『アメリカン・ビューティー』 17. 恨みの心をもたぬレスター

落ち込んでいる時期に、レンタルビデオ屋でしこたま映画を借りて、誰にも会わず、頭を空っぽにしてほとんど間断なく何本も続けざまに観るというような習慣をもっているひとは少なくないのではないだろうか。僕の場合、なんとなく選んで借りてきた一本のなかに『アメリカン・ビューティー』が入っていた。きわめて有名な映画だし、もちろん過去に観たことがあった。しかし、時間を経て観たこの映画は、以前とは違う激しいカタルシスをもたらしてくれた。それで何回も観ることになった。出会いはしばしば遅れてやってくる。カタルシスをもたらしたのはなにか、それを見きわめたくてこれを書いています。

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この映画のストーリーの骨子は、意気を失ってしまった男が両手に何ももたない人間(I’m just an ordinary guy with nothing to lose.)に一旦回帰して、それから回復していくというものだ。レスターは二人の若者との出会いをきっかけとして、無様ながら失われていた若々しさと身体性・男性性を取り戻していく。それが回復した状態になるのは、終盤のレスターがアンジェラを抱くことになるシーンだ。しかし、いざというときになって、アンジェラから「本当は初めてなの」という告白を受けたレスターは行為を止める。 彼はアンジェラの胸に耳を当て、心臓の、おそらくは激しい鼓動を認め、身体を起こす。相手が望んでいようが、自分のような男が生娘を犯すことはできないと認識した、という解釈が妥当だろう。彼はセックスしかけて、やめる。その行為でいくつか大事なものを手に入れ、最後の瞬間に最大の変化をしている。

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ひとつめは男性性。セックスしようがしまいが、相手がそれを望んでいるということはそれを手に入れることと近しい。ビートルズの「ノルウェイの森(Norwegian Wood)」の元は、Knowing she would、「彼女にその気があることを知っている(ってのはいいよね)」。曲のほうでは、実は女の子にはその気がなくて鳥のように飛んでいった(This Bird Has Flown)という顛末になっている(「実はその気がなくて、鳥のように(こちら側・此岸・正気から、あちら側・彼岸・狂気に、そしてあの世に)飛んでいった」女の子の物語であるから、村上春樹の『ノルウェイの森』は「ノルウェイの森」なのだと思われる。birdには女の子の意味がある。大江健三郎の『個人的な体験』では情けない男の主人公にあだ名としてこの名がつけられている)。いずれにせよ、レスターはセックスせずしてセックスしたみたいなものだ。こうした感覚が行為の停止を容易にさせた、と考えることもできる。下着をはずすこと自体の興奮。レスターが盗んだのはアンジェラの心です。もちろん生娘の最初をオヤジが奪うというのは人の道からしてまかりならんという意識が前提にあって、その真っ当さをここで捕まえ、ほてっていた頭が冴えたということはある。本来レスターは常識人だ。男性性(男らしさ)を十分確かめたあとで、その欠性から来る強迫観念とフラストレーション、こだわりは解消される。「きみは美しいよ。(セックスするなら)僕はラッキーな男になれるだろうにね(I would be a lucky man. 仮定法過去)」で十分なのだ。

もうひとつは、男性性のような男ひとりで与るものではないタイプの彼のパーソナリティのひとつ、父親に帰ったという成熟(父親らしさ)。「ごめんなさい」と謝るアンジェラにガウンを巻き、抱いてやるレスターは、外の世界で理不尽な仕打ちにあった娘を慰めているように見える。落ち着いたあと、アンジェラは「おなかペコペコだった」と明かす。これは子どもの要求だ。レスターはご飯を食べさせる。そして向かうのはトイレ。アイドルは大小便しないから、もう彼女はアイドルではないということだ。食事と排便は天使には似つかわしくない。彼女はレスターが妄想していたような偶像性と神秘性を失い、天使/妖婦から子どもに帰る。また、レスターはアンジェラに父親らしく娘のジェーンのことを尋ねている。長きに渡る中年の危機、混乱と冒険は終わり、事態の着陸を思わせる。 彼の顔の変化を見てみればわかる(男性性の喪失→男性性の亢進→父親)。

さて、もうひとつ、これを主張するために書いてるみたいなものだが、彼が手に入れたのはイノセンスだ。レスターが自覚せずに、アンジェラを最後の瞬間に手放した、生娘に手を出さなかったことで手に入れたものは、実は彼にとって最も切実に必要であったイノセンスであるように思われる。レスターはアンジェラが初めてかどうか確かめるために心臓の鼓動を聴く。そこから彼に流れ込んできたのは、初めてのセックスをまえにして不安に震える、ゆえに最も高まった状態のイノセンスだ。彼は欲望を停止させる。

セックスする/しないでイノセントかどうかが決まるというのは乱暴な分け方で誤解を招くかもしれないが、それが要素として欠かせないことは、終世イノセンスにこだわり(すぎ)続けたJ.D.サリンジャー、その人生と申し子である『ライ麦畑でつかまえて』を踏まえれば関係がないとは言えない。そもそも『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher In The Rye)』という作品名自体が、ロバート・バーンズの「ライ麦畑で会うならば(Comin’ Thro’ The Rye)」というイタ・セクスアリスを思わせる歌を勘違いして、性的なものを避けることによって成立しているくらいなのだ。『ライ麦』のホールデンの性向は次の箇所に表れている。「ものによっては、いつまでも今のまんまにしておきたいものがあるよ。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきじゃないか。」子ども(自然。穢れのない、歴史をもたない存在)のまま、そのままにしておきたいという心性を指して、アメリカン・イノセンスという。レスターはガラス戸を開けかけて閉じる。彼はアンジェラからイノセンスの声を聴き、イノセントに行動する(行動してしまい、イノセンスを守る)ことで、自ら潜在的に求めていたイノセンスを自身に見出し、回復したのではないか。

落ち着いたアンジェラはジェーンについて話したあと、レスターに「あなたはどう?(How are you?)」と尋ねる。僕らが英語の授業で最初に教わる、最もシンプルな質問だ。だが、これは本当に大事な挨拶なのだ。レスターはほとんど涙目になり、間をおいてから「そんなふうに誰かから訊かれるのは何年ぶりかな」と答える。これは長いあいだの慣れによって周囲に気をかけられることもなくなってしまい、不躾に扱われてきた不憫な男からもれた偽りのない言葉だ(世のお父さん、だいじょうぶですか?)。そしてレスターは確信したように、I’m great.と答える。日常会話では特別意識されないし、字面のうえではきわめて普通の答えだが、ここでの問いかけのHow are you?がレスターにとって切実であるのに呼応して、I’m great.も特別な響きを帯びている(『グレート・ギャツビー』のgreatもそうだ。普通の言葉ながら作品全体に関わる重要な意味がある。Dinosaur Jr.の「グリーン・マインド」の出だしのHow are you doing?も日常会話に含みをもたせている。こうしたものを数え上げればきりがないが)。レスターのgreatには尋常ならざるものがある。無様ながら苦闘し、欲していたものは手に入れ、 混乱した事態をなんとか生き延びることができた、そんな気分。

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アンジェラがトイレに向かったあと、ひとりになったレスターは幸福そうにいささか感極まったように笑い(脚本:Lester watches her go, then stands there wondering why he should suddenly feel so content.)、悦びに満ちてほとんどうれしそうにもう一度、I’m great.、とつぶやく。憑き物が落ちたように。そしてすぐに手にとるのは、映画の序盤で一度クロース・アップされながら見捨てられていたキッチンの写真立て。入っているのは、いまのようなわだかまりのなかった頃の、みなが「無邪気」に笑う家族写真だ。ここで彼は家族がいがみ合うことのなかった頃に帰っていく。それは言葉に尽くせぬものだ。レスターはもう、Man oh man oh man...とつぶやくことしかできない。殺されたあとに想起される走馬灯にもこうした頃の風景、そして汚れを知らなかった少年時代の憧れがそのまま映し出される。 末期の独白は「僕は、僕に起こったことについて頭にきてもいいはずだとは思う。でも、この世にはあまりに美しいものが存在しているから、怒りってのは長続きしないんだよ(I guess I could be pretty pissed off about what happened to me... but it's hard to stay mad, when there's so much beauty in the world.)」 レスターは最後に至って恨みを知らぬ人間に立ち戻っていく。そうした人間の目に映るのは美しいものだけだ。そのような心を取り戻したことを、二度目の、I’m great、は意味しているように思われる。最後の独白もそれを裏づける。

レスターは元々イノセンス込みの人物のように思われる。レスター役のケヴィン・スペイシー、彼はカメレオン俳優ではあるが(当然『セブン』がわかりやすい。ちなみに、この映画もアメリカの罪の話だ)、この映画にかぎって言えば、大きなクリっとした目、薄い髪、おでこが広いことも手伝って顔のパーツが下方にあるベビーフェイスな造作、とぼけた、またほうけたような表情、まるでキューピーというか、赤ん坊みたいなのだ。彼の外見がまずもってイノセンスなのだ。赤ん坊のように彼はよく裸にもなる。強引な処理にも似たリストラに憤り、キャロリンの成功・拝金・物質崇拝から来る心なさを非難し、イメージづくりを茶化す。憧れの車にしろおもちゃにしろ、少年時代の憧れを手にする。男の子らしさとしてのイノセンス。インチキや不正を忌避し、しゃっちょこばった姿勢やクソ真面目さをこき下ろす。これは少年の行状だ。そして、性的充足を始終求めながらも、実は最初から最後まで一度もセックスをすることがない(マスターベーションは頑張っているが)。この映画内では彼はセックスから弾かれ、キリストのように童貞のままなのだ。

本当のイノセンスはインチキ野郎への嫌悪やセックスのあるなしとはまた別のところにあるように思われる。サリンジャーの『ライ麦」でも、主人公のホールデンは「インチキ(phony)」な行為や人間を批判(ハンティング)していく。それが小説の大半を占める。しかし(ネタバレになるが)結末で「僕にわかってることといえば、話に出てきた連中がいまここにいないのが寂しいということだけさ。たとえば、ストラドレーターやアクリーでさえ、そうなんだ。あのモーリスの奴でさえ、なつかしいような気がする。おかしなもんさ。誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」と告白する。彼は、彼の嫌いなインチキ野郎たちはもちろん、自分に暴力を加えた人間すら恨んでいない。サリンジャーは(もまた)キリストのメタファーを作品にしばしばもちこむ作家だ。「恨みをもたず、許す」ことは究極的にはキリストにしか果たせないイノセンスであるわけだが(『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のキー概念。『ライ麦』でイノセンスを根本的に代表するのが、幼くして死んだ弟のアリー。大審問官のキリストもアリーも一切発言するシーンがない)、『ライ麦』がいまだに売れ続ける理由はホールデンのインチキへの痛快な批判の気持ちよさだけではなく(もちろん他にもいろんな要素があって、村上春樹は「社会から脱落していこうとしている少年の恐怖心を、ずいぶんリアルに描いた物語」というふうに見ている)、結末のみならず全体をとおして透けて見える彼の「恨みのなさ」であり、部分的にはやはりキリストに擬せられる無償の慈愛的イノセンスがあるからこそではないか。彼は散々他人を攻撃しながら、憎むことができない(そして、そのような若者はたくさんいるし、それを誰かにわかってほしいと思っているはずなのだ)。

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レスターも最終的にこの世界に近づいている。IMDBトリビアにはこんなことが書いてある。「映画の最後で、レスターの死体を見るとき、彼(リッキー)はしばしレスターの眼を覗きこんで、縛られたように固まる。まるで神から見られているように。(At the end of the film, when he sees Lester's body, he momentarily stares into Lester's eyes, fixated as if looking at God.)」レスターは最後に神的なもの、キリスト的なものに近づく(この映画は復活の話でもある)。しかし、人間は神でもキリストでもないから、レスターはこの世から出ていくことになる(キリストも出ていったけど)。死に顔の口角はわずかに上がり、笑っているように見える。リッキーはその顔を真似て、口角を上げる(それから我に返る)。最後に生の充足を見たからとも言えるが、もうひとつ意味を見出すことができる。サリンジャーが好んでいた文人のひとりでもあるライナー・マリア・リルケ(この詩人も親に陸軍学校に入れられてのちに転校した)の『ドゥイノの悲歌』の「第四の悲歌」。これはウィリアム・スタイロンの代表作『ソフィーの選択』のエピグラフにも使われている。

たれが幼いものを、そのあるがままの姿で示すことができよう。たれが
幼いものを星々のあいだに据え、遠隔の尺度をその手に
もたらすことができよう。たれがかたまりゆく灰いろのパンから
幼い死を形成することができよう——またはその死を
甘美な林檎の芯のように幼いもののまろやかな口に
含ませることができよう?……殺害者たちを
見抜くのはたやすい。しかし死を、
全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも
やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、
そのことこそは言葉につくせぬことなのだ。

リルケにとって「言葉につくせぬこと」とは、「幼いもの」が「生の季節に踏み入る前に」、誰も形象を得ることのかなわない「幼い死」をすでに「やわらかに内につつみ」ながら「恨みの心をもたぬこと」だ。ある日突然、茫漠とした死の恐ろしさに気づいておののく子ども。そのように「生の季節に踏み入」れば「死」は意識の舞台に上りはじめ「恨みの心をもたぬ」ことが難しくなる。生の季節から去り行く間際、微笑むレスターはもう「恨みの心をもたぬ」ように見える。ここに究極のイノセンスを見る。

『アメリカン・ビューティー』 16. 現実とイメージのギャップ / アメリカの美

レスターの最期に入るまえに、この映画の「現実とイメージのギャップ」と「アメリカの美」について。

キャラクター単位の「現実とイメージのギャップ」はこれまでに示したとおり。レスターはイメージ世界、広告業界と夫婦生活と決別し、身体というリアリティの獲得に向けて精進する。革命の主体だから彼は主人公だ。キャロリンは立派なキャリアと成功を目指しながら、仕事が上手くいかず苦悩する。家庭についても同じで、彼女は見映えのする素晴らしい家庭生活を望み、努力もしているが、その欲望とそれにまつわる浅薄さが却って現実の家庭に亀裂をもたらしている。ジェーンは成長を遂げつつある身体というリアリティに馴染んでいない。アンジェラは、モデルとしてキャリアを積むことを目指し、そのイメージの体現に偽悪的に励むが、実際は自信のない処女。フランクはゲイであるというリアリティと和解することなく、男らしい男/父親のイメージを守ろうと必死だ。立派な父親を目指すのは歓迎すべきところかもしれないが、自らがゲイであること(nature)の否定というアンチの心性、強迫観念、フラストレーションに端を発しているものだから過剰で歪だ。テレビで観るものさえ軍隊もの(おそらくは国威発揚的なもの)なのだ。やがて致命的な支障をきたす。リッキーは父親のイメージ保持に奉仕する。バーバラは普通の家庭というイメージのために殉じ/殉じさせられ、もはや現実そのものを失いかけている。

そして、家族という単位の「現実とイメージのギャップ」。50年代に形成された、いまに通じるアメリカの現代的白人中流核家族像、テレビ、洗濯機、(食料品の詰まった)冷蔵庫、いわゆる三種の神器をはじめとする耐久消費家電、潤沢な家財道具、庭つきの広く明るい邸宅、豊かな暮らし向き、たくましく頼りになる父親、優しく美しい母親、かわいい子どもたち、仲睦まじい家庭生活、というモデル。ホーム・スイート・ホーム。戦後日本を魅了し、日本人が映画やドラマや雑誌を通して倣ったステレオタイプ。共産主義圏のそれに対置されてきた、誇るべき「豊かさ」と「幸せ」のイメージ。一方で、多くの物に囲まれながら、いさかいの絶えない、冷たい家庭という現実。逸脱を許さない風通しのわるさ。先進国の豊かな家庭が、いかに多くの収奪と犠牲のうえに成立していたか。それはそのまま『現代社会の理論』となる。呪いという言葉が思い出される。

専門でもないし、価値判断が入ってくるときなくさくなるフィールドだが、もうすこし具体的に、レスター家の不和について考えてみよう。女性の社会進出が進んで、女性が自律的な個として生きる可能性が広がった。一方で、男性は。

これ(リチャード・マシスン『縮みゆく男』)がアメリカで重要な作品だと言われる理由としては、主人公が昔、戦争の英雄だったんだけども、今は生活に苦しんでいる。郊外に一戸建てを買ったんだけども、そのローンが払えない、みたいな話になっていくんですね。当時、これはアメリカで一戸建てを郊外に建てて住み始めてローンを払うっていうのは始まりの時なんですよ。核家族化が進んで...肉体的な労働者が大多数だった中、次第にサラリーマンが大多数になっていく。汗水たらして肉体労働を行っていた男たちが、書類整理や営業とかをさせられるんですね。この時から、働く実感がなくて苦しんだらしいんですね。社会の中で、自分の位置や、やってる仕事がどういう関係性があるのか分からなくなっていくんです。巨大な社会の歯車になっていくから...巨大な社会の中で、自分というものがどんどんと小さくなっていった。その気持を『縮みゆく男』に象徴させているんですよ。それまでガンガン働いてたのが、社会の中での位置がどんどん小さくなっていく。社会の仕組みがどんどん複雑化してわからなくなっていく、そのことが象徴化されてるんですね...実はその頃、アメリカや日本で『サラリーマンが辛くなっていく』って話がたくさん書かれてるんですよ。ところが、その中で他の作品は消えていったのに、『縮みゆく男』だけは残っているんですよ。それは、象徴的に描いているからでしょうね。ハッキリと生活が大変で、実感がわかない、とは書いていないんです。体が小さくなる、とお伽話として書いているから、かえって残るんですね。時代が変わっても普遍的に残るんですね

映画評論家・町山智浩「報われない人が元気になれる小説『縮みゆく男』」 | 世界は数字で出来ている

町山智浩は何度かこの小説を取り上げていて、「『縮みゆく男』ってのは『縮みゆく男根のこと』」というふうにも述べている。これはそのまま広告業界で疲弊し(「働く実感がなくて苦しんだ」)、「ペニスを瓶詰めにされた」レスターに当てはまる。そして、女性が強く、男性が弱い家庭ができあがる。レスターも『縮みゆく男』の系譜にある(途中から反・縮みゆく男)。将来的にまずい事態を呼ぶ家庭のパターンのひとつに奥さんが旦那を軽蔑していて、それを子どもに隠さずあからさまに見せるというのがある。これもバーナム家に当てはまる。これに加えて、もうひとつレスターが奉ずる心性(後述)と、キャロリンの寄って立つ成功主義イデオロギーの齟齬がある。これが「性格の不一致」、価値観の相違だ。もうひとつ注目すべきは、キャロリンの成功が脅かされているという点。彼女の仕事が上手くいっていないことも間接的に家族の機能不全につながっている。なぜ上手くいかないのか。家族(ウチ)と仕事(ソト)の両方に影響するある潮流。

彼女が邸宅を売らんとキャミソール姿で一所懸命に掃除をし、口紅を塗ったくって気合いを入れて見学者を案内するシーンを見てみよう。彼女がなぜそれを売ることができないかは明白だ。必要と思われる要素を外形的に邸宅に仕込み、夫の職業である広告代理店のような紋切り型の派手な言葉で(「ドゥラマァッティック!」)、カタログを読むようにプレゼンテーションをするからだ。その方法は彼女自身の邸宅のあつらえと同じで、家人に安らぎを与えることができないのと同様に見学者を魅了できない(キャロリンは娘に「あなたがもっているモノを(いかにモノに恵まれ、囲まれているか)見てごらんなさい!」と叱る)。不動産業者パーティーにて「不動産業者はよき家庭のイメージを周囲に与えることが重要なのよ」とキャロリン自身がレスターに言っている。彼女は「よき家庭のイメージを周囲に与えること」について、「よい家庭をつくり、その帰結として楽しげな雰囲気を表現できている」わけではなく、よき家庭であろうが『岸辺のアルバム』のようなひどい家庭であろうが、とにかく「よき家庭のイメージをつくりあげて(捏造して)振りまく」といったようなことに腐心している。根を必要としない造花のようなもので、「本当のよき家庭のイメージ」を真に体現できているわけではない。だから、家を売ることができない。『素晴らしき哉、人生!』の主人公も不動産業者だった。彼の家庭がどのようなものであったか、引き比べてみればよくわかる。それはさておき。

見学者は順に、アジア系の男性と(ポケットに手をつっこんでいる。『速読英単語』によると手のひらを見せない相手にセールスは成功しにくいらしい)ちょっとオリジンが外見からはわからない女性(毛沢東のTシャツを着ている)のカップル、白人の後期中年夫婦、黒人の初期中年カップル、アート系らしき女性ふたり(たぶんレズビアンのカップル)。冷やかしもいるかもしれないが。

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キャロリンは彼らに懸命におもねって、愛想を振りまく。白人の夫婦を除いて、マイノリティーであった層に値踏みされているのだ。結局キャロリンはしどろもどろになる。そして彼らが家を買うことはない。長く憧れのスタンダードとして権勢を誇ってきた憧れられるべき「穏当な」模範的白人中間層が、周縁だったはずのマイノリティーに否定されている。価値の基準という点においても経済的にも。「模範的」白人中間層の否定という点で、不幸せなフィッツ家に幸せそうなゲイ(クイア)のカップル(ふたりのジム)が訪ねてくるシーンも同じだ。

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かつて、アメリカの若者のネット個人放送にて、(匿名なのでたぶん)日本人の若者がリアルタイムのコメントをとおして彼に「○○(放送者のハンドル)って本当のアメリカ人?」と尋ねていた。本当のアメリカ人がいるとするなら、それは(嫌な物言いで申し訳ないが、当人のそれとして想定される語彙を使って言えば)「インディアン」ということになる。もちろん彼/彼女が意図していたのは『ジャック&ベティ』のジャックのような白人の男の子だ。そうした、おそらくは当事者たちも自認していた白人、白人中間層、白人核家族というモデル、イメージが失墜していくさまをこの映画は描いている。『アメリカン・ビューティー』とは第一に麗しい白人、白人核家族、それにまつわるもの、そのイメージ、構成要素、アメリカの美として想起されてきたものを象徴する。美を自認する白人女性たちは赤で装飾される。バーナム邸の玄関ドアも赤色だ。日本車が侵略するまえの美しい栄光のアメ車、ポンティアックのファイアーバードも赤色。もうひとつのキーカラーは映画内で赤の補色(実際の赤の補色は緑だが)のようにカラーコーディネートされている青色だ(スレートブルー気味に彩度と色合いは変えてある)。ここに白人の白を加えてみよう。できあがるのは星条旗だ(書いてて気づいた。もう指摘しているひとはいるだろうが)。レスターが癇癪を爆発させるソファは青と白の「ストライプ」でもある(素材のイタリアンシルクにコロンブスを見るのは深読みし過ぎで、単に舶来品で高価なのを示すということだろう)。キャロリンも同色のワンピースを着ている。

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バーナム家の邸宅の正面も赤、青、白の配色。美しい家。その中身はどうだろう。この映画の中心的二家族に「まともな」人間、特にまともな大人はひとりもいない。もう彼らはそのイメージをまっとうできなくなってしまった。建国から続いてきた白人専横は終わりを告げられつつある。そのようなアメリカ。白人専横社会の終わりの宣言(二千うん十年にヒスパニックに人口比で逆転され、白人はマイノリティーになる、プアホワイトの増加、実際の黒人大統領、e.t.c.)はいまでは珍しいものではなくなった。ものづくりの失調、経済の金融化による(白人が主たる構成員であった)中流層の不安定化、失業の増加、その負の波及効果についてはハフィントン・ポストのハフィントンさんが『誰が中流を殺すのか』でしつこく説明している。白人中心の趨勢が脅かされている状況を象徴を通じて描くような映画は少なからずつくられてきた(象徴性の強い映画では『猿の惑星』、『地球最後の男』の系譜など、町山さんにさんざん習った)。『アメリカン・ビューティー』はその止めのように見える。

こうした流れを越えて、クリント・イーストウッドは『グラン・トリノ』(2008)という作品をつくった。これも白人社会の終わりの風景を描くが、彼は肌の色や宗教ではなく、オリジンや属性を越えて受け継がれる、公正さを求めて苦闘する魂にアメリカ性を託した。それは差別や迫害の反対のほうにある移民の国・アメリカの気高い精神であり、歴史の短い国の継承すべき伝統でもあった。

リッキーは鳥の死骸を撮影し、凍りついて寂しそうなホームレスを撮った話をジェーンに語り、最後にレスターの死体を見つめる。ビデオカメラこそもっていないが、ハッと我に返るまで美を観察する視線でレスターを見る。それはイメージではない。死体(body)以上のリアリティはない。彼の作品は死の記録だ。その元になった光景が脚本家のアラン・ボールにこの映画を胚胎させたという、寒空の下、風に吹かれて地面を舞う白いビニール袋(flying bag)の映像についても同様だ。風に翻弄される白いビニール袋=白人たち。それはプラスティックでもある。プラスティックとは言うなればまがいものだ。I want to say one word to you...Plastics『卒業』で示された「現代とは何か」。詩の技法にならえば、風は霊を象徴したりもする。この映像は死と終わりのにおいに満ちている。死んだレスターもこの映像を見る。同時に、そこにいるものとして見られる(これが実はこの映画のスタイルなのだ)。死の間際まで右往左往し続けたレスター。模範的だったはずの白人家族がわけもわからず翻弄され、ひとつの終わり=死を迎える。アメリカ白人中間層が支えていたヘゲモニーの終わり。その文体はアメリカらしくトラジコメディーとなる。美しい薔薇の裏、罪や恥のなかにも美は見出される。それこそが総合的な、大文字の「イメージと現実」だ。だから、この映画は『アメリカン・ビューティー』というタイトルになる。墓碑銘と献花のように。

『アメリカン・ビューティー』 15. 名づけ - ふたりのジム

この映画のおもしろさのひとつに「名づけ」がある。そのいくつかはすでに示したがキャラが出そろったところでまとめてみたい。裏をとったわけでもないので仮説だし、トンデモかもしれない。こじつけかもしれない。脚本家のアラン・ボールはHahaha, you fool! と笑うかもしれない。ただ、製作者が命名に意識的であることは、アンジェラの名字ヘイズを『ロリータ』の本名ドロレス・ヘイズと共通させているところ、キャロリンという名前を1994年の『The Ref』という郊外を描いた映画(日本未公開)でアネット・ベニング(キャロリン・バーナム役)が演じた「Carolyn Chasseur」からとっているというところから明らかであるように思われる。そもそも文芸(映画の脚本だってそうだ)ってのはそういう細工を含んでいるし、意識的な作家ほど名前を適当につけることができない(このくびきから逃れるために意識して無意識的に名前をつけたりさえする)。『ゴドーを待ちながら』の登場しない人物はゴドーでなければならない。これはわかりやすい。しかし、『罪と罰』のラスコーリニコフ、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(Родион Романович Раскольников)のイニシャルはPPPでこれは天地を逆さにすると悪魔の数字666になるって知ってました? 江川卓(ピッチャーじゃないですよ。高名なロシア文学者で翻訳家のほう)が『謎解き『罪と罰』』で書いてた。トンデモくさいが、ドストエフスキーの諸作品についての解説を読むとそうに違いないと思えてくる。まあ、遊びということで。

レスター(Lester)はless(より少ない、小さい)を連想させる。-lessは「欠けている」を意味する接尾辞でもある。こちらの意味が強いかもしれない。-sterは「〜のひと」。いまや小さくなってしまった、なにかを失ってしまっている、何かが足りてない男(I have lost something.)。キャロリンは上述したとおり、アメリカ郊外映画『The Ref』(日本では未流通)の同型役から。ジェーンという最もありふれた名前はアメリカ娘の典型を思わせる(Janie’s a pretty typical teenager.というレスターの発言がある。そうも思えないのだが)。彼らの名字、Burnhamのburnは「焦げた」、ham(ハム)は「大根役者」を意味する。すでに家族のそれぞれがその役割(役割演技)をまっとうできなくなっていることの暗示と考えられる。この映画全体がburnhamたちの話でもある。

アンジェラ(Angela)はレスターにとっての天使だからそのまま。実は処女という含意も想定される。天使はイノセントで基本的に性別さえない。名字のヘイズ(Hayes)は『ナボコフ』のロリータの本名ドロレス・ヘイズ(Dolores Haze)から。ポール・オースター『偶然の音楽』によると、ドロレスという名前はどうも洒脱でない感じ、イマイチ感を覚えさせる名前だそうで、この小説に登場する娼婦はティファニーという源氏名を使っている(ドロレスさん、ごめんなさい)。でも、たしかにドリー(ドロレス)なんとかって女優とかあんましいない気がする。ナボコフがロリータに対してドロレスという本名を与えているのは、少女妖婦(ニンフ)も実のところ平凡な娘にすぎないという含みをもたせているからであるように思われる。アンジェラは本名だが、身の丈よりよいイメージをまとっていることを示すため、大きめの、too muchな名前を与えられているという部分もあるのではないか。

フランク・フィッツ(Frank Fitts)も上述したとおり、「率直な、腹蔵のない・(現実と)調和した」という実際の人物像と矛盾した名前それ自体が、彼の現実との背反を表している。リッキー(Ricky)はようわかりませんなのだが、こじつけるとすれば、父フランクが雄々しい男になることを望んだから、あるいは実は父以上に男らしいから。さらなるこじつけで言えば苦しいがTRicky。バーバラ(Barbara)は幽閉された聖女バーバラから。これはたぶん間違いない。

ゲイのカップル、ジム・オールメイヤー(Jim Olmeyer)、ジム・バークレー(Jim Berkley)の、双子のように仲のよいふたりのジム。「オールメイヤー」は、ジョゼフ・コンラッドの『オールメイヤーの阿房宮(Almayer’s Folly)』からと推察される。この作品のオールメイヤーは異人のなかで浮いている白人で(ということは彼が異人ということだ)、差別される立場という点が共通している。つづりはOlmeyerとAlmayerで異なるが、そもそもコンラッドがまさに『ロード・ジム(Lord Jim)』を書いていることから関連はほぼ間違いない。Berkleyについてはこれもこじつけだが。

 トニー・スタークは幼い頃から発明の天才で、父の後を継いで兵器産業の経営者になってからアメリカ軍のために日夜、最新兵器を開発している。
「スタークさん、あなたは現代のレオナルド・ダ・ヴィンチと評判ですが」
 女性記者がマイクを向ける。
「『死の商人』とも呼ばれていることについてどう思いますか?」
「君はバークレー出身か?」
 映画『アイアンマン』の観客は爆笑した。ここは反戦リベラルの牙城、バークレー大学正門前の映画館だから。
町山智弘『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』P.281「アイアンマンは一人軍産複合体

カリフォルニア州のサンフランシスコ、ベイエリア内バークレー(Berkeley。こちらも微妙につづりが変えてある)、ここはアメリカで最もリベラルだ。リベラルであるということは性的マイノリティーについても寛容(というのもおかしな話だが)ということで、LGBTも当地に集まる。ニコニコと仲がよく、ベターハーフどうしといった感じで(この映画で実は唯一、というか唯二)幸せそうに暮らしているふたりのジム。『ロード・ジム』は白人の青年が自らのスティグマをさとられぬよう各地を漂泊し続ける話。彼らの名前からも、この映画の欠くべからざる要素である(被)差別・迫害のにおいが発している。

『アメリカン・ビューティー』 14. バーバラ

もうひとり、忘れそうになるが忘れてはならないキャラクターにフランクの奥さん、リッキーの母親であるバーバラ・フィッツがいる。バーナム家での、キャロリン→レスターという抑圧と性別が逆で、フィッツ家では、フランク→バーバラということになる。目立たない人物ではあるが、彼女は裏レスターとして設定されているように考えられる。レスターは叛旗を翻すが、バーバラは何もできない。フランクがどの時点で自らの性的指向を彼女に明らかにしたかは知れない。夫婦生活がないことに当初は反発したのかもしれない。フランクはあれだけ息子に暴力を加えるのだから、奥さんがその被害に合わなかったと考えるのは難しい。そして、長く夫にふれられてもいないだろう。Love is touch.なのに。おそらくはヴィクトリア朝時代のようなとしばしば教養派に形容されるような、女性にとっての喜びと潤いのない生活を長期間強いられ、すべてを諦めた結果、無感動で統合失調症気味(幻聴、長期記憶の喪失、倦怠、場にそぐわない言動)になってしまったものと推察される。レスターは「ペニスをメイソン・ジャーに詰められて、流しの下にしまわれている」。バーバラも同様だ。初期状態は共通している。両者は夫婦という体面(イメージ)を保つために、活力を閉じ込められている。登場シーンが四つと少ない彼女だが、外に出ているシーンは一度もない。アメリカでは男たちが戦争に担ぎだされているあいだに、それまで家に閉じ込められていた女性たちが社会に進出し、働く機会と経験を得て、それがウーマン・リブ運動につながっていったわけだが、バーバラはまだそれ以前の時代にいる。ウーマンがリブしてない。彼女はまるで刑務所にいるみたいだ。

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この映画を観たあと、この女性の名前を尋ねられて答えられる観客はほとんどいないはずだ。なぜなら、ただの一度も名前が言及されないから(スタッフロールだけ)。バーバラという名前は正教会の聖女Barbara(バルバラ)に由来する。求婚者から美しい娘(の貞操)を守るため、父親は彼女を塔に幽閉した(Wikipediaの「バーバラ」の項に書いてあった)。要は彼女のセックスが幽閉されているということだ。そして、承認をめぐる闘争という趣のあるこの映画のなかで、彼女はひとり最初から最後までその埒外にいる。それはすなわち、彼女がすでに現実の外、死の世界に近いということだ。頭はもう上手く動いてくれない。しかし、息子が家を出るとき、彼女は涙もなく泣いているように見える。尋常でない様子の息子が「家を出ていく」と言うのに、彼女は止める努力をすることもなく「O.K.」と答える。この家にいるのは幸せではないからだ。息子を止めるという「普通」の判断を下せないほどに。そして出奔していく息子に「レインコートを着ていくのよ」と妙に現実的なことを言う。この子どもの身を案じる「場違いな、過度に現実的な言葉」はフィクションながら、ちょっと筆舌に尽くしがたい。お母さんはいつだって「場違いな、過度に現実的な言葉」を子どもにかけるのだ。

『アメリカン・ビューティー』 13. フランク・フィッツ

フランク・フィッツ大佐役の俳優、クリス・クーパーは台本を一読して「ああ、私はこの人物の頭のなかに入り込んでしばらく過ごしたいだなんて思うだろうか?」と自問し、このキャラを演じる理由(言い訳)を練りはじめたらしい。「なんてネガティブな台本なんだ。あれやこれや気にいらない(I don’t like this and that.)」彼はフランクを演じることを恐れた。「ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」というやつだ。

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フランクほど「現実とイメージのギャップ」を名実ともに強く体現しているキャラはいない。彼は自分がゲイであるという現実(身体)と、父権的な、強く立派な男/父親というイメージに引き裂かれている。前者を否定し、後者を体現するために彼はことさらゲイ差別的な発言をする。銃を集めていることは言うに及ばずだろう。男性性についてコンプレックスをもつ男の防衛機制としてこれほどわかりやすい象徴はない。ゲイを否定するということはすなわち自分を否定するということだ。マッチョなアメリカでゲイや軟弱らしき男を罵倒する典型的スラング「カマ野郎(faggot)」を口にするたびに彼は自らを痛めつけていることになる(この言葉が最もよく使われるのは軍隊だろう)。そのようにして自分で自分を攻撃し、毒を溜め込んでいく。それが彼にとっての「自己構築と規律/訓練」だからだ。これは正しく地獄と呼ぶべきものだ。出口がない。出口はないが、毒は堰を切ってあふれ出す。リッキーの項で書いたように、弱い者はさらに弱い者を叩く。また、自分がゲイであることを認め、衒いなく人生を謳歌するゲイのカップルを逐一口撃する(うらやましさもあるはず)。そして常に不機嫌だ。キャロリン同様。

「クローゼットのなかにいる(closeted, in the closet)」という表現がある。ゲイであることを公言し、LGBTをはじめ被差別者層の権利拡充と地位向上のために戦った政治家を描いた『ミルク』を町山智浩さんがラジオで解説してくれた際に知った。これは、LGBTがその性的指向を隠していることを表す。クローゼット(closet)は、close(しまい込んで閉じる)するところで、その連想からだと思われる。反対はcoming outでこちらのほうが先だが、どこから出てくる(out)かとなれば、クローゼット以上に適切な場所はない。

ここからアイデアが浮上し、作劇上の仕掛けとなったかはわからないが、『アメリカン・ビューティー』でもそのような心象を象徴するものとして、クローゼットではないものの似たような道具が使われている。部屋とサイドボード、そしてその鍵かけの有無だ。部屋は心の鏡と言われるとおり拡張された自我だから、親に話せないことが浮上してくる思春期に子どもは部屋を自分の趣味で彩りはじめ、ときに鍵をかけたりするようになる。リッキーが部屋に鍵をかけているということは、父親に対して心を隠しているということだ。バレるとまずいものを即物的に隠す意図もあるが、それも心を隠していることに含められる。父親は開けるように促し、息子は「勝手に鍵がかかった」とありえない答えを返す。彼が鍵をかけた理由を言うことは不可能だ。『フルメタル・ジャケット』で描かれているとおり、それは軍隊でのロッカーチェックと同じだから。「なぜ鍵をかける必要があるのだ?」と父親は問い、開放を要求する。つまり、心を開けということだ。これは赤狩り時代のアメリカ、その敵である共産主義国家双方が国民に強いたことでもある。フランクは息子がいないあいだに勝手に侵入し、物色する。そんなふうに開けっぴろげにしとけと息子に要求する彼自身は、自分の戸棚が開けられたことがわかった途端逆上する。明らかに矛盾している。親と子の関係とはいえ、非対称にもほどがある。

リッキーは合鍵をもっているのだし、ジェーンにナチのプレートを見せたあとは慎重にそれを戻しているはずなのに(施錠シーンはないが、普段から物品の取り扱いに注意を払うリッキーがそれをしないというのはありえない)、何故かフランクは、まるで神通力が備わっているかのように戸棚が開けられたことに目ざとく気づく。理由は説明されないが、これは、余人に自らの内部を探られたり、見られたりしないように神経症的なまでに敏感に注意を払っていることを示す。そこに侵入されることはなによりも避けるべき忌まわしいことだ。一般論としての「ひとのものを勝手にいじるな」に託つけ、自己構築と規範/訓練=しつけを名目に、息子を執拗に殴りつけることになる。内部を隠しておくことが彼にとってはなによりも重要なのだ。彼はクライマックスで、レスターに濡れた服を脱げと言われても脱がない(『日の名残り』の主人公で執事のスティーブンスは、いちばん大事なことは「服を着ていることだ」と言う。彼も本音を明かすことがない。二重人格的でいわゆる「信用できない語り手」だ)。また映画冒頭、ゲイカップルの「ふたりのジム」が来訪する間際の、予期しない客人の来訪へのフィッツ家の面々の慌てぶりは普段からいかにこの家(家庭)自体が外部の者を受けつけていないか、閉鎖的であるかを物語っている。

フランク・フィッツ。Frank Fitts。frankは「率直な、腹蔵のない」、fitts ≒ fits(fitに三単現のsつき)は、合う、適している、「適応している」。フランク・フィッツ=「腹蔵なく、現実・周囲に適応している」。名は体を表す。しかし、この名は実を表していない。彼は自己をひた隠しにし、自分がゲイであるという現実に向き合うことができず、世界との調和を欠き、周囲を抑圧し、癇癪を起こす。この名前は彼を表していないが、同時に彼をよく表している。外形、すくなくとも彼が目指すべきイメージは名前のとおりの人物だが、現実、性的指向および周囲との調和を図れない実際の状況はそうでない。その距離を隠蔽し、自らを偽っているということ自体を、要は彼の矛盾、裏切りをこの名前は示す。言い換えるなら「名は体(てい)を表す」。皮肉のこもった、なんとも絶妙なネーミングになっている。彼の本当の名前(諱)はCrack Misfittsといったところだろう。

性的指向が理由でなくとも、現実と理想の乖離から欲求不満を深め、他者を攻撃することによってそれを解消しようとしてしまうような言動はむしろありきたりとさえ言える。そうした呪われた回路は当然人の道にもとる。そのように気づき、自らを顧みてそれをやめるといったような「個人の意識と努力」でどうにかなる場合はまだ救いがある(仕事の能力など)。しかし、ありたい人間像を否定する権力作用が外部、たとえば社会に常識として登録されている規範に由来していたりすると事は難しくなるし、その強度に応じて容易には解消しがたい葛藤や欲求不満が生じる(この風通しのわるい閉鎖状況を変えるのも広く芸術の役割だ)。フランクもこの例にもれない。息子を抑圧するフランクを抑圧してきたのは、アメリカのマッチョイズム、ホモフォビア(『アメリカは今日もステロイドを打つ』)と差別だ。

もちろん差別の問題はアメリカにかぎらず世界中至るところにあるわけだが、アメリカでそれがことさら前景化され、独特に語られるのは、ごく簡単にまとめれば(ごく簡単にまとめちゃいかんのですが)、ヨーロッパで迫害されていたプロテスタントたちによって「歴史のない未開の地、無垢なる新世界」(それは本当ではないから常に括弧つき)に自由と民主主義の国を実現せしめるという麗しい理念に基づいて建国と開拓がなされながら、ネイティブ・アメリカンを虐殺し、長く過酷な奴隷制を敷いて黒人を痛めつけ、遅れてきた移民を迫害してきたe.t.c.という矛盾と血塗られた罪の歴史があるからだ。

LGBT差別は近年ようやくクロースアップされてきた「最新の」問題であるとはいえ、やはりそれはかの国では「アメリカの差別問題」の系譜のなかにあるように思われる。映画『ミルク』を観ればわかるとおり、差別の様態(公権力にほとんどその属性だけで暴力を受け、逮捕されたりする)も、その克服に向けた筋道と風景(誰かが声を上げて立ち上がり、リーダーとして敬意を集めていく。そして暗殺される)もキング牧師が指導した公民権運動にそっくりだ。こんなスピーチもある(ヨルバ・リチェン: ゲイ・ライツ・ムーブメントが公民権運動から学んだもの | Talk Video | TED.com)。マイノリティーとして被差別層が連帯する/しようとするところにもそれは表れている。この方面の専門家というわけでもないので、確かなことは言えないのですが。これを書いている最中に、アメリカで同性愛者の結婚が合法とされた。God bless America.

アメリカン・ビューティー』を観て「共感できるキャラ」のアンケートをとったら「いない」が多いだろう。逆に「嫌いなキャラ」であればフランクがかなりの割合の票を集めるに違いない。それでもフランクは「アメリカの差別」という観点と文脈からすればやはり被害者のように思える(架空の話になんだが、これは社会学的な見方で、もちろん属人的な責任を否定するものではない)。アメリカの差別とその暴力性を内面化させられ、擬されているのがフランクだ。アメリカ的不器用さもそこにあるように思われる。キャロリンがアメリカの強迫神経症的成功イデオロギーを担わされているのに対して、フランクはアメリカの差別という罪を一身に、主客両面で凝縮して体現させられている。このふたつの罪は「アメリカン」とタイトルに冠する風刺映画をつくるにあたって意識的にせよ無意識的にせよ外すことのできない、身体的と言っていいパーツだったのではないか。このふたつの罪が結託したかのように暴力を結実させる構造になっていることも含めて。彼らは押し出されるようにして、アメリカの建国・開拓と同時に罪を実現させてきたメディア、銃を手にとることになる。

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『アメリカン・ビューティー』 12. リッキー

リッキー、この「心に茨を持つ少年」には三つの面がある。ひとつめは、世界の観察と表現に関しては他人の意向など歯牙にかけない、我なすること我のみぞ知る的なあけっぴろげな個人主義アウトサイダー性。ふたつめは、それと相反するような、プラグマティックでドライな世渡りに見られる適応性。みっつめは両親に対する素朴な愛情だ。

彼のアウトサイダー性、おそらくは同世代や、彼らが関心を抱くものに興味がもてず、ひとり自分のしたいことを追究して、メインストリームの事物、他人志向型の人間にはそっぽを向くという傾向がいかに形成されたかは、登場からしてそうなのだから想像するしかない。手がかりは15歳でマリファナを吸っていたということだ。現在では認められている州もあるが、キャロリンが厳しく批判することからして普通の行動ではないだろう。ましてや15歳だ。劇中からわかるとおり、彼はアウトサイダーとはいえ仲間とつるむタイプではない。つまり、不良の微笑ましい非行としてマリファナを吸っていたのではない。彼は孤独だし(だからジェーンに会えて本当によかったと言う)、服装もきちんとしているし(聖書売りなどとアンジェラに言われるほど)、手ぬるい不良の群れなんかには唾を吐くのではないか。彼はベーコンを食べない。明確には語られないが、彼は軽度の菜食主義と思われる。菜食主義をアウトサイダーとくくるのは誤解を招くが、すくなくともこの映画内ではその傾向を示すものとして認められうる。同様に肉食=粗暴も図式的にすぎるが、そこから彼が暴力を手放したことを読むこともできなくはない。

彼のアウトサイダー性の理由は三つ考えられる。生来の気質からというのがひとつめ。あとのふたつは父親に由来する。ふたつめは父親の暴力。映画を観終わってわかるとおり、父親のフランクはゲイでそれを隠して生きている。リッキーは性に意識的になってくる15歳で父親がゲイだと気づいた、という可能性はあるだろう。ゲイであろうが、いかなる性的指向をもっていようがそれは個人の自由だし、理解され、保障されるべきものではあるが(僕はそう信じてます)、偏見まみれの現実においては(もちろん映画というか、想像なんですが)リッキーがその事実に懊悩させられたということはあるかもしれない。少なくとも世間知らずの思春期の少年には大きな影響を及ぼすだろう。1999年デビューのイギリスのロックバンドにGay Dadというのがある。これは性的マイノリティーに対する揶揄ではなく、むしろ差別はなくそうの方向の文脈にあるネーミングだが、保守派を挑発する意図もまた明らかだし、実際アメリカではバンド名が物議を醸したりもした。フィッツ父子はもちろんきちんと話し合って理解し合うのがよいのだろうが(お互い言外に理解して忖度し受け入れあう、でもいい)、父親は軍人であり、それを隠している。そのフラストレーションから彼は家族に抑圧的で、暴力をふるいさえする。息子は誰にも話すことはできない。その抑圧的な状況下の逸脱行動としてマリファナに手を出したのではないか(父親がゲイだと息子が非行に走ると言ってるわけではないですよ、念のため。この映画は実情を無理に糊塗することから来る悲劇を描いている。それを踏まえた推測にすぎません)。

15歳でマリファナがバレて、彼は陸軍学校に入れられる。日本ではかつて手のつけられない男子は、性根を叩き直すために戸○ヨットスクールや日○学園高校なんかにブチこまれていた。50代以上のおじさんのなかには、いまでも問題児を指して「戸○ヨットスクールにブチこんでやればいいんだ」と言い放つひともいる。親が金持ちで問題のある子息はとりあえず留学させたりするそうだ。アメリカでは陸軍学校がスタンダードなのかは寡聞にして知らないが、この仕打ちにあった有名なアメリカの作家がいて、この作家とその作品はリッキーの造形に影響を与えているように思われる。

その作家とはずばりサリンジャーと代表作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公・ホールデンだ。J.D.サリンジャー本人については、陸軍学校への転入、『ライ麦畑』のホールデンについては、放校処分、アウトサイダーであり他人と上手く馴染めないこと、他人をよく観察していること、独特な感性と奇矯な行動、虚飾が嫌いなこと、若輩でありながら喫煙しそれにこだわりがあること(煙草とマリファナ)、髪型についての言及(おそらくリッキーがからかわれたのは軍隊的な短髪の髪型であるクルーカットで、これはホールデンの髪型)、帽子が意味ある小道具として利用されている点、精神病院に入れられる点、家族を大切に思っているところ、激しく痛めつけられるシーン、遠くに出奔する(しようとする)ことなど。性格や言動、環境はもちろんかなり違うが(なによりタフさが違う)、製作者が文学系アウトサイダーを造形するにあたっていくらか参考にしたのは間違いないのではないか。世界中の若者に影響を与えた(ときに与えすぎちゃった)『ライ麦』はいまでも毎年50万部売れているのだ。「雨のなかの死」も共通している。またあとでふれる。

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彼が登校初日に髪を丸ごと隠すようにニット棒をかぶっているのは、以前、陸軍学校から普通の高校に戻ったときに同級生にからかわれて激高し、周囲が止めなければ殺すほど痛めつけたからだ。小中学校→陸軍学校(すぐに放校。父親に殴られる)→普通の高校(髪型をいじった奴をしこたま殴ってすぐに退学)→精神病院(父に引きずって連れていかれる。まわり道2年)→今度の高校、ということになる。一連のまわり道と二年間の精神病院での矯正が効いたのか、あるいは諦めたのか、たぶんその両方から、プラグマティックにドライに外部に適応することも身につけたのだと思われる。それは軍服を思わせる、プレーンすぎる服装にも表れている。新しい高校での彼の帽子は防御と適応のための道具であり、ビデオカメラも似た役割を果たす。自分と世界とのあいだに窓=ビデオカメラを置いて外部を眺める。一旦フィルターを置くことで、自分と外界に距離をとることができる。レンズを通して見るかぎり客観的でいられる。もちろんカメラをいつも掲げていれば変に思われるからこの防衛手段は十分適応的とは言いがたいし、処世術としては本末転倒気味なのだが、世界の美(リアリティー)の記録が彼の至高の目的でもあるから、それは他人の視線に優先する。

ここらへんは複雑で独特だ。不適応性を前提として世界に適応するメソッドを身につけているとでも言おうか。ビデオカメラは彼にとって二重の役割(世界との壁と、世界の観察)をもつ。彼以外の人間は常に出来事の当事者だが、彼だけは観察者性をまとっている。これは芸術家の要件でもある(リッキーの撮影癖は監督サム・メンデスの経験が反映されてる)。現実とは別にもうひとつの世界をもっている(物理的にはビデオテープの棚)。審美が彼の基準だ。だから、彼はいかに否定されようが、終始動じず落ち着いている。主要な登場人物で劇中一度も激高しないのはただ異端者の彼のみ。その姿にレスターもジェーンも感服し、影響を受けることになる。革命を呼ぶのは往々にして「まれびと」、遠くから来訪した異人だ。リッキーはトリックスターの役割を果たす(キャラ原型としてのトリックスターとはちょっとずれるが)。引っ越してきた彼が発端となって、玉突き事故のように世界の様相は火花を散らしながら変わっていく。

金を稼ぎ、好きにそれを楽しむためにマリファナの腕のいいディーラーになってバイトを隠れ蓑に上手く顧客を集める。わるびれることもなく機械的に、非情緒的にそれをこなす。大人、同輩問わず、物怖じせず冷静に話せる(その様子にジェーンは唸る。なんせ周りはひっきりなしに金切り声をあげている)。父親との関係も、ある程度この適応の枠に収まっている。横暴な父親に、また父の示す規範に従っているように見せる。偽の小便を用意する。金策が妙なことはバレバレながら、正当なバイトで稼いでいるように父に示してとりあえず安心させる。方便としてしばしば嘘をつく。とにかく彼は父親が恐慌を起こさないように演技する。彼だけが現実とイメージを峻別し、同時に架橋するスキルをもっている。もちろん父を安心させ、その暴力を抑え、関係をなるべく穏当な状態に維持するためだ。ほとんど事務的な趣さえある。

ただ、適応性と超越性だけではない。彼の深みは別のところにある。リッキーは父を憎むべきだとジェーンに言われて「悪いひとじゃない。(He’s not a bad man.)」と答え、つけ加えるように「いや、すごく憎んでいるよ」と矛盾したことを言う。「父親を殺すためにひとを雇おうなんてよくない考えだよ」と真っ当に彼女を諭しもする。父親に折檻された直後、母親に「父さんを頼みます」と願って家を出ている。ひどく権威主義的・差別的・閉鎖的で悪口や呪いの言葉ばかりを吐き、笑顔や優しさを見せることもなく、常に家族を抑圧し、夫人を楽しませるようなこともなく、話し合いをすっとばしていきなり拳を硬め、血が出るほど激しく自分を折檻する軍国主義ファシストを「悪いひとじゃない」と息子は言うのだ。ここには、虐待されているのにもかかわらず親が他人に非難され、攻撃されるやいなや親をかばうような、被虐待児特有の親への独特な愛着があるように思われる(心理学者でもないのでわからないのだが、他者の指摘や糾弾によって親の言動の正当性が毀損がされると、しつけ(愛)と暴力の両義性が消え失せ、暴力しかそこになかったことが露わになってしまう。これを否定せんがための防衛機制として、子どもは親をかばうように思われる、のだがどうだろう。ストックホルム症候群的なこともあるのかもしれない。憶測で決めつけられないが)。

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しかし、もうひとつあってそれらは分けられない、つまり未分なものと思われる、父、フランクの弱さへの憐れみと愛情だ。横暴さは弱さから来るんだ、本質的には悪い人間じゃないんだ、と。そこには保護者的なにおいさえする。彼は憎みながら、父親を愛している。彼の状況は特殊と言っていいが、彼の愛憎半ばする心情のあり方は必ずしも特殊というわけではないように思われる。

そうしたところ、まったくの誤解から口をきわめて罵倒され(「神に誓って、おまえをこの家から放り出してやる」)、話も通じないまま殴打されることで、またなにより誤解とは言え「おまえがゲイであるくらいなら、死んでくれたほうがマシだ」との発言によって、リッキーのかぼそい父親への愛情の糸が切れてしまう。リッキーはゲイではないのに、なぜここに感情の分水嶺があるのか。彼はゲイではないが「ゲイであるか、そうでないか」という前提付きで親が子どもを大事にするかしないか決めるということは、その愛が条件的(conditional)であることを示してしまう。たとえ条件のうち親が望む正解のほうにいるとしても、それは子どもには致命的な、回復しがたい傷になりうるのではないか。話が通じないうえ、ゲイ嫌悪自体も度が過ぎている。それはフランクの恐怖と弱さの裏返しだが、もうつきあいきれない。序盤でもゲイのカップルを罵る父親の発言を否定せず、逆に過剰に肯定することで、トリッキーにジャブ程度の攻撃を父親に加えている(「ああいうゲイの連中を見てると内蔵が口から出そうになるよ」)。父親に絶望したリッキーはわざと自分がゲイであり、そのサービスの達人だと認めることで(そうすれば当然の理路として、父はもう息子を愛することができない)、諦めと悲しみを抱きながら復讐する。父親が自らを偽っていることを告発し(What a sad old man you are.)、彼の元から去る。それでも息子は母親に、弱い父のことを頼むのだ。

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『アメリカン・ビューティー』 11. アンジェラ

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アンジェラもまた「現実とイメージのギャップ」の虜囚だ。彼女が外装するイメージはクールなティーンのモデル。自室の壁はそうしたモデルの顔だらけ。やたらと「性に奔放です」話を繰り返し、自らビッチを演じてみせる。的外れな気もするが、パリス・ヒルトンが人気なのだからその目論みもあながち間違ってもいないのかもしれない。それが人気あるイメージとして大いに流通しているから、カウンターとしてP!nkが「Stupid Girl」などという曲をつくるわけだし。I don’t wanna be a stupid girl.

自己演出だけではなく、実質的な部分もある。チアリーディングで彼女はセンターを張っていて、高校学園ものの女王蜂の立ち位置にいる。しかし、学校で少々野暮ったい女の子二人組の片われに「『セブンティーン』なんか一回載っただけでしょ。太ってるし。クリスティー・ターリントンみたいに振る舞うのはやめなさいよ」と見抜かれているとおり、彼女はその方面のメインストリームの頂点に立てるわけではない。スーパーモデル、クリスティー・ターリントンの身長は178cm。アンジェラは美人は美人だが、スーパーモデルになるには明らかに寸足らずだ(演じるミーナ・スヴァリは163cm。彼女も十代はモデルだったが、身長で不利になりにくい役者に転じ、『アメリカン・ビューティー』に出ているということだろう)。そのように、つまり、隙のない美女の芯を外すように制作者は人選している。体重も落とさせず、トランジスタグラマー(古い)を指定したのではないか。こういうのはしようがないことだ。スヌーピーが言っているとおり、「僕らは配られたカードで勝負するしかないのさ」。あるいは「このいずれかの者(創造主)が仕事場でこしらえ、しばらくのあいだ、わたしたちがその魂にならねばならないようにした身体という『偶発事』によって、わたしたちを永劫に罠にかけたのだ。」(ミラン・クンデラ『出会い』)

レッド・ロブスターに行けば、その場のすべての男に注目され、学校の男子はみな自分をズリネタにしていると彼女は言う。彼女がレスター以外の男性に関心を注がれるシーンはないし、自意識過剰と思われるが、それが本当だとしても彼女が美について一流になることは残酷だがない。「普通であることよりサイアクなことはない(there's nothing worse in life than being ordinary.)」と言明するが、彼女が特別になれる可能性は低い。すくなくとも自分が勝負できそうと考えている美の舞台において、いちばんよいカードを配られているわけではない。

彼女はそれに気づいている。自信がないから言葉で粉飾する。現実とイメージの狭間にあって不安を感じているし、希望に足をかけられているぶん強迫観念も強い。だからこそ、本物の賞賛の視線、つまりレスターの視線がたとえ下卑たものであっても受け入れることになる。それは彼女が待望していたものだ。これは完全に想像でそんなシーンはないのだが、彼女の不遜な態度は日常的に男子を避けさせていたのではないか。あれだけモテるアピールをしながらアンジェラには恋人がいない(本当は臆病というのもあるだろうが)。一方で、リッキーには激しい拒否反応を起こす。彼女が魅力と自認している容姿に彼は一切目を向けないし(「信じられない。あいつ、私をたったの一度も見なかったわ」)、その空虚さ(vanity)を見抜いているように感じられるからだ。結局、彼女はイメージを装うことによって不利益を被り、罰を受けることになる。ジェーンとは決定的に仲違いし、「どこまでも平凡(totally ordinary)」とリッキーに言い放たれ、かぼそい自信を砕かれる。バブルはいずれ弾ける。アンジェラは自ら望んでいたわけだが、イメージとはいえその役割を引き受けるかぎりにおいて、その責任はとらなければならない。酔余の不品行に言い訳が許されないのと同じで、それは自分ではない、ということにはならない。「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない。」(カート・ヴォネガット『母なる夜』)

友だちも自信も失ったところで折よくレスターが現れ、「これまで見たもののなかでいちばんきれいだよ」(これは彼にとっては嘘ではない。レスターが望んでいるのは彼の「夏」の時代の高校時代のイケてるきれいな女の子というような「等身大のイメージ」だから)、「そう努めるんでもなければ、平凡になんかなりようがない」とそれが最も響くときに彼女を褒める。レスターがボタンをはずし、胸をはだけさせたところで、彼女は初めてであることを告白する。ここで観客はいかに彼女が自身を偽っていたか、また自分=観客が騙されていたこと(映画的な仕掛け)を知らされる。レスターは彼女の胸に耳を当てたあと、行為を止めて彼女にニットのガウンを巻く。アンジェラは経験もないのに、友人の父親に色目を使い挑発していたことについて、泣きながら言外に謝る。この夜の顛末からすれば、この謝罪には自らを偽っていたことについての懺悔も含まれているように思える。ここに美があるとすれば、失礼ながら彼女の露わになった身体よりも、イメージを剥ぎ取られた壊れやすい自我が露わになって震える様にこそ、それを見ることができるのではないだろうか。それは(『トーマ』ではなく)アンジェラの心臓の音に等しく、レスターはその鼓動に耳をすます。劣情をまとった互酬的依存関係は終わる。彼女を「だいじょうぶだよ」と抱きしめて背中をさするレスターは、厳しい世間で手酷くしくじって傷ついた実の娘を家で慰めている父親のようにも見える。ここでレスターは成熟を見る。彼も「そして父に帰る」。