リーグ』がわかりやすい典型)。大胆で説得力があり、興味深い仮説なのでごく微力ながら耳目にさらしたいので引かせていただく。

開拓時代の全史を通じて続いた、恐るべき男女比率の不均衡状態(女不足)のなかで、女を確実に手に入れられた男はごく少数だった(だから娼館は西部劇の定番だ)。「近代アメリカの礎を築いた男性たちのほとんどは、生涯一度も『ステディ・パートナー』を持つことなく、そのDNAを次代に残すことなく、死んでいったということである。」さらに、男たちの従来の単純な価値のものさし(開拓に根本的に寄与したはずの腕力、胆力、直感など)は、女からのまなざし・選択という本来男たちのあずかり知らぬ価値基準(女性は少数であり、だぶついた男たちはそれを浴びざるをえない)によって深く傷つけられた。「そこで人々はある物語を創り出す必要に迫られたのである。...それは次のような物語である。」「女は必ず男の選択を誤って『間違った男』を選ぶ」「それゆえ女は必ず不幸になる」「女のために仲間を裏切るべきではない」「男は男同士でいるのがいちばん幸福だ」。フロンティアの消滅と入れ替わるようにして登場したアメリカ映画文化における女性嫌悪映画群とその傾向は、恨みを抱いて死んでいった男たちへの供養というわけだ。「女に選ばれなかったことへの恨み」はなんとなく現在の日本の(別の意味だが)「女のいない男たち」のあいだで醸成されつつあるような気がしないでもない。

さて、レスターはここで全編を通して初めて運転している。それまで運転を一手にあずかっていたのはキャロリンだ。運転するキャロリンと車とのセットは、劇中最初から最後までことさら頻繁に画面に登場する。それは彼女が働く女であり、キャリアを自分でつくる意志の人間だからだ。車のハンドルは人生を意志的に取り扱う(ハンドルする)装置、人生の主導権に擬せられる。レスターは映画冒頭では、キャロリンの運転する車の後部座席で眠っていた。キャロリンに我慢せず、仕事を放り出し、「失うものがない普通の男」に戻ってやっと彼は人生の主導権を得る。眠っていた人生を「ドライブ」しはじめる。

目上の者が運転する場合、目下の者は後部座席ではなく助手席に座らなければならないなど、車内での位置は人間関係を反映する。注意される新社会人は少なくないだろう。こうした車、また車における位置の変化が人間性、人間関係の変化のメタファーになっている作品にヘミングウェイの短編『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』がある(昔はマコーマー表記だったが、bomberがボンバーなことを考えるとmacomberはマカンバーなのでしょう)。簡単に言えば、狩猟を通して男が決定的に成長する話。良短編。

The Car as Symbol in Hemingway's "The Short Happy Life of Francis Macomber"という短い論文で、著者のJ. F. Peirceというやや大統領っぽい名前の方が、ヘミングウェイ作品における車のメタファー論の嚆矢らしきCarlos Bakerさんの文章にやや噛みつく感じで『マカンバー』の車について書いている。たしかにCarlos Bakerさんの意見は、魂の所有権争いとか、最後は後部シートに座るマーゴットが幕を閉じる指揮的役割を担っているとか書いていていかにも納得しづらい。Peirceさんは、キーの差し込み、点火、レシプロエンジンのリズミックなピストン、エンジンを吹かす(動詞:gun)ことでみなぎる力、引き延ばされたかたち(エイリアンの頭部を想像してください)などの要素(The sticking of the key into the lock, ignition, the rhythmic pumping of the pistons, the surge of power as one “guns” the engine, and its elongated shape)から、男にとって車がセックスと力の象徴であることを明らかにしながらも、『マカンバー』の車が箱のようなかたち(box-bodied)でドアがない(doorless)ことから、それを子宮に見立てている(箱・袋・筒状のものはだいたいそうなのだ)。臆病に車に居座ってそこから卑怯に動物を狙い撃つことは非難され(Not from the car, you fool!)、外に出て戦えと促される。子宮でぬくぬくと守られていないで、へその緒切って恐怖を断ち切って、そこから出て独り立ちしろ。要はイニシエーションということで、J. F. Peirce さんの論文(紀要かな)の骨子はこれだ。狩猟がイニシエーションを担うのはそれこそ原型であるし、それがテーマというのは短編を一読して明らかなのだが(白人ガイドのウィルスンが解説してもくれる)、Peirceさんは道具や言動に性的なイニシアティブとイニシエーションの「椅子取りゲーム」がどう反映されているかを詳らかにしている。

座席の位置について考察するために『マカンバー』を読みなおしていて気づいたのだが、『アメリカン・ビューティー』とこの短編は共通点が実に多い。車内での位置が人生の主導権を暗示する点はすでに述べた。さらに、意気に欠け、妻にほぼ見捨てられ、馬鹿にされている中年の夫が転機を迎える点、抑圧をはねのけ、男性性を獲得(回復)して人生を取り戻す点(イニシエーション)、しかしそのことで却って妻との溝が深まり、夫婦仲が決裂していく点、妻が他の男と関係する点(これは両者で原因と様態が異なるが)、妻が夫の死を願い殺意を抱く点、夫が人生を取り戻した直後に命を失う点、(程度の差は大きいが)妻の殺意と実行=殺害がずれている点、それが成立しても妻が幸福にはならない点などが挙げられる。「殺意と殺害のずれ」と「アメリカの罪」については後に詳述したい。

もうひとつ、『マカンバー』の主人公のフランシス(Francis)という名前がfrank(形容詞として「率直な・腹蔵のない」。またFrancisのニックネーム)を連想させ、実際にフランシスが終始率直な態度で、自らの心情やその変化をほとんど馬鹿みたいに腹蔵なく話す人物であるという命名上の細工にふれておきたい。この象徴的命名はたとえば、映画『スーパー』やゾンビゲーム『デッド・ライジング』に(直情径行の憎めないキャラクター。『スーパー』には名前の言及がある)、そして皮肉なかたちで『アメリカン・ビューティー』にも利用されている(後述)。最近ではケヴィン・スペイシー主演のドラマ『ハウス・オブ・カード』にも使われていて、スペイシーがまさにフランクだ。このフランクは映画の第三の壁を越えて観客に腹蔵なく語りかけてくる。

『アメリカン・ビューティー』 4. 第一幕 - 鍛えゆく男

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レスターのふたつの出会いのうちのひとつめは、娘の同級生・アンジェラへの一目惚れ。もちろん不適切な恋慕、のぼせあがりではある。パートナーがいることはともかく、相手は娘の同級生である。ロリコンである。宮崎駿大林宣彦である(実は彼らは巷間言われるロリコンではないと思われるのだが、これは機会があれば、あるいは誰に頼まれなくても自分で機会をつくって別にキルケゴールの性向との関連で少し扱ってみたい)。アンジェラの名字はHayesで、ナボコフ『ロリータ』のロリータの本名はDolores Haze、もちろん意図的に命名されている。

レスターのロリコン的恋愛には、仕事・生活における手応えのなさから来る自信の失調という『縮みゆく男』的な背景はあるかもしれない(弱い男だから、弱い女しか相手できない)。しかし、それは無垢なる少女(たとえば、猫のジジと会話でき、飛ぶことに不自由のない乙女・キキ@『魔女の宅急便』)に憧れるという日本的?なそれとは違うし、ナボコフ的ニンフェットの媚態の見え隠れ、あわいでの戯れともいささか趣を異にしているように思われる。元ネタにとっただけあってそういう描写も少なくないが、話の筋は全然違う。『ロリータ』の主人公のおっさん、ハンバート・ハンバートはロリータ(ドロレス)の処女性を求めているが、アンジェラはそうは見えないし、レスターはそれを求めているわけではない。レスターの幻想は女の子のエロい肢体を直接的に夢見るもので、年若い童貞がクラスメートの女の子に抱くタイプの扇情的な妄想と大差ない。

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大量のバラの花ビラというわかりやすい性的なイメージ全開だ。彼が生来のいわゆるロリコンである気配はない。奥さんがいて偽装結婚というわけでもないから。若い愛人を男の器量とばかりに囲うタイプでもない。なにせそれを会社で非難しているのだから。レスターのアンジェラへの執心で重要なのはときめきだ。ときめきとはこれから起こることへの胸の高鳴りであり、未知に手放しで期待できる心持ちは若いということだ。レスターがアンジェラに高揚するのは、彼女がいかにも学園クイーン(クイーン・ビー)というキャラで男の欲望を惹起させやすいタイプであり、彼を学生時代のような若い時分に引き戻すからのように思われる。娘のジェーンは「スケベなオタク男子(some horny geek-boy)」と形容している。

若さに加えてもうひとつ。アンジェラのチアリーディングを見て恍惚とする直前のシーン、体育館へと向かう車のなかで彼はキャロリンに「今夜は007があるのに」とこぼしている。ジェームズ・ボンドは颯爽と仕事をこなし、派手に遊び、華麗に女を落とす。彼は男性性の象徴で、レスターはそれを求めているということのわかりやすい暗示になっている(この細工が『Mr. インクレディブル』にも使われていることを、町山智浩が指摘している)。そこまで意図されているかは不明だがここでの台詞、And I'm missing the James Bond marathon on TNT. の missing はダブルミーニングで、ジェームズ・ボンドを見られなくて口惜しい(観たかった)という会話上の意味の他に、ジェームズ・ボンドという男性性をmissing(取り逃している)と読めなくもない。ついでに、marathon(マラソン)について言えば、レスターはのちにジョギングをはじめてもいる。深読みしすぎかもしれませんが、テクスト論的な読みということで。

そう、レスターが失っていたものは男性性だ。まさに中年の危機。娘の部屋のドアのまえで盗み聞きした、アンジェラの「もうすこし筋肉をつければかっこよくなる」という言葉に触発されて彼は身体を鍛えはじめる。男性性に付随して浮上してくるのは身体性だ。先まわりになるが、彼はアンジェラをきっかけにワークアウトをはじめるが、次第にそうした鼓舞の視線に無頓着になっていき、やがて身体性の向上自体を目的としていくように見える。『アメリカン・ビューティー』のメインのヴィジュアル・イメージは深紅の薔薇の海に浮かぶ裸身の乙女であり(american beautyで画像検索してみればわかる)、これはレスターが妄想するファンタジーなわけだが、実はこのファンタジー・シーンは映画の2/5(=一幕め)以降にはまったく、ただの一度も出てこなくなる。二幕め開始すぐにレスターは、広告会社=イメージを取り扱う牙城から抜ける。そもそも、この映画の主たるテーマは様々な場面における「現実とイメージのギャップ」だ。直接描かれてはいないが、レスターの意気消沈の原因のひとつは、イメージの世界に長く馴致せざるをえなかった疲労とストレスだと想像される(某有名広告会社の社員はかなり平均寿命が短いそうだ。就業時間と物理的な激務ということもあるだろうが)。映画冒頭の電話シーンでは、そんな自分を道化として演じている。現実とイメージのギャップを糊塗するさまは、傍から見れば途方もなくキッチュに、滑稽に、そして不憫になりうる。『アメリカンビューティー』での代表選手はキャロリンだ。さらに、家庭も基本は役割演技でこれも不全なのだから(ついでに奥さんもイメージ世界の住人のひとりだ)、自分がわからなくなるまで消耗するのも当然と言えば当然だ。おまけに、精神と身体の調和を図る楽しい治癒的な活動、セックスも失われている。専門家ではないので確言はできないが、彼の無力感は鬱の初期症状のようにも思える。

虚脱した生に現実味を取り戻そうとするときに発想が向かう先はまず首から下だ。首から下の世界は無情に仮借なくリアルで、基本的にファンタジーの入る余地はない(替わりの悦びはナルシシズムとなる)。レスターがアンジェラに魅了されて帰宅したあと、真っ先にするのは真っ裸になっての身体検めだ。青年に差し掛かった村上春樹もこれをしたそう。

たとえば『マトリックス』(これも1999年製作・公開)において、マトリックス世界を打破し、現実世界を取り戻す術は、電「脳」活動であるキーボード操作によるプログラミングではなく、まずもって目に見えて激しい身体活動として表象されなければならない。『2』でも現実世界の一行がたどり着いた先のザイオンではいきなりみんなやたら無駄に踊っている。食料が十分確保されているはずがなく、派手に動くことが危険を招く世界でそんなことをするのは不自然なのに。そりゃ娯楽は他にたいしてないだろうけど。いずれにせよ、『マトリックス』のアクション性には、ハリウッド的ジャンルアクションであることやウォシャウスキー兄弟(姉弟)の趣味、ヴァーチャル世界で繰り広げられる想像力とケレン味あふれる、現実からの写像(これは『マトリックス』以降アクション映画のお約束設定のひとつになってしまったが)といった要素以上の必然性があるように思われる。

身体を鍛えることで、魂の脂肪(ヘミングウェイキリマンジャロの雪』)を削ぎ落す。こうした文脈はさして難しいものではないし、似た筋の話はたくさんあるだろうが(日本の漫画にもあったはず。タイトル失念)、やはり『ファイト・クラブ』に止めを刺す。Where is my mind? → 「うるせえ、てめえの身体を痛めつけろ!」というわけだ。『アメリカン・ビューティー』は「ひとりファイト・クラブ」でもある。同年製作・公開の両者は物語の発端と途中までよく似ている。1999年はアメリカのITバブルの晩年くらいだろうか。バブルとは価値の粉飾であり、まさにイメージが最大限膨らんだ状態だ。そんな世相を反映してか、現実感のない味気ない生活と、それを覆すための身体性の向上、男性性の回復がひとつのテーマになる。両者ともに明確な、その明確さによってほとんど時代遅れの戯画とも感じられるほどの物質文明批判のシーンがある。

ここでのモノはイメージという贅肉だ(『アメリカン・ビューティー』でモノはキャロリンが用意するものだが、詳しくは後で)。ちなみに、別文脈だけど首より上偏重(脳化)はやめて身体を動かしなさいと養老孟司先生も主張してます。『ファイト・クラブ』の「僕」はセックスまでストレートに手が届くが、レスターはそれを手に入れることができない。このくだりも後に譲るが、実はこれがふたつの映画を明確にわけているということは記しておきたい。

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レスターのもうひとつの重要な出会いは、不動産業者のパーティ会場で発生する。相手は、こちらも娘の同級生である(劇中で同級生となる)まわりより二才年長で18歳のリッキー。不動産業者のパーティーで彼らは出会う。外面の社交とビューティフル・ピープルどもにうんざりしてウィスキーをあおるレスターと(ここでのレスターの姿勢が最高↑。酒はカティーサーク)、ギャルソン業を隠れ蓑にしてマリファナ販売の顧客を得ているリッキーはともにアウトサイダーだ。だから会場の外で彼らは語らい、マリファナを吸う。このシーンにて、ケヴィン・スペイシーは素で笑いが止まらなかったそうだ↓。チャウ・シンチーかおまえは。

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雇用したらしき男に勝手な休憩をとがめられても、リッキーはあっさりと「やめます。バイト代はけっこう。ほっといてください」と返す。このあっぱれで奔放な、自由な若者を目撃してレスターは脱帽する。「きみは僕の個人的なヒーローだ」。彼らが何気なく話題にしている映画は『死霊のしたたり』で、おっさんが年若い娘にいけないことをありえない方法で(デュラハン方式)しちゃう内容らしく、内容がかけられているように推察される(未鑑賞。しかし、ここにも頭と身体の分離がある)。そして原題が『Re-animator』=再び活気づけるもの、再び命を吹き込むもの。彼との出会いによって、レスターに自由と若々しさの息吹きが吹き込まれはじめる。

リッキーはレスターに自分が隣人であることを知らせるときに「ロビン・フッド通りに住んで(live)ませんか?(Don't you live on Robin Hood Trail?)」と尋ねる。ロビン・フッドは義賊であり、権力への抵抗の象徴的人物だ。そしてtrailは跡、または追跡を意味する。「ロビン・フッドの跡を追って、権力(金持ち)に反抗して生きる(live)のではないのですか?」優秀なつくり手というのは意味の虜囚なので名づけにこだわるし、このくらいの暗示はしかける。牽強付会だろうが、すくなくともこの映画のつくり手は命名に意識的だ。これは後ほど、だいぶあとで述べる。

キャロリンもこのパーティーで不動産業者のバディとお近づきになる。ここで、わかりやすい立場表現の画がある。

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壇上の高い位置からバディ、キャロリン、レスターと下っていっている。これはそのまま三者の力関係を表しているわけだが、レスターはキャロリンと同じ位置に上がり、キャロリンに熱烈なキスをするという奇矯な行動をとる。このやぶれかぶれっぽい行動も、今後の彼の逆襲の予告のように思われる。