『アメリカン・ビューティー』 17. 恨みの心をもたぬレスター

落ち込んでいる時期に、レンタルビデオ屋でしこたま映画を借りて、誰にも会わず、頭を空っぽにしてほとんど間断なく何本も続けざまに観るというような習慣をもっているひとは少なくないのではないだろうか。僕の場合、なんとなく選んで借りてきた一本のなかに『アメリカン・ビューティー』が入っていた。きわめて有名な映画だし、もちろん過去に観たことがあった。しかし、時間を経て観たこの映画は、以前とは違う激しいカタルシスをもたらしてくれた。それで何回も観ることになった。出会いはしばしば遅れてやってくる。カタルシスをもたらしたのはなにか、それを見きわめたくてこれを書いています。

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この映画のストーリーの骨子は、意気を失ってしまった男が両手に何ももたない人間(I’m just an ordinary guy with nothing to lose.)に一旦回帰して、それから回復していくというものだ。レスターは二人の若者との出会いをきっかけとして、無様ながら失われていた若々しさと身体性・男性性を取り戻していく。それが回復した状態になるのは、終盤のレスターがアンジェラを抱くことになるシーンだ。しかし、いざというときになって、アンジェラから「本当は初めてなの」という告白を受けたレスターは行為を止める。 彼はアンジェラの胸に耳を当て、心臓の、おそらくは激しい鼓動を認め、身体を起こす。相手が望んでいようが、自分のような男が生娘を犯すことはできないと認識した、という解釈が妥当だろう。彼はセックスしかけて、やめる。その行為でいくつか大事なものを手に入れ、最後の瞬間に最大の変化をしている。

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ひとつめは男性性。セックスしようがしまいが、相手がそれを望んでいるということはそれを手に入れることと近しい。ビートルズの「ノルウェイの森(Norwegian Wood)」の元は、Knowing she would、「彼女にその気があることを知っている(ってのはいいよね)」。曲のほうでは、実は女の子にはその気がなくて鳥のように飛んでいった(This Bird Has Flown)という顛末になっている(「実はその気がなくて、鳥のように(こちら側・此岸・正気から、あちら側・彼岸・狂気に、そしてあの世に)飛んでいった」女の子の物語であるから、村上春樹の『ノルウェイの森』は「ノルウェイの森」なのだと思われる。birdには女の子の意味がある。大江健三郎の『個人的な体験』では情けない男の主人公にあだ名としてこの名がつけられている)。いずれにせよ、レスターはセックスせずしてセックスしたみたいなものだ。こうした感覚が行為の停止を容易にさせた、と考えることもできる。下着をはずすこと自体の興奮。レスターが盗んだのはアンジェラの心です。もちろん生娘の最初をオヤジが奪うというのは人の道からしてまかりならんという意識が前提にあって、その真っ当さをここで捕まえ、ほてっていた頭が冴えたということはある。本来レスターは常識人だ。男性性(男らしさ)を十分確かめたあとで、その欠性から来る強迫観念とフラストレーション、こだわりは解消される。「きみは美しいよ。(セックスするなら)僕はラッキーな男になれるだろうにね(I would be a lucky man. 仮定法過去)」で十分なのだ。

もうひとつは、男性性のような男ひとりで与るものではないタイプの彼のパーソナリティのひとつ、父親に帰ったという成熟(父親らしさ)。「ごめんなさい」と謝るアンジェラにガウンを巻き、抱いてやるレスターは、外の世界で理不尽な仕打ちにあった娘を慰めているように見える。落ち着いたあと、アンジェラは「おなかペコペコだった」と明かす。これは子どもの要求だ。レスターはご飯を食べさせる。そして向かうのはトイレ。アイドルは大小便しないから、もう彼女はアイドルではないということだ。食事と排便は天使には似つかわしくない。彼女はレスターが妄想していたような偶像性と神秘性を失い、天使/妖婦から子どもに帰る。また、レスターはアンジェラに父親らしく娘のジェーンのことを尋ねている。長きに渡る中年の危機、混乱と冒険は終わり、事態の着陸を思わせる。 彼の顔の変化を見てみればわかる(男性性の喪失→男性性の亢進→父親)。

さて、もうひとつ、これを主張するために書いてるみたいなものだが、彼が手に入れたのはイノセンスだ。レスターが自覚せずに、アンジェラを最後の瞬間に手放した、生娘に手を出さなかったことで手に入れたものは、実は彼にとって最も切実に必要であったイノセンスであるように思われる。レスターはアンジェラが初めてかどうか確かめるために心臓の鼓動を聴く。そこから彼に流れ込んできたのは、初めてのセックスをまえにして不安に震える、ゆえに最も高まった状態のイノセンスだ。彼は欲望を停止させる。

セックスする/しないでイノセントかどうかが決まるというのは乱暴な分け方で誤解を招くかもしれないが、それが要素として欠かせないことは、終世イノセンスにこだわり(すぎ)続けたJ.D.サリンジャー、その人生と申し子である『ライ麦畑でつかまえて』を踏まえれば関係がないとは言えない。そもそも『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher In The Rye)』という作品名自体が、ロバート・バーンズの「ライ麦畑で会うならば(Comin’ Thro’ The Rye)」というイタ・セクスアリスを思わせる歌を勘違いして、性的なものを避けることによって成立しているくらいなのだ。『ライ麦』のホールデンの性向は次の箇所に表れている。「ものによっては、いつまでも今のまんまにしておきたいものがあるよ。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきじゃないか。」子ども(自然。穢れのない、歴史をもたない存在)のまま、そのままにしておきたいという心性を指して、アメリカン・イノセンスという。レスターはガラス戸を開けかけて閉じる。彼はアンジェラからイノセンスの声を聴き、イノセントに行動する(行動してしまい、イノセンスを守る)ことで、自ら潜在的に求めていたイノセンスを自身に見出し、回復したのではないか。

落ち着いたアンジェラはジェーンについて話したあと、レスターに「あなたはどう?(How are you?)」と尋ねる。僕らが英語の授業で最初に教わる、最もシンプルな質問だ。だが、これは本当に大事な挨拶なのだ。レスターはほとんど涙目になり、間をおいてから「そんなふうに誰かから訊かれるのは何年ぶりかな」と答える。これは長いあいだの慣れによって周囲に気をかけられることもなくなってしまい、不躾に扱われてきた不憫な男からもれた偽りのない言葉だ(世のお父さん、だいじょうぶですか?)。そしてレスターは確信したように、I’m great.と答える。日常会話では特別意識されないし、字面のうえではきわめて普通の答えだが、ここでの問いかけのHow are you?がレスターにとって切実であるのに呼応して、I’m great.も特別な響きを帯びている(『グレート・ギャツビー』のgreatもそうだ。普通の言葉ながら作品全体に関わる重要な意味がある。Dinosaur Jr.の「グリーン・マインド」の出だしのHow are you doing?も日常会話に含みをもたせている。こうしたものを数え上げればきりがないが)。レスターのgreatには尋常ならざるものがある。無様ながら苦闘し、欲していたものは手に入れ、 混乱した事態をなんとか生き延びることができた、そんな気分。

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アンジェラがトイレに向かったあと、ひとりになったレスターは幸福そうにいささか感極まったように笑い(脚本:Lester watches her go, then stands there wondering why he should suddenly feel so content.)、悦びに満ちてほとんどうれしそうにもう一度、I’m great.、とつぶやく。憑き物が落ちたように。そしてすぐに手にとるのは、映画の序盤で一度クロース・アップされながら見捨てられていたキッチンの写真立て。入っているのは、いまのようなわだかまりのなかった頃の、みなが「無邪気」に笑う家族写真だ。ここで彼は家族がいがみ合うことのなかった頃に帰っていく。それは言葉に尽くせぬものだ。レスターはもう、Man oh man oh man...とつぶやくことしかできない。殺されたあとに想起される走馬灯にもこうした頃の風景、そして汚れを知らなかった少年時代の憧れがそのまま映し出される。 末期の独白は「僕は、僕に起こったことについて頭にきてもいいはずだとは思う。でも、この世にはあまりに美しいものが存在しているから、怒りってのは長続きしないんだよ(I guess I could be pretty pissed off about what happened to me... but it's hard to stay mad, when there's so much beauty in the world.)」 レスターは最後に至って恨みを知らぬ人間に立ち戻っていく。そうした人間の目に映るのは美しいものだけだ。そのような心を取り戻したことを、二度目の、I’m great、は意味しているように思われる。最後の独白もそれを裏づける。

レスターは元々イノセンス込みの人物のように思われる。レスター役のケヴィン・スペイシー、彼はカメレオン俳優ではあるが(当然『セブン』がわかりやすい。ちなみに、この映画もアメリカの罪の話だ)、この映画にかぎって言えば、大きなクリっとした目、薄い髪、おでこが広いことも手伝って顔のパーツが下方にあるベビーフェイスな造作、とぼけた、またほうけたような表情、まるでキューピーというか、赤ん坊みたいなのだ。彼の外見がまずもってイノセンスなのだ。赤ん坊のように彼はよく裸にもなる。強引な処理にも似たリストラに憤り、キャロリンの成功・拝金・物質崇拝から来る心なさを非難し、イメージづくりを茶化す。憧れの車にしろおもちゃにしろ、少年時代の憧れを手にする。男の子らしさとしてのイノセンス。インチキや不正を忌避し、しゃっちょこばった姿勢やクソ真面目さをこき下ろす。これは少年の行状だ。そして、性的充足を始終求めながらも、実は最初から最後まで一度もセックスをすることがない(マスターベーションは頑張っているが)。この映画内では彼はセックスから弾かれ、キリストのように童貞のままなのだ。

本当のイノセンスはインチキ野郎への嫌悪やセックスのあるなしとはまた別のところにあるように思われる。サリンジャーの『ライ麦」でも、主人公のホールデンは「インチキ(phony)」な行為や人間を批判(ハンティング)していく。それが小説の大半を占める。しかし(ネタバレになるが)結末で「僕にわかってることといえば、話に出てきた連中がいまここにいないのが寂しいということだけさ。たとえば、ストラドレーターやアクリーでさえ、そうなんだ。あのモーリスの奴でさえ、なつかしいような気がする。おかしなもんさ。誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」と告白する。彼は、彼の嫌いなインチキ野郎たちはもちろん、自分に暴力を加えた人間すら恨んでいない。サリンジャーは(もまた)キリストのメタファーを作品にしばしばもちこむ作家だ。「恨みをもたず、許す」ことは究極的にはキリストにしか果たせないイノセンスであるわけだが(『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のキー概念。『ライ麦』でイノセンスを根本的に代表するのが、幼くして死んだ弟のアリー。大審問官のキリストもアリーも一切発言するシーンがない)、『ライ麦』がいまだに売れ続ける理由はホールデンのインチキへの痛快な批判の気持ちよさだけではなく(もちろん他にもいろんな要素があって、村上春樹は「社会から脱落していこうとしている少年の恐怖心を、ずいぶんリアルに描いた物語」というふうに見ている)、結末のみならず全体をとおして透けて見える彼の「恨みのなさ」であり、部分的にはやはりキリストに擬せられる無償の慈愛的イノセンスがあるからこそではないか。彼は散々他人を攻撃しながら、憎むことができない(そして、そのような若者はたくさんいるし、それを誰かにわかってほしいと思っているはずなのだ)。

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レスターも最終的にこの世界に近づいている。IMDBトリビアにはこんなことが書いてある。「映画の最後で、レスターの死体を見るとき、彼(リッキー)はしばしレスターの眼を覗きこんで、縛られたように固まる。まるで神から見られているように。(At the end of the film, when he sees Lester's body, he momentarily stares into Lester's eyes, fixated as if looking at God.)」レスターは最後に神的なもの、キリスト的なものに近づく(この映画は復活の話でもある)。しかし、人間は神でもキリストでもないから、レスターはこの世から出ていくことになる(キリストも出ていったけど)。死に顔の口角はわずかに上がり、笑っているように見える。リッキーはその顔を真似て、口角を上げる(それから我に返る)。最後に生の充足を見たからとも言えるが、もうひとつ意味を見出すことができる。サリンジャーが好んでいた文人のひとりでもあるライナー・マリア・リルケ(この詩人も親に陸軍学校に入れられてのちに転校した)の『ドゥイノの悲歌』の「第四の悲歌」。これはウィリアム・スタイロンの代表作『ソフィーの選択』のエピグラフにも使われている。

たれが幼いものを、そのあるがままの姿で示すことができよう。たれが
幼いものを星々のあいだに据え、遠隔の尺度をその手に
もたらすことができよう。たれがかたまりゆく灰いろのパンから
幼い死を形成することができよう——またはその死を
甘美な林檎の芯のように幼いもののまろやかな口に
含ませることができよう?……殺害者たちを
見抜くのはたやすい。しかし死を、
全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも
やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、
そのことこそは言葉につくせぬことなのだ。

リルケにとって「言葉につくせぬこと」とは、「幼いもの」が「生の季節に踏み入る前に」、誰も形象を得ることのかなわない「幼い死」をすでに「やわらかに内につつみ」ながら「恨みの心をもたぬこと」だ。ある日突然、茫漠とした死の恐ろしさに気づいておののく子ども。そのように「生の季節に踏み入」れば「死」は意識の舞台に上りはじめ「恨みの心をもたぬ」ことが難しくなる。生の季節から去り行く間際、微笑むレスターはもう「恨みの心をもたぬ」ように見える。ここに究極のイノセンスを見る。